「嫌知らず」な男たち

男性が「女性の嫌だ」を無視する問題は、日常のちょっとした出来事に留まらず、男性から女性への性暴力の軽視、性加害者男性に甘い司法へと繋がる女性差別の問題だ。性犯罪は「男中心社会による性的資源としての女性差別」と切り離せないことについても書きました。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2024.12.27
誰でも

注意:今回は12000文字ほどあります。 後半、滋賀医大生による性加害事件の話になります。あまり生々しいことは書いていませんが、性被害に関する記述があるので、不安な方は気分や体調が落ち着いているときに読んでください。

今年の流行語大賞

 私の観測範囲での今年のフェミニズム流行語大賞は「嫌知らず」ではないかと思う。このニュースレターを読んでくれている人にはお馴染になりつつある言葉だと思うが、ごく手短かに言うと「男性が女性の『嫌だ』を受け入れないこと」を表わす新語である。
 「女性の『嫌だ』を軽視している(ことにさえ無自覚な)男性」というのは、非常に多い。しかし、基本的には無自覚なので、「嫌がっていると思わなかった」「そんなに嫌だったならはっきり言ってほしかった」と青天の霹靂とばかりに驚いたり狼狽したりした揚げ句、最悪の場合、「はっきり嫌だと意思表示をしない女性が悪い!」と責任転嫁が始まるというのも、女性にとっては見慣れたいつもの光景とさえ言える。また、女性自身でさえ、「自分の意思表示の仕方が悪かったのかもしれない」「もっと自分が意見を言えるように強くならないといけない」と自分を責めてしまうことも珍しくないように思う。これは女性が常に自省するように社会化されるからだ。しかし、あまりにも似た経験をしている女性が多いということが分かってくると、「これってもしかして、私個人の問題じゃなくて、男性による女性蔑視が原因なんじゃないか?」という視点を持つことができるようになる。その結果、生まれた言葉としては「マンスプレイニング(マンスプ)」(=男性が女性に対して、相手を自分より無知であると決めつけた態度で何かを説明すること)なども挙げられるだろう。
 「嫌知らず」という概念も、有名無名問わず多くの女性たちの経験が集まって生まれた。言葉によって社会が作られる側面もあることを考えると、こうした概念が生まれたことは、女性差別を認識して分析し、それに対抗して差別を解消していく上で、小さい一歩かもしれないけれど着実に前進するための一歩になると思う。

 SNSでの男性たちの言い分によると、男性は、自分が『嫌だ』を表明して、それが受け入れられないという経験があまりなく、どうやら男性同士ではそういった問題はあまり起きていないらしい(この主張の当否についてはここでは扱わない)。そのため、「女性は男性と違って意思表示が下手なのだ」とか「“お気持ち“表明だけで、きちんと理由などを言わないからだ」とか、まぁ、とにかく女性の側にコミュニケーション上の問題があるのだと短絡的に結論する。
 確かに、女性の方が婉曲表現を使いがちな嫌いはあるかもしれない。だが、女性が直接的な表現をせずに、クッション言葉を挟んだり、曖昧な表現をするのは、コミュニケーション能力が低いからでは決してない。「相手を不必要に傷つけないように」という気遣いであったり、「はっきり『嫌だ』を伝えて逆恨みされると怖い」という自衛であったり、むしろ高度なコミュニケーション能力を発揮している結果でさえある。あるいは単純に女性の方が「丁寧な言葉遣いをする」(英語などにしても丁寧な表現は非現実話法・仮定法の形を借りた婉曲表現になる)ように躾けられる傾向があるから、という理由も考えられるだろう。
 いずれにしても、女性が「(男性が主張するところの)はっきりした『嫌だ』」を表明しにくい理由についても男性は自省しながら考えてみる必要があるように思うが、それ以上に、そもそもの男性側の受け取り方というか、「女性からの『嫌だ』の受け取り拒否の態度」が何に起因するものなのか?の方にこそ焦点を当てるべきであろう。つまり、女性の『嫌だ』に気付けない・女性の『嫌だ』は無視してもいいと思ってしまっている自分たちの問題であるということ、その問題に目を向けようとしないことも含めて、これは男性たちによる女性差別(女性蔑視)という根深い差別の話なのである。

No means No(保存版「Noのサインを見逃さない方法」)

