フェミニズムはライフハックではない

昨今のフェミニズムブームにどこか醒めた気持ちを抱いてきた理由を一言で表現すると、「ライフハックとしてのフェミニズムは被差別階級としての“女性“の解放には役に立たないから」なのではないか、と結論するに至った。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2025.05.07
誰でも

「セックスもまたジェンダー」なのか?

 この話をするときに、いつも思い出すのが、遥洋子が『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』の中で書いていたエピソード。遥が、自身が講演などで「セックスとは生物学的性差、ジェンダーとは社会によって構築された性差」だと説明していることを上野ゼミの受講生に話して、「違うよ、セックスもジェンダーなんだよ」と言われて、吃驚仰天していたのは1990年半ば辺りの出来事だったはず。そこから四半世紀を経て、ジェンダー論に関心を持つ人であれば、アカデミズムの外にいる人であっても「生物学的性差と社会的性差は区別できるものではなく、生物学的性差とされたものも実は社会的に構築されたものだったのである」と考えるようになってきているようだ。

 私の立場を明らかにすると、物体としての身体的事実は人間の認識とは独立して残るものだと考えているが、言語を使って思考し、物事を名付けたり認識したりする以上、言葉の使い方にはそれなりの社会的な意味が付与されてくるというのもまた事実だろうと認識している。そして、生物学的な雌雄の差が「男らしさ」「女らしさ」という(古い意味での)ジェンダーを構築する一方で、「男らしさ」「女らしさ」のイメージが逆に身体の方に照射される形で「生物学的な事実」として認識されるという面もないとは言えないと思っている。
 そのため、私は、「セックスもまたジェンダーである」という言葉を、「生物学的性差などない」という意味ではなく、「妊孕性の有無によって2つのグループにカテゴライズすることの恣意性への指摘」として捉えてきたところがある。この理解の仕方は、多分、ジュディス・バトラーのそれではなく、ジョーン・スコットの説明に近いのではないかと、『女性学』Vol.32の佐藤文香「女性学とジェンダー研究のあいだ―何が異なり、なぜすれ違うのか」を読んで思った。以下に少し引用する。

「ジョーン・スコットは1988年にジェンダーを『肉体的差異に意味を付与する知』と定義した。彼女によれば、ジェンダーは、性差を社会的に組織化するのだが、それは、ジェンダーが男女の間にある固定的で自然な肉体的差異を反映しているとか、それを実行に移しているということではない。『性差』なるものは、つねにすでにわたしたちがもつ肉体についての『知』によって把握される社会的なものなのである。」
佐藤文香、『女性学』32号、29ページ

 そして、この後に、ジュディス・バトラーがより急進的にこの文言を説明し、性別(セックス)は不変のものではなく、社会的に構築されるものであるとし、それが現在のジェンダー・スタディーズにおけるスタンダードになっている。そのため、私のようなスコット的な「ジェンダー」理解は時代遅れで間違っていて、「ジュディス・バトラーを読んでください」で論破される運命だということがよく理解できた。まぁ、ジュディス・バトラーは読んでいるんだが、はっきり言って竹村和子の解説書を読んでも、ふんわりわかったような気がする程度で、自分なりに理解した結果がスコット的なものだった、ということだ。

 しかし、生物学的な性差が、本当に純粋に社会的に構築されたものなのであるなら、(人間界のような)社会の存在しない動物や昆虫、植物にも雌雄があることをどう説明するのか、正直よくわからない。別に、動物界には「男らしさ」「女らしさ」という社会規範はないだろうし、そもそも性差をどのように認識しているのかも我々人間には知りようがない。この時点で、「生物学的な雌雄の違いはある」と結論する方が自然だし、それと「“らしさ“という社会規範や性別役割分業は社会的に作られたものである」という話は両立する。前者を主張すると、即、「生物学的決定論だ!」「それじゃあ、女性は差別されても仕方がないということになる!」と言ってくる人がいるのだが、どうしてそういう結論になるのか、さっぱり意味がわからないので、もう少し丁寧に説明してほしいものである。

 そして、もう一点、気になることは、ホルモンのバランスや身体的な条件というものが、個々人の言動に全く影響しないという証拠はあるのだろうか?ということだ。たとえば、猫飼いの人たちが、雄猫と雌猫で性格に明らかな違いがあるという話をしているのを聞くことがある。もちろん個体差はあるが、それでも、それに留まらない「オスの傾向」「メスの傾向」も存在しているらしい。「うちの猫はそうじゃない」という反論もあろうが、別に「すべての雄猫(雌猫)が○○である」と言っているわけではない。何匹も飼った経験がある人たちが持ち寄った情報を見ると、ざっくりとそういう傾向がある、という話だ。

