産まない生を生きる選択

子どもを持たない、産まない人生を選んだひとりの女として感じていることを書いてみました。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.05.28
誰でも

なんとなくいつかは産むと思っていた

 子どもを産まない女性に対する世間様からの風当たりは相変わらずそう優しいものではない。特に「少子高齢化問題」と絡めた形で産まない女性は非難されやすいし、なんなら「独身税をとるべき」だの「老後に年金を受取るのが図々しい」だのといったムチャクチャな意見でさえ、かなりの賛同を集めてしまったりもする。政治家が「産まない女性」を「社会にとって不必要」といった発言をするのも、残念ながら珍しい光景ではない。「ああ、またか」という気持ちになる。Twitterなどでも定期的に「子どもを産まない女はわがまま」「子育て経験のないひとは未熟」といった話が出てきて、それに賛同する声と反発する声が一時的にどっと増えることもある。
 私は、産むことを選択したひとにはもっと手厚い支援があればよいと思っているのだが、自分自身は子どもを持たずに生きることにしている。しかし、そうはっきり意識して、それを「積極的に選び取るのだ」と明言できるようになったのは、実はそれほど前のことではないのだ。

 私は「気が強そう」「自分の意見をしっかり持っていそう」と思わるようなのだが、実際にはとても優柔不断でそれなりに流されやすく、割と「規範」に馴染んでしまいやすい面ももっていると自分では思っている。校則はあまりごちゃごちゃ考えずに守ってしまうし、子どもの頃は「自分もいつかは結婚して子どもを産んでお母さんになるのだ」と、特にその道に疑問を抱くこともなく、ぼんやりと思っていた。「結婚したら苗字が変わるんだなー」とか「子どもが生まれたらどんな名前がつけたいか」とかごくごく当たり前のように考えてみてもいた。
 その一方で、「自分は周りの女の子たちとどうも違う」という気持ちもずっとあったし、赤ん坊や幼い子ども(自分自身も子どもだったのだが)を「赤ん坊である」「幼い子どもである」というだけの理由で可愛いと思うことはできない人間でもあったので、「女の子は赤ちゃんを可愛いと思うものだ」という思い込みで接されると戸惑ったものだった。

 幸いというべきか、私の周囲には「女の子は結婚して子どもを産むものである」と難く信じているタイプの大人が比較的少なかったように思うし、高校の友人たちも結婚や出産に積極的なタイプが少なかったので、大学院生のときに同期から「私たちは女だからやっぱり子どもは産みたいじゃん?」的なことを言われた時はまあまあ面食らったのだが、思い返すと、私の人生で「女だからという理由で理不尽な扱いを受ける」出来事がそれまでとは異なる形で実感されたのは、大学院でだった。
 研究者を目指す人が集まる場所なのだから、学部以上に勉強や研究こそが評価される場所なのだろうと思っていたのに、容姿の差で同期との扱いが全然異なる教員や先輩(男性)たちがいた。むしろ学部のときは、よく勉強する学生だったので教員からの評判も良かったわけなのだが、大学院に行くと「勉強するのは当たり前」な学生だけが残るので、今度は逆に容姿で扱いが変わることになるのだ。まぁ、クソだよね(ちなみに、私が髪を伸ばしてスカート履いただけで扱いが180度変わった奴らがいる話は以前書いているんだが、マジで視覚情報の認識が雑すぎる)。と、ちょっと脱線してしまったので本題に戻ろう。

大人になっても変わらないこと

 私が「自分は子どもは産みたくないな」と思い始めたのは、小学生高学年〜中学生くらいだったような気がする。もともと母親から「悪阻がつらかった」「出産が痛かった、苦しかった」「赤ん坊の世話は本当に大変だった」という経験談を聞かされていたこともあるかもしれないが、うんと子どもだった頃の自分には想像できなかった「大変さ」というものが、生理が始まり、生殖について知り、体調の悪さや身体の痛みなどをなんらかの形で経験しながら成長するにつれて、具体的に想像できるようになってきたことは大きかったのではないかと思う。それでも、「大人になればなんとかできるようになるのかも」みたいな気持ちも確実にあったと思う。
 子どもの頃に「大人になったら変わるのだろう」と思っていたことには、「乗り物酔いをする」「すぐ泣いてしまう」などもあるのだが、40歳を過ぎたいまだに全くどうにもなっていないのが現状である。自分が歳を重ねて思うことは、「大人はたいしてオトナじゃないな」ということだ。キース・リチャーズが50歳くらいの頃に「俺もオトナになったよ」と言っていたのを見た25年前にはピンとこなかったが、今ならそういう気持ちもわかる。
 当たり前のことだが、人間はあるとき突然オトナになるわけではないし、子どもの自分と大人の自分は地続きなのだから、変わる部分もあれば変わらない部分もある。乗り物酔いのような体質的なものはなかなか変わらないようだし、感情が高ぶると「泣く」という形で発露してしまうのもいまだにコントロールが難しい。そういうことも考えると、やっぱり悪阻も出産も怖いし、寝不足で赤子の面倒をみることも、自分には無理なように思えてくる。