 女性は、誰かからのお誘いを断る際に、対男性に限らず、女性に対しても「遠回しに断る」ことが少なくないと思う。そして、女性同士のコミュニケーションに限れば、遠回しの断りが通じないという経験は比較的少なく済むし、仮に通じなくてもそれで相手が逆上して身の危険を感じるという場面もあまり想定する必要がない。女性同士であれば、筋力や腕力がある程度は拮抗していると考えられるからだ(それでも、相手が学校や仕事上の先輩の女性であったり、体格がよい女性であったりすれば、より慎重な態度をとる方が自然だと思うが)。

 以前、「男も女同士のようにお互いにケアしあうべき」という話が盛り上がった際に、「発達障害があって“女子同士のあうんの呼吸“みたいなものに付いていけなかったから、女性であればケアやコミュニケーションが上手なはずだという前提の話に乗れない」と呟いている女性もいたし、限りなく明確に「できれば(○○は)やめてほしい」と表明しているツイートをみて、(「必要であれば」という前置きすらなく)「○○してもいいってことですね!わかりました!」とリプライしている女性を見た事もあるので、当然ながら個人差はあるだろうと思う。
 しかし、「男性が女性からの拒絶を受け入れない」現象は、個人差ですむレベルではなく、かなり普遍的に見られるし、女性から肯定的なリアクションが来なかったことに対する怒りを表明する男性の例は(刑事事件化されているものを含め)かなり多い。SNSひとつをとっても「リムられた」「ブロられた」くらいで逆恨みして意味のわからいことをグチグチ言い出したりする男性もいるのだから、日常的に接する機会のある、同じ学校や会社の男性や通学・通勤圏内で顔を合わせる男性に対して、女性がどのくらい自衛的婉曲表現を用いらざるを得ないか、想像に難くないというものである。

好き=ただのわがまま

 こうした女性の「自衛」意識について初めて知って「なるほど!」と思った、と言いながら「それでも思わせぶりな言動は男性を傷つけるから気をつけてほしいな~」などと言っている男性もSNSで観測され、さっきの「なるほど」はなんだったの??とズッコケるしかないのだが、おそらく、その男性は心の底から善意で「女性が警戒するのはわかる(納得した)けど、傷つけられる男性にも共感する」と表明しているつもりで、そのせいで、女性の側にだけ「男性への配慮」と「男性からの自衛」の負担を押し付けることを言っているという自覚が全くない。そのため、女性から「あなたのその意見がすでに『嫌知らず』ですよ」と指摘されても、そんなものはどこ吹く風とばかりに、他の男性アカウントと「男同士だったら当たり前にできるコミュニケーションが男女になるとできなくなるってありますよねー」みたいなやりとりを続けていた。
 ついでに言うと、大抵の人間には独り善がりなところが多少なりあるものなので、交際の打診にしてもデートのお誘いにしても、断られた側が多少は傷付いてしまうのは当たり前とも言える。自分が好意をもった相手に「なし」って思われていることを知らされるのは悲しいというのもまあわかる。でも、そもそも「人を好きになる」のは完全に好きになる側のワガママ、自分勝手に過ぎないのである。それを相手が受け入れなければならない義務などないし、「何年にも渡って思い続けてきた」とか「デートプランを一生懸命考えた」とかそんなことは、残念ながらそれだけでは何の意味も持たないし、好きになった側の自己満足でしかない。

社交辞令との見分け方

 「女性の断り方が曖昧でわからないんだ!」という男性もかなりいるようなのだが、デートに関して言うなら、「時間がない」「忙しい」などの理由で断られた場合、相手から「でも、○日なら大丈夫ですよ」などの代替案が返ってこないのであれば、「あなたとデートする気はありません」という意味であると受取ってまず間違いない。デート自体に乗り気なのであれば、男性に「脈無しなんだ」と勘違いさせないように、女性側もそれなりに考える。なお、単に「また機会があれば誘ってください」くらいだったら、ただの社交辞令だ。ポイントは具体性があるかどうか。万一、「社交辞令じゃなくて誘ってほしかった」という女性がいたとしても、誘われたくない女性をしつこく誘い続けて"キモいヤツ"認定されたり、後でそれが時間の無駄だったと思い知ってヘコむよりも、とりあえず諦める方がお互いのためである。交際の打診については、明確なYes以外は全部Noだと思っておけば安心だと思う。