 これまでフェミニズム界隈では、人間における、こうした男女の「ざっくりとした傾向の違い」は後天的なもので、学習によるものであると結論づける言説が有力だったと思う。私自身もそういう考え方をしてきたところがある。実際、私は「女らしくしなさい」と言われずに育ったために、おそらく、たいていの私の同級生たちほどは「女らしく」ならなかった(らしい、ということに最近気付いたので確証はない)。人間の場合、後天的学習によって生まれる傾向というものは、おそらく猫などよりは大きいだろうと思う。しかし、人間も生き物なので、どれほど意識を高く保とうと腹は減るし排泄しなければ死ぬ。それと同様に、生物学的な影響というのも、ゼロではないのではないか。最近はそう考えるようになった。

 ただ、誤解して欲しくないのだが、これは「だから、男らしさも女らしさも生物学的に決定されているのである」という生物学的決定論を支持するものではないし、社会的に作られた男らしさ・女らしさの解体(ジェンダーの解体)を否定するものでもない。また、たとえば、仮に「男性の方が怒りっぽい」という性質があるならば、「じゃあ、仕方ないね。女性は我慢してケアしていくしかないね」ではなくて、男性にアンガーマネジメントを学んでもらうとか、怒りという感情の処理の仕方を社会的な課題の1つとして対応していくことを求めたい。なお、これはあくまで例示のための仮の話なので「そんな事実はない」とか言ってこないでいいからね。
 かつては「お客様は神様」を勘違いした客の言動に為す術もなくペコペコしていた企業も昨年辺りから積極的に「カスタマーハラスメント対応」についての文書を発表するようになったし、社会問題として対応するのは大事なことだと思う。まぁ、それを逆手にとってSNSで煽り投稿して炎上の🔥に油を注いだ靴下屋があったけれども…。

 こういった「生物学的な性差」に言及すると、「女性を弱いもの扱いする差別」とか「生物学的に違うなら、女性差別と言われるものは差別ではなく区別ということになってしまう」とか言い出すトンチキが出てくるのだが、そういう人たちは本当に心の底から性差などないと思っているのだろうか?

「女性差別」について言及する必要性

 これまでにも何度か言及しているのだが、生物学的に女性と見なされた人は、実際にどうするか(できるか)にかかわらず、「いつか妊娠・出産する身体」として扱われる経験をする。入試での差別、就職活動における差別、会社内での配属・昇進における差別などもそうだし、「(いつか産む)赤ちゃんのために」的なことを言われたりもする。それを「生物学的に違うのだから仕方がない」としないように働き掛けてきたのがフェミニストではなかったのか。
 健常者男性に最適化された職場のあり方は、妊娠・出産をする女性や障害のある人たちを休職や退職に追い込んできた。それを是正するように働き掛けてきたのがフェミニズムではなかったのか。それとも「妊娠・出産は病気じゃないから健常者男性と同じように働けます」と言うべきだとでも?どう考えても同じではないのに。
 「みんなが健常者男性並みに」ではなく、違いがあることを根拠に差別的な扱いをしないように、身体的なハンデがある部分を補うアファーマティブアクションを積極的に取り入れるようにと働き掛けてきたのがフェミニストたちだったのではないのか。そこには、「(身体的な)差異がある」という前提が当たり前に存在している。
 そして、平均的に女性の方が背が低く筋肉量が少ないのは統計的な事実でしかない。そこに「だから、女の方が劣っている」と優劣の価値判断を付けるのが差別なのであって、「女性の方が(力が)弱い」を差別だと考えるひとは「強い方が優れている」という価値基準に振り回されているのではないだろうか。ちょっと落ち着いて「なぜ、“女性の方が弱い“を差別だと考えてしまうのか」を自分でよく考えてみて欲しいと思う。
 念のために繰り返すが、これは「ざっくりした傾向」の話なので、平均的な男性よりも背が高い女性もいるし、筋力のある女性もいる。「傾向」から外れるからといって、その人が「女性ではない」というような話も全くしていない。「人間は2足歩行する動物だ」と言ったからといって、車椅子の人を人間ではないと言っていないと同じである。