 「子どもを産む」というのは、私にとっては考えれば考えるほど、恐ろしい選択に見えてしまう。まず、結婚は失敗だと思ったら離婚することも可能だが、出産はそうはいかない。ある一定の期間が過ぎれば中断することもできずに「産むしかない」状況に追い込まれる。そして、その間、個人差はあれど悪阻などの体調の変化や悪化も経験することになるかもしれない。産み出す瞬間は苦しくて痛いだろうし、産んで終わりではなく、そこからが長い。私のように飽きっぽい性格の人間には全く向かない営為であると言わざるを得ない。
 また、私は何か拘りのあることについては、ついつい他人のやり方に口を出してしまいがちな人間でもあるので、それが自分の子どもともなったら絶対に過干渉になることが目に見えている。子どもがきちんと出来ないことにイライラしてしまいそうな自分も想像できてしまう。そんな親に育てられるのは嫌だろうし、「子育てを通じてそういう自分も成長していくことができました」みたいな【私の成長日記】に子どもという他人を巻き込むのも申し訳ない感じがある。

 人間は完全にひとりでは生きていないので、私が子どもを持たなかろうが、私の性格の問題点は誰かに迷惑をかけたり影響を与えたりはしてしまうと思う。しかし、人間関係や仕事はある程度は選べるが、子どもは親を選べない。そして、他人だと思えば「どうせ他人だし」で流せることでも、親子関係になるとなかなかそれも難しいところがある。そうなると、やはり子どもを産まないという結論に行き着く。

 と、いろいろと書き連ねてきたが、仮に上記のような迷いがいっさいなかったとしても、経済的な理由から私は子どもを産まない選択をしたであろうとは思う。非正規雇用の身なので、産休・育休もないし、働けない期間は収入がない期間になってしまう。少子高齢化を本気で憂うのであれば、私のような立場の人間が、生活の心配をせずに妊娠・出産・育児ができるようなサポートをこそ準備するべきだろうと思う(いや、それでも私自身は産まないんだけどね)。

産まない人生を選ぶ個人的理由

 私は既婚者だが、夫とは子どもを持たずに2人で生きていくことで納得しあっている。そして、それは「子どもを諦めた」わけではなく、「2人で暮らすこと」を選んだからだ。
 私が子どもを産みたくない理由の中で大きなものは、自分のパートナーを自分で独り占めしていたいからというのがある。非モテ人生なので「自分が好きになった相手も自分のことを好きになってくれるなどという奇跡のようなことがあるってマジ?」みたいな気持ちで生きていた。世の中には恋愛小説や恋愛映画がたくさんあって、あたかも当然のことのように相思相愛になってカップルになっていくし、現実社会でもカップルになっている人たちがいる。そのことが「一体どうしてそうなるんだ?」と思えるほど、好きになる相手が私のことを恋愛対象としては見てくれない世界に長いこと私は生きていた。短期間付き合った人たちも私に勝手に自分の理想の女性像を投影している感じで、この世に私のことを理解してくれる人間などいないかもしれないし、一人で生きていくぞ!と決意を固めつつ、それでも「運命のひとと出会う物語」が大好きな人間でもあるので、50歳くらいまでに「一緒に暮らしてもいいな」と思える相手と出会えたらいいなぁと思っていた(なんで50歳かというと、知人女性が50歳過ぎて結婚したという話を聞いたときに「一緒に暮らしたいと思える相手が現れるまで焦らない方がいいんだな」と思ったから)。
 やっと出会った相手との時間は私にとっては子どもを持つことよりも価値がある。映画やドラマの感想を語り合ったり、一緒に音楽を聴いたり、政治について議論したり…大人2人だからこそ共有できる時間は貴重だ。これまでにニュースレターで書いてきたことの中にも、そうした時間によって自分の考えがうまく言語化できた結果がたくさんある。一緒に過ごす時間、共有した話題の1つ1つが掛け替えのないものだ。私は、この時間を削ってまで、妊娠・出産・子育てをしたいとは思えない。
 勘違いしないでほしいのだが、これは子どもを産むことを選択したひとの人生と比較すべきことではない。私の人生にとってはそうだ、という話でしかない。逆に言えば、子どもを産む選択をした人たちも、私の人生の選択に口出しをしないでほしいのだ。