自分を納得させるのは自分の仕事

 また、「断るならこちらが納得できる理由がほしい」という意見も目にしたが、多くの場合、男性は理由を説明されても納得しない。「あなたのことが好きではないから」と言われても、さらにそれに理由を求める。つまらない自尊心が邪魔して、断られたという現実に納得できないから。
 理由を聞きたいのは、「悪いところがあるなら直す(から付きあってほしい)」みたいな気持ちもあるのかもしれないが、そもそも人を好きになることがワガママなのだということを思いだしてほしい。「俺のワガママを受け入れたくない理由を説明しろ!」というのは自己中心的で幼稚である。自分のワガママが受け入れられなかった時、そこに不満があろうとも、その現実を自分に納得させるのは自分の役割である。他人に「俺を納得させてみろ」と言うのは間違いだ。
 それに、実際に「嫌いな理由」を正直に言われたら、今度は「断るにしてもわざわざ酷いことを言って傷つける必要はないはずだ」などと言ってさらに怒るのも目に見えている。理由を告げないというせめてもの慈悲に感謝したまえ、と言いたい。

ゴミはゴミ箱に

 「せっかく好意を示してくれたのに誠意ある対応をしない女性が悪い」という意見も目にしたが、好きでもない相手からの好意は単なる迷惑(むしろゴミ)でしかない。お前はゴミを押し付けられて「せっかくゴミをプレゼントしてあげたのになんで感謝しないんだ」とか言われて納得すんのか?という話である。「ゴミだなんて酷い!」と思うかもしれないが、「好意=全てありがたいもの」という前提を捨ててもらうにはこれよりも穏当な表現では伝わらないようなので…。そもそも、男性の方が「断られちゃった、そっかー、残念。じゃ、別のご縁を探そう」って颯爽と切り替えてくれるようになれば、ゴミとか言う必要はないのだ。なんだかんだとゴネるヤツがいるから、ゴミに喩えて説明される事態になっているのだよ。

 さて、長々と、女性からしたら「何を今さら」な話をしてきたが、こうした男性たちの「嫌知らず」の言動の根底には何があるのか、と言えば、やはり先述したように女性差別だろうと思う。

男性が共感できない意見は「感情的」と見なされる

 嫌がる子どもをしつこくからかう大人を思い浮かべてほしい。大人たちは時として「かわいいな~」と思って子どもをからかう。そこには「悪意」はないし、子どもを傷つけてやろうという積極的な意志はないだろうが、彼らが子どもの「嫌」を聞かないで済むのは、大人の方が子どもよりも身体的にも社会的にも強いからだ。場合によっては、子どもの方には「嫌だ」ということを言語化する能力も足りない。大人は無意識にであっても、それが分かっているから子どもをからかうのだ。その証拠に、大人は大人相手に同じことはしない。
 男性が女性の「嫌」を無視するのも、これと少し似ているのではないかと思う(もちろん、それだけではないと思うが)。男性は女性の「嫌」を無視しても、身体的にも社会的にも大きな影響を受けない。近年(おそらくは#MeToo以降)、ようやく「社会的」な面では多少の影響を受けるケースも出てくるようになったが、それでもまだ「嫌」を表明した女性の側が受ける被害(二次被害も含む)、女性が「嫌」を無視される被害の方が圧倒的に深刻だと言わざるを得ない。