 また、インクルーシブ(包括的)な表現に拘る人たちは、言葉(概念)というのは、ある程度エクスクルーシブ(排他的)でないと意味を成さないということを無視し過ぎではないだろうか?
 もう数年前になると思うが、「生物学的女性」「女体持ち」という言葉を使っていたところ、それが「差別だ」と言っているひとがいた。しかし、「女性」がもはや「生物学的女性」だけを指さないことがある以上、「生物学的女性」だけを指し示す表現が必要だったのである。むしろ、「女性」にはそれ以外を含むという含意があるからこそ、「生物学的女性」とか「女体持ち」とか別の表現を使っていたわけで(もちろん、そうでない人もいたのかもしれないが)、それを差別だと糾弾してどうするつもりだったのか、未だによくわからない。そもそも、「女体持ち」は、「女性身体生まれではあるが、自分を女性と呼ぶことには違和感がある」というクィア界隈から出てきた表現で、女性自認ではない人を含むインクルーシブな表現だと理解していたのだが…。しかし、それは「身体」という線引きをするという意味においては、エクスクルーシブにならざるを得ない。そうでなければ、必要なカテゴライズができないからだ。(なお、当ニュースレターにおいては、「女性」と書いている場合、基本的には「生物学的女性」を指している)

 私は、言及する必要がない場面で身体性にわざわざ言及したり、特定個人に対して不必要に生物学的な性を詮索したりするのは、相手に対する人間としての敬意に欠ける行為だと考えているが、性や生殖を巡る議論、医療にまつわる話、スポーツなどの公平性や安全性について考える際に、身体的性差に言及することを差別だと断じることは、女性身体を持って生まれた側の置かれた状況、被差別階級としての現状を覆い隠す効果を持ってしまうと思っている。

 前回の長文ニュースレター(カエルのおすすめじゃないやつ)の後記に書いた "昨今、「フェミニズム」が「なんでも屋」的に"全部乗せ"されがちな言葉になっている気もするので、カタカナ語を捨てて「女権回復運動」とか言っていく必要があるのかもしれないですね。"という文言をセルフ引用して記事をシェアしたところ、「あらゆる問題と性差別の問題は切り離せず交差的に絡み合ってるってことじゃないんですか…」という引用をもらった。あらゆる問題と性差別の問題が絡み合っていることは間違いない。しかし、だからといって、「フェミニズムは女性だけでなく男性も解放する思想です」ばかりを全面に出した場合、女性差別の問題への焦点化は難しくなる。

 具体例を出すと、男女どちらも「"らしさ"の強要」に苦しめられているとは言っても、両者には歴然とした違いがある。女性が求められる「女らしさ」は「男性に劣る存在としての行動規範」であり、男性が求められる「男らしさ」は「支配者たる一人前の男性になるための行動規範」である。男性が男らしさを身につければ「一人前の男性」として社会に認められ、それに応じた敬意などの報酬を受けることができるが、女性が女らしさを身につけたところで「奴隷が奴隷らしくしてるな、よしよし、じゃあ、奴隷にふさわしい程度の権利を認めてやってもいいよ」という支配者からのお情けを受けられる程度である。女らしい女性は、男らしい男性と同じように敬意などの報酬を受けることはない。そして、女らしくない女は「奴隷らしくしない生意気な奴隷」として懲罰対象と見なされる。その非対称性を無視して、「"らしさ"の強要」だけに焦点化することは、「男性による女性(および一人前と認定されない男性)の支配」という差別構造を不問にする効果を持ってしまう。

 女性が女性であるという理由で受けている差別が存在するという事実を認め、その差別について、別の問題とはきっちり分けて言及することなしに、女性差別を無くすことはできない。

 個々の男性が女性差別的でなかったり、支配的・抑圧的ではなかったり、「男らしさ」の有害さから距離を取っているという例は当然あるだろう。しかし、そのことは、社会構造としての「男性による女性の支配」とはまた別の問題だ。自分は「フェミニズムに理解がある」「自分はフェミニズムの恩恵を受けるべき存在である」「フェミニズムを女性のものだと言っているのは偏狭なミサンドリストである」と思っている男性には、この点をよく考えてもらいたい。

 私自身も、過去には、方便として、「フェミニズムは男性も解放する」というような言い方を使ったことがあるし、最終的には男性にも利益があると今も思ってはいる。しかし、それは、あくまで副次的なものであるべきで、まずは何よりも女性差別の撤廃を主軸にすべきだと考える。
 世界のおおよそ半分を占める集団であるにもかかわらず、差別され続けている属性(階級)が女性である。これまでにも何度も主張してきたことだが、これは、「女性を差別することで円滑に回るように社会が構造化されている」ということで、世界の約半数に当たる属性を差別することが、社会を維持・発展させる前提になってきたということだ。だからこそ、かなり意識的に大幅な社会改革を伴わなければ女性差別は解消できないのだ。社会の維持・発展の前提を変えることになるのだから。そこで、被差別当事者である女性たちが「男性の生きづらさ」の問題を扱っている余力があるだろうか?