 「産めばかわいいし、なんとかなるよ」という無責任なことを言う人は少なくない。しかし、もし、可愛いと思えなかった場合、誰が責任をとってくれるのだろうか?なんともならなかった場合に頼れるだけの福祉が充実した社会だと言えるだろうか?「子どもがいないと老後寂しいよ」と言われたこともあるが、自分の寂しさを他人で埋めようとするのはとても危険だと思っているし、仮に寂しかったとしても、それを受け入れるのは私の役目なので放っておいてほしい。

 あと、少子高齢化が問題だから産むべき論者は「産みたくない」と言っているひとに「産むべき」と言う労力を、「2人目がほしいけれど経済的に無理」「子どもは欲しいけれど育てていくことには不安がある」という女性たちが心配せずに産めるようにサポートしろ!と国や社会に訴えることに使ってもらう方がいいよ。いくら数字を出されたところで、産まない決意をしている女性は産まないから。あとは公共の場で子連れに嫌がらせをしたりする大人に注意する活動をお勧めしたいのだが、たぶんやらないんだよね。むしろネット上で「少子化は問題だから女には学問も仕事も必要ないから子どもを産ませろ」みたいなこと言ってるやつが、現実社会では子連れやベビーカーに嫌がらせしてても驚かない。「女」という属性を批判したり虐めたりするためなら、その理由探しの労力は惜しまない人間がたくさんいるから。
 そんな社会で子を産み育てようと思う女性が減っていくのはある意味自然の摂理だと思うのだが、「子孫を残したいという本能がある」と射精欲の正当化にばかり忙しい人たちには肝心の「受精した後」のことが何も見えていないのだから、お気楽なもんだなとあきれたついでに🐻と薪を用意しないといけない気持ちになるわけである。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 他人の「自分語り」を聞かされるというのも場合によっては怠いものなので、どうしたもんかなと思いましたが、私の個人ニュースレターで私が自分語りする分には迷惑度は低いだろうと勝手に判断した結果、こんな話をしました。
 男性に対しても「結婚してこそ一人前」「子どもを持ってこそ一人前」みたいな社会的な圧力はあると思いますが、女性が受ける「産んでこそ一人前」圧力はその比ではないと感じます。しかも、自分の胎内で育てて産むというのは女性身体にしかできないことなので、ぼーーーっとしてても父親になれてしまう男性と自分の身体を使って命を懸けて産むことを求められる女性では、「自分の子を持て」と言われたときに想定しなければいけないことに大きな差があるわけで、社会的な圧力が同程度であったとしても、やはり比較にならないと感じます。

 「子どもを産むと"○○ちゃんママ""○○ちゃんのお母さん"になってしまうが、産まないと"ただのおばさん"になるだけ」(大意)というツイートを目にしたのですが、別に何者かにならなくてもいいということはさておき、こうした発言は"女性の多様性"を認めない感覚がベースにあるように思います。"ただのおばさん"であっても、それぞれが別の人格で別の人生を歩んでいる多様な女性なのに、それを認めないからこそ、まるで女性は単体では無個性で無価値だから「ひとりの男(という個性と価値のある存在)の子」を産むことによってのみ、個性や価値を獲得できるかのように「"○○ちゃんママ"になれなければ"ただのおばさん"」と言われるわけです。男性は"○○ちゃんパパ"になれないなら"ただのおじさん"などと言われないのに、わざわざ「お前は子を産まない限り何者にもなれないのだ」と女性だけが脅されるわけです。

 しかし、男性であってもたいていのひとは何者にもなれないし、何者にもなれない大勢のひとがいるから何者かになれるひとも出てくるわけなので、そんな戯言には耳を貸さずに生きていこうと思います。

 では、また次回の配信でお会いしましょう🐸

 ご意見やご感想などもお待ちしております。

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