 この社会には女性蔑視が蔓延しているので、たいていの男性は気付かないうちに「女のおしゃべりはくだらない(中味がない)」「女は感情的で非論理的である」と思い込むようになる。そのため、女性が何かを真剣に訴えていても、「はいはい」と適当に受け流してしまったりする。
 「そうは言っても、女性は男性が“解決策“を示しても納得しなかったり怒ったりするじゃないか」という実感がある男性もいるだろう。ただ、そこで「女は共感脳、男は解決脳だから」などと思ってしまうのは、それこそ非論理的である。
 例えば、女性が「○○で困っている」という相談をした場合のリアクションとして、「××すればいいだけじゃん」は「それは困ったね。でも、××すれば解決するんじゃない?」より印象が悪い。前者は確かに解決策(らしきもの)を提示してはいるが、そこに「そんな簡単なことも思いつかないのか、やれやれ」だったり、「すぐに解決策を提示できる俺スゴイ」だったりと、少なからずマウンティング(orマンスプレイニング)が入っている物言いだからだ。一方、後者はまずは「共感」を示しているわけだが、その後に解決策の提示もしている。これは相手の感情を考慮した理性的な対応だと言えるだろう。つまり、純粋に形式を見た場合、「解決脳」を自認する男性に多い前者の物言いは、相手に対して非共感的なだけで自らの優越意識を隠せないという点において感情的になっており、後者の物言いは相手の感情を尊重しつつ解決策を提示する共感的かつ理性的なものになっている。どちらが好ましいリアクションだろうか?
 その上で、「俺たち男は解決脳」とでも思い上がってそうなタイプの男性の提示する解決策ほど、「女性にとっては」あまり役に立たない提案であることが多い。男性は女性として生きたことがないため、それに自覚的でないと「健常者成人男性中心に作られた社会」での困りごとに鈍感になりやすいからだ。だから、女性が困る理由(何に困っているのか)がうまく飲み込めなかったりする。それだけならまだしも、多くの男性は「俺の考えた最強の解決策」に感謝しない女性を「愚かで感情的だ」と思うだけで、自分の方にあるかもしれない見落としには目を向けないし、「どうやら自分は見当違いのことを言ったらしい」と薄々気付いても、それを認められずに見苦しく「いかに自分は物事をよく考えているか」みたいな言い訳がましい自己顕示を延々と続けるのである…(女性から共感して欲しそうに)。

 さて、少々脱線したが、こうした実例を何件も見ていると、「女は感情的」の正体は、「男性の『感情の発露』や『共感を求める気持ち』は感情的だと認識されない」なのではないだろうか。男性には「怒り」「不機嫌」という感情をむき出しにする人が多いし、「カッとなって」犯罪を犯す率が高いのは男性であるにも関わらず、男性は男性を感情的だと思わない。そして、女性の場合、言っている内容に理があろうとも「単なる感情的な女」「ヒステリー」と見なされて、話を聞いてもらえない。特に男性は自分にとって耳が痛い話であったり、自分が不快に感じる話題だと、「女のヒステリー」だと認識したがる。その場合、感情的なのはむしろ男性の方なのだが、男性=非感情的だと思い込んでいる彼らは、自分の感情を女性に投影して、「女が感情的になっている」と錯覚してしまうのではないか。
 そうなると、「男性にとって聞きたくない話(女性の「嫌だ」を含む)」は、「感情的な女性の戯言で聞く必要がないもの」と理解され、結果として、女性の「嫌だ」を(積極的な意図はないまま)無視してしまうことになる。それも、「嫌知らず」の根底にある問題なんじゃないか、と思うわけである。まぁ、多分、この文章も「結局長々お気持ちを書いてあるだけで女さんが感情的であるこということしかわからないw」とか言われるんであろう。地獄で釜茹でにされてほしいね。

 などということを、つらつら下書きをしていたところに、滋賀医大の学生による集団レイプ事件の逆転無罪判決のニュースが入ってきた。
 以下、それ関連で考えたことなどをまとめる。

怒りと絶望感の狭間で

 正直なところ、最初は気が滅入ってしまって直接言及する気力が湧かなかった。今も「書き出しかけて何度も消す」を繰り返しているのだが、おおまかに言って、「無罪判決」そのものへの疑問、裁判長の「同意の可能性」「虚偽の説明の疑い」への言及に対する怒りと絶望、判決に便乗してセカンドレイプに勤しむ男たちへの怒り、法曹クラスタの「無知な女に教えてあげよう」マナーへの怒り、それにまた乗っかるミソジニスト&左派・リベラル男性たちへの怒り…これらが渾然一体となって襲ってくる感じがある。それぞれ単体では「またいつものアレか」で、見慣れているところがあるのだが、これだけ一気に押し寄せてくると感情の処理が追いつかない。まぁ、そもそもが私が感情的な人間であり、変な共感(エンパシー)も発揮しがちでもあるから、普段から感情の処理には苦労しているのだが。