 男性たちが自分たちで「男性の生きづらさ」をテーマにすることには全く反対しないし、それを通じて(つまり、フェミニズムを通じて)個々の男性が解放されることにも何の異議もない。むしろ、大いにやってもらいたいとさえ思っている。しかし、女性に対して「(女性のことばかりで)男性の問題を考えないのか?」と迫ったり、男性が支配階級であるという責任を放棄して「女性差別の問題は自分には関係ありません」と知らん顔したりすることには反対だ。民族差別については、「自分は被差別当事者じゃないんで関係ないです」と言ったら問題だとわかるのに、女性差別についてはそれを言えてしまうのであれば、それこそが女性差別の結果であろう。

世界を別様に見る姿勢

私が女性学から学んだこと―その核心を短く言えば、「世界を別様に見る」姿勢に他ならない。
加藤秀一、『女性学』Vol.32、41ページ

 また、男性と女性では、「見えている世界が違う」ことについても、再確認しておきたい。
 少し前にポリタスTVで、瀧波ユカリさんがマーガレット・アトウッドの言葉を引用して「男は女に笑われることを恐れている、女は男に殺されることを恐れている」と言ったときに(会員限定動画なので現在は視聴できないのですがこちらの回です)、ホストの津田大介さんは、この「殺される」を「社会的に殺されること“も“含む」ものとしてコメントを返していた。しかし、ここでの「殺される」は物理的・身体的攻撃によるものに限定しなければ、女性が社会で置かれている立場を正しく理解することはできない。というのも、これが「社会的な死」を含むという話になってしまうと、「それって女性に限りませんよね(キリッ」という話にされかねないし、そもそも女性は社会で発言権がほとんど与えられてない(もともと社会的に殺されている)のである。津田さんのコメントからは、その不均衡への認識が充分であるとは思えなかった。自分が、自分の番組内で「そこからか~(フェミニズムについてそこから説明しないとわからないのか〜)」とゲスト女性から言われ、その「そこからか~」をタイトルにした番組を放送しようと考える程度には、リベラルでフェミニズムにも理解がある男性でもこうなんだなぁ~、と。
 なお、「女から笑われる」は、「女"なんか“に笑われるのは、男の沽券にかかわる」ので、男にとってはある意味での「社会的な死」なのではないだろうか。そう考えると、ますます「殺される」は、社会的な死を含まないものと読む以外にない。ちなみに、この件について、ツイッターで発言したところ、津田さんご本人からリプライがあったのだが、連ツイを読んではいただけなかった上に津田さんへの返信も読んでいただけなかったようである。そして、なぜ、男性は女性から批判されると「こいつは俺の意図を理解できなかったのだな」と思ってしまうのか…、っていう溜め息がまた一つ。