無罪判決と「同意」の可能性

 全部に言及していると3日経っても書き終わらないと思うので、いくつかの点に絞って話していこうと思う。まず、「無罪判決」と「同意の可能性」についてだが、女性の一般的な感覚で言えば、3人の男性に囲まれた時点で同意の上での行為とは思えないし(1対1でも抵抗は難しい)、仮に迎合的な態度をとったり自ら進んでやったように見える行為があったとしても、それは「性交への同意」ではなく、その時にとり得た最大限の「自衛」でしかない。私自身も性被害に遭った際、「とりあえず射精さえさせてしまえば助かる」と思った記憶がある。しかし、その記憶でさえ、本当にそのときの記憶なのか、あとから辻褄合わせに「そう思った」と記憶の書き替えを行ったのか、どっちなのか自信がなくなるときもある。終わった後で加害者と笑って雑談さえした。あれがもし動画として残っていたとしたら、きっと「暴行や脅迫があったわけではない」と認定されるのだろうし、「同意があった可能性が否定できない」ことになるから彼は無罪だろうね。そういう具体的な自分の被害体験と直に結びついていることでもあるから、「冷静に」はなれないし、なる必要も感じない。
 そして、私は基本的に「司法」を信じていない。戦前日本の特高警察は治安維持法に則って行動していたし、ナチスの裁判官はナチスの法に則って「白バラ」の学生たちを死刑にした。法とは、人間が作り人間が運用するものである以上、完璧ではないし、法を作る立場の人間に都合の良いものや法を作る立場の人間には見えていない被抑圧層の人々に対して過酷なものになったりする。
 だから、厳格に法に照らし合わせた結果、「無罪」という判決が残念ながら下されることがあることは理屈としては理解している。だが、それでも「嫌だ」「痛い」などの言葉が映像に残されているにもかかわらず「同意していた疑いを払拭できない」などと判断する裁判官の感覚には衝撃を受けたし、恐怖と絶望を感じた。たいていの場合、性犯罪には「記録」がないし、「目撃者」もいない。でもこの裁判は、動画という「客観的証拠」が残っていた希有なケースだったのだ。「嫌だ」が「同意していた疑いを払拭」してくれないなら、一体どうやって同意していないことを示せばよいのだろう。そこに恐怖と絶望を感じる。

 さらに、怒りが増すのは、裁判官が被害者の女子大学生が虚偽の証言をした疑いに言及していることだ。「動画の拡散を防ぎたい」という動機があったとして、それが「だから性交自体には同意していた」と解釈されるのも意味不明なんだが、さらに「酔っていた」「性交開始時のことを覚えていない」ことを理由に、「本当は同意だったのに動画を拡散されたくないからレイプだったという嘘の証言をした可能性がある」と認定されているのである。

読売新聞の記事から引用する。

„女子大学生は相当量の酒を飲み、性的行為が始まった際の記憶がない一方、途中からの状況は詳しく説明しているとし、「衝撃が大きい最初の行為を覚えていないのは不自然だ」とも言及した“

 まず、相当量の酒を飲んでいる時点で「同意する能力」がない可能性について少しは考えるべきである。その上で、「性的行為が始まった」時点が特に「衝撃が大きい」かどうか、裁判官はどうやって判断したのか?また、「3人からレイプされる、逃げられない」と悟った瞬間の恐怖から記憶が飛んでしまう可能性はかなりあるだろう。そして、長時間にわたって被害を受け続けているのだから、途中からは酒の影響も少しずつ抜けて時間が経過するにつれて記憶が鮮明になっていても全くおかしくない。
 また、一般論として、性暴力の被害者が「事件のことをよく覚えていない」というのはよくあることで、以下の警察庁の資料にも書かれている。

 これを裁判官がまったく理解していないという怠惰にも腹が立つ。刑事事件を扱う裁判官が、警察庁の資料にも書かれている性犯罪の基本的な知識を理解していないのだ。

 「事件のことをよく覚えていない例があるのは分かったが、“途中からは覚えている“のが怪しいんだ」などと言い出す人がいるのも目に見えているが、好き好んで意図的に記憶を飛ばしているわけではないのだから、記憶すべてがない場合もあれば一部が欠落しているという場合もあるだろう。
 だいたい、「楽しかった記憶」であっても「辛かった記憶」であっても、完璧に覚えていられるのは、そういう特殊能力(フォトグラフィックメモリーとか)がある一部の人だけであって、たいていの記憶は断片的なものである。なぜ、性被害の記憶だけは完璧でないといけないのか?
 そこにはもちろん「疑わしきは罰せず」の原則があるし、実際に草津町長の件のように虚偽の被害を訴える女性もゼロではないため、原則としては慎重であるべきなのはわかる。しかし、嫌がっている様子が残っている動画が有罪の証拠として認められないのであれば、実質レイプの有罪化はほぼ不可能になる。たとえ、女性が「躊躇せずに男性の部屋に入った」としても、酒を飲んでいたとしても、「嫌だ」「痛い」と言った時点で「同意」は終了なのだ。そのまま行為を続けることを選んだのは加害者たちだ。女性にとって、男性3人に囲まれている時点で「脅迫」は成立する。いや、男性であっても男性3人に取り囲まれたら「脅迫されている」と感じるのではないか。そう考えることは、常識的にそれほどおかしいことなのだろうか?
 一般常識と法律というものは違うのである、と言うならば、その法律の方に問題はないのだろうか?そういう問題提起は、これまでにも行われてきたし、今後も行われるべきであろう。