 もうひとつ、具体的に考えてみよう。「痴漢問題は、男vs女ではなく、痴漢vs真っ当な市民」のような物言いがある。言いたいことはわかる一方で、女性が「痴漢」と認識しているものと、男性が「痴漢」と認識しているものは、果たして同じだろうか?というところから点検が必要なのではないか、と思う。電車の揺れを利用して「たまたま当たってしまう」から、そのまま当たってる男は、男性が思っている以上に存在している。私はこれも「痴漢」だと名指されるべきだと思うが、「痴漢えん罪」を恐れる男たちは全力で反対するのではないだろうか?
 自分はフェミニズムに理解がある、フェミニストから認められている(←フォロバされているだけ)とドヤっている男性から「自分はえん罪に遭わないように満員列車ではつり革に掴まって手を下ろさないようにしている」と、”だから男は大変なんだ!"というテンションで言われたことがあるんだが、つり革に手が届かないこともあるチビの私だって、電車で他人の胸や尻、股間などに手が当たらないように気をつける程度のことは当たり前にしているし、万一、当たってしまったときは、可及的速やかに手をどけるようにするし、ガチの満員に乗っていた時代も頑張って手を(人と人の間から)引き抜くようにしていた。それは、偶然であっても、他人のプライベートパーツに手を当てたままにするのは「無し」だからだ。しかし、「偶然なんだから仕方がない」「満員電車なんだから仕方がない」と自分に言い訳ができれば、触り続けても「痴漢」ではないと思っている男性はそれなりにいるのではないだろうか?
 つい最近もバスで後ろから密着されたという訴えが痴漢ではないことになった例があったはずだ。この報道を見て、「そうそう、この程度を痴漢呼ばわりされたらたまらないよ」と思った男性も少なくないのではないか。その人たちは、自分たちのことを「痴漢vs真っ当な市民」のどちら側だと認識するかと言えば、当然後者であろう。しかし、彼らの多くは知っているだろうか?たいていの女性が、「痴漢?偶然?自意識過剰?でも距離感おかしくない?」と公共交通機関の中でモヤモヤとした経験があることを。なんなら、「わざとじゃないからラッキースケベではあるけど痴漢じゃない」って思っている人間も、自分は真っ当な市民側だと思う可能性もある。
 以前、「電車で女から警戒されてムカついたから胸を掴んでやった。痴漢ではない。」みたいなツイートをしていた男もいたくらいなので、「痴漢」に的を絞ってしまうと、ほとんどの男性は「自分とは無関係の属性」だと考える。日本社会はそのくらいに性暴力への(特に男性の)認識が甘いということを忘れてはいけない。
 自分で積極的に痴漢行為を働かないにしても、痴漢行為を咎めない男性、見て見ぬふりをする男性は別に珍しくない。彼らは、善良な市民である自分が「痴漢ごとき」に関わっていられない、と思っているのではないか。このような形で彼らは実際には痴漢のアシストをしてしまっているのだが、それに無自覚なのだ。そして、これは、女性を差別して性的客体化する(性的主体である男性に対置する)社会構造の問題と深く結びついている。なお、男性の痴漢被害者も存在しているが、彼らの被害が軽く扱われがちなのは、それが「男であるにもかかわらず、女のように性的客体化される」という経験だからなので、同じ社会構造・女性差別の上に起っている問題だと言っていい。

 だからって、むやみやたらと「男が悪い!」と言うのはおかしい、という意見もわからなくもない。しかし、「男は」と主語を大きくしないと、聞かないから仕方ないんだよ。という話はこちら

「フェミニズムを学んだら、ニキビも口内炎も治って、髪もサラサラに!」

 フェミニズムは「すべてのひと」を解放する、と言った方が世間受けは良いだろう。インフルエンサーたちがそのような発信をするのは、彼らの利益に適っているのだから、当然なのだろう。しかし、ヒューマニズムが取りこぼしてきた女性の権利の回復を訴えるところから始まったのがフェミニズムだ。取りこぼされた者たちの必死の訴えを無視して、上から「誰もがフェミニストになってハッピーに✨」とやられても、底辺の女性たちには何の恩恵もないどころか、「フェミニストなら○○の問題にも取り組むべき」と課題を増やされるばかりで、肝心な自分の権利のために使うリソースを別の問題に割くことを要求される。

 「女性だけじゃなく、すべての人を救済するから」という理由でフェミニズムを支持する人たちには、どうもフェミニズムというのがハウツー本のように見えているのかなぁ~と最近思うようになった。「これはライフハックなんだけど…」という定型文もそろそろ古くなってるようにも思うが、ハウツー本がネット発信の「ライフハック」になり、タイパやコスパを重視するマインドと一体になって、「フェミニズムを学ぶと良いことがある!」という発信と受容を促進させている感じがある。
 「自分にメリットがなくても差別はよくないからフェミニズムを支持する」のではなく、「男にもメリットがあるから」支持していることを恥ずかしげもなく開陳できる男性が増えたのは、同じことを女性も表明しているからなのかもしれないが、いずれにしても、ライフハック系のフェミニズムは、どこまで行ってもライフハックでしかなくて、結局、それってフェミニズムなのか?という問いを発さなければならない。むしろ、あれはフェミニズム風ライフハックであって、被差別階級としての女性の解放とは何も関係がないものなのではないか。いや、関係なくはないかもしれないけれど、「階級」という視点が希薄なのは事実で、女性差別の問題を個人の問題にシフトさせてしまう効果という副作用もあるんではないか。「個人的なことは社会的なことである」と社会問題化されたものが、「階級」という視点を失って、再び個人に戻されてしまうのであれば、フェミニズムの後退だと言わざるを得ない。