法曹関係者の女性蔑視と不勉強

 次に、「司法権の独立」について述べておきたい。今回、裁判の判決に異論を表明する署名が立ち上げられ、その提出先として「裁判官訴追委員会」が挙げられたことで、「たった1つの判決で裁判官としての職まで奪おうとするのか!」「気に入らない判決だからと罷免を要求するのは司法権の独立を脅かす!」といった批判が法クラとそれに追従する人たちによって繰り広げられているわけだが、この批判には理解できる部分もなくはないものの、「不思議な噴き上がり方だな」という気持ちの方がはるかに大きい。

 まず、たった1つの判決で罷免を要求するというのは、原則論としては危険だとも言える。それは被害者に寄り添った判決を出した裁判官も(加害者側から)同じことをされる危険性があるからだ。しかし、署名の趣旨はあくまで「判決への異議」の表明であることはハッキリしていたし、さらに最高裁の裁判官国民審査と違って、署名がいくら集まったところで、それで自動的に「はい罷免」となるわけではない。訴追委員会が審議して要求が妥当であると判断してから弾劾裁判所に持ち込まれるのであって、この仕組みも「司法権の独立」を保証するものだと言えよう。また、そもそも「司法権の独立」とは、端的に「何からの」独立なのかと言えば、「国会」「内閣」からの独立、つまり、司法・立法・行政の三権分立という話であって、一般市民からの批判や罷免要求は、「国会」とも「内閣」とも関係ないのに、なぜ「司法権の独立」を持ち出すのか、よくわからない。
 単に、この機に女叩きしたい人たちは「司法権の独立という言葉を出せばオンナどもはビビるぞ!なんせオンナは馬鹿だからそんなことも知らないからな!」と自分たちこそが3秒前まで知らなかったくせに使ってるんだろうなぁ~と思うのだが、法曹関係者がそういうこと言ってるのは真面目に「大丈夫?」というか、「この国はやっぱダメだ」って感じで、もともと司法を信じてない(正義は勝たないことが往々にしてあると思っている)私の予想を超える驚きである。

 余談だが、司法権の侵害に関しては、これまでに他の裁判で散々、国会議員やその関係者に甘い判決が出たり、政官財などの権力側に都合の良い判決が出ている例がいくらでもあるのに、それには興味がなさそうな人たちが取ってつけたように「司法権の独立」とか言ってるのは、何の冗談なの?という気持ちになるよね。

 また、「当時は強制性交等罪であって不同意性交等罪じゃなかったから仕方がない」的な説明をする法曹関係者もかなりいたこと。これについては、実は私自身も少し理解の仕方が間違っていたのだが、法務省の以下のサイトなども参照してみると、先の法改正では「処罰の範囲」を広げたわけではなく、犯罪行為の明確化が行われたのだということなので、この説明は全くの間違いである。

「改正前の強制わいせつ罪・強制性交等罪や準強制わいせつ罪・準強制性交等罪が本来予定していた処罰範囲を拡大して、改正前のそれらの罪では処罰できなかった行為を新たに処罰対象に含めるものではありませんが、改正前のそれらの罪と比較して、より明確で、判断にばらつきが生じない規定となったため、改正前のそれらの罪によっても本来処罰されるべき行為がより的確に処罰されるようになり、その意味で、性犯罪に対する処罰が強化されると考えられます。」

 法律を扱う立場である人たちが、これを理解しないまま、訳知り顔で女性に説教をかましている、というのが現状なわけだから、今回の判決を下した裁判官たちも理解していない可能性が大いにある。一般人女性に説教する前に法務省のQ&Aを熟読してもらいたいものだし、やはり批判の声が上がって当然というものだろう。