 加藤は、これまで包括的で中立的・客観的であると見なされてきた世界の見方が実は男性や強者などの視点に偏ったものであったこと、その同じ世界を別の「偏った」視点で眺めることによって、はじめて可能になる別の記述が存在することに言及し、完璧な視座からの完璧な記述を求めるのではなく(そんなものは不可能だから)、偏った視点からの異なる記述を持ち寄って議論することの重要性を述べている。(『女性学』Vol.43、41~43ページ)

 私には「私の視点」から語ることしかできないが、それこそが私がこのニュースレターを書いている理由でもある。誰かの言葉を単に引用するだけでなく、「本を読め」「勉強しろ」と言うだけでなく、私が自分の実体験というフィルターを通してアウトプットしているのだから、視点は大いに偏っているわけだけれど、それは私にしかできないことでもある。それに、どれほどの意味があるのか、正直なところわからない。

 フェミニズムを学んでも、ニキビも口内炎も治らないし、天然パーマの髪は今日も元気にうねうねしているけれど、今日よりは明日、今よりは10年後の方が個々の女性にとって人生の(本当の意味での)選択肢が増えていることを願う。フェミニズムは特効薬ではないから、すぐに分かりやすく結果が出るものではない。地道に飲み続けて体質改善をしていく漢方薬みたいなものだ。
 「そんなことないよ、フェミニズムと出会ってすぐに生きやすくなったよ!」というひともいるだろうし、それ自体は否定しない。しかし、どんなことでも「新しい視点との出会い(新しいこと学ぶこと)の喜び」というものは存在していて、フェミニズムを意識的に学び始めた初期の頃の方が、私もそういう「生きやすさ」みたいなものを感じていた記憶がある(遠い…)。“らしさ“に縛られなくて良いんだ、と知った方が、生きやすくなるのも確かだ。そして、そういう個人のささやかな解放も、広がれば広がるほど社会に影響を与えることにはなる。
 しかし、「そうやって個人が頑張っていけばいい」問題ではないからこそ、「被差別階級としての女性」が「抑圧階級としての男性」によって差別・支配されているという構造の問題を問わねばならない。だからこそ、ライフハック的にフェミニズムが消費されている現状を憂いているわけだが、落ち込んでいてもどうにもならないのでキーボードを叩くのである。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 今回は『女性学』Vol.32の巻頭特集を読んで色々思うところがあったので、書いてみました。長く読者をしてくれているみなさんには、いつものおなじみの話ではありますが、同じことでも繰り返し書いていくことで、私自身の考えもより整理されてくる面もありますし、以前に書いた時とは違った表現をすることで、違う層に届くことなどを期待しています。

 2月~4月の間に、他にもキャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ』、田嶋陽子『愛という名の支配』『わたしリセット』、アンジェラ・ネイグル『普通の奴らは皆殺し』なども読んでいて、その辺りも今回の記事を書く上で影響していると思います。

 田嶋陽子さんは、『わたしリセット』の中で、自分のフェミニズムは生活の中で獲得してきたものであって、それぞれが「自分のフェミニズム」を生きれば良いのだ、といったことを述べています(本を貸し出し中で手元にないので正確な引用ができずにすみません)。もちろん、「学問としてのフェミニズム」はそうはいかないのでしょうが、今こそ「フェミニズムは一人一派」という言葉を思い出したいです。SNSで相互監視し合って、「あの人と同じことを言わなければ間違っていると言われるのでは?」と“正しいフェミニスト“認証を競い合うのではなく、自分の生きる現実と闘うためのフェミニズムをそれぞれが実践していくのが大事なのではないか、と思っています。また、田嶋さんは、“自分らしく”というのにもあまり拘り過ぎることで、「これは自分らしくないのでは?」「自分らしく見えるにはどうすれば?」と逆に自分らしさに縛られて不自由になる危険性にも言及していて、これはSNSで「自分の見え方」を絶えずプロデュースしながら生活するのが当たり前の時代には特に当てはまるのではないかと思いました。実際、私自身に「私らしさ」に固執した結果、失敗した過去もあるので…。

 ホルガ村カエル通信は、私がフェミニズム周辺の気になる話題を拾ってお届けする個人ニュースレターです。完全不定期配信で、今回のような長文のものと「カエルのおすすめ」という映画や漫画などを紹介するちょっと短めのニュースレターがあなたのメールボックスに届きます。基本的にすべてweb公開していますので、登録しなくても読めますが、メアドを登録をしていただくと、長文レターの方には「講読登録者限定パラグラフ」がつきます。よろしければ、登録をお願いします。

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