 ここまで書いた後で、上にリンクを置いたやや詳しい記事が出たのだが、ますます「これは同意じゃない」としか思えない内容である。「自分が拒否できなかったから」と自分を責めて被害を訴えることを諦めようとした被害者の心理が痛いほど分かる、そう思う女性たちも少なくない気がする。それでもせめて動画の拡散だけは避けたい、という気持ちも。
 ドアを自分で閉めた、というも、「こんな姿を誰かに見られたくない」が真っ先に浮かんでしまって、「助けを求める」という回路に繋がらなかっただけで、同意したからではないとしか思えなかった。そういう「女性なら当たり前に共有できる感覚」が、裁判官にあまりに欠如していることが、この事件に限らず、性暴力に甘い判決に繋がっているのだから、裁判官個人も批判されるべきだろう。これに関しては判決への異議は、裁判官の資質への疑いと切り離せない。裁判官ではなく、法体系の問題だと言うなら、一審で有罪判決が出た理由がわからないし、高裁判決でわざわざ「同意していた疑いが払拭できない」などと言われる理由もわからない。

性犯罪は「性犯罪者」の問題ではなく「男性」の問題

 そして、最後に、今回の件を受けて「性犯罪は『性犯罪者vs.まっとうな市民』の闘いだ」と言う人がいるが、私は、この言い方は女性差別をする男性を免罪する機能を持つと思う。この男性中心社会は、男性たちが女性を性的資源とみなして差別する構造を持っており、その延長線上に男性の「嫌知らず」があるし、女性をモノ化する性的ファンタジー(その代表がAVである)の蔓延があり、それを実際に行動に移す男性たちの存在がある。その男性たちの行動を免罪してきたのも、この差別構造だ。
 「男性全員が性犯罪者ではない」ことくらい誰でも知っているが、「性犯罪者」と言葉を絞った場合、たいていの男性は自分はそれに該当しないし、全くの無関係だと考える。今回の滋賀医大の学生たちも自分たちのことを「性犯罪者」だとは思っていない可能性がある(無罪を主張して控訴したわけだし)。
 そんなぼかした名指しに意味があるだろうか。これは「犯罪者」だけの問題ではなく、性犯罪や性暴力や性差別を甘く見てきた「男性」の問題だ。男性が「女性の嫌」は無視していいという社会を作り、維持してきたのだ。それに加担する一部の女性もいるが、何よりも「男性」が自分自身の問題として、性暴力と向き合わない限り、社会は変わらない。
 本当に「まっとうな男性」であれば、「性暴力に反対してくれてありがとう」「あなたは性犯罪者の男性とは違います」などと言ってもらえなくても、性暴力に反対するし、性犯罪者を批判する。「俺は違う!」だとか「まともな男性に失礼だ!」だとか、女性に向かってキレている時点で、「女の問題に声をあげてやってる立派な俺」が認められることの方が大事になってしまっている、幼稚で自意識が肥大しきった女性蔑視野郎だと思われて当然である。

だから、私は女性に対してミサンドリーを緩くオススメし続けているのである。

正義は行われよ、たとえ世界が滅びようとも。Fiat justitia pereat mundus. 
シドハース・カーラ『性的人身取引』から
***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 本当はクリスマス直前に「クリスマスにおすすめの映画」でも配信しようかと思っていたのですが、それどころではなくなってしまいました。あ、ちなみにオススメしたかった映画は『きっと忘れない』です。あとは、『ソウルキッチン』も迷いました。

 滋賀医大生の件については、今後もまたさらに新しい情報が出てきて、その度に怒りと絶望感に襲われそうですが、法クラや一部のジャーナリスト男性などからの批判にひるまずに発信を続ける人の数がとても多くて心強く感じます。上告審で加害者たちが正しく裁かれることを強く望みます。

 今年はますます配信スケジュールがぐだぐだになってしまいましたが、2025年も細々と続けていきたいと思っていますので、よろしくおねがいします🐸

 はじめましての方々へ。こんな感じの長文を不定期で出しつつ、数千字くらいの「おすすめコンテンツ紹介」のニュースレターを発行しております。個人でやっているので、不備もあろうかと思いますが、過去の記事もすべて無料でweb公開しておりますので、よろしければ読んでみてください。また、「購読者登録」をしていただくと、購読者限定パラグラフが付いてきますので(別に大したこと書いてないですが)、よろしければ登録もしていただければ嬉しいです。

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