「男は〜」と主語を大きくする意味

マジョリティはいろんな問題に鈍感になりやすいので、主語は大きくして「あなたも関係者ですよー」と伝えていくことが重要なこともあるのよね。「女は感情的」「女は子宮で考える」「女は…」とひと括りで散々好き勝手言ってきた側の性別のひとの《括られ弱さ》に毎回目を見張る思いなんだが、私は親切なのでどうしてひと括りにするのか、を書いてあげたよ。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.10.01
誰でも

 9月最終週くらいになって、ようやく「朝、目が覚めた時に頭がぼーっとしている」症状がほとんどなくなった。長いこと不調でいると、不調であることに慣れるため、日々「こんなもんだよな」と思って過ごしている。そのせいで、症状が消えてみてはじめて「あれは調子が悪かったんだな」と気がつく。ずっと、寝不足なわけでもないのに、体が重くて頭はなんとなく靄がかかっているようだった。具体的に「ここが痛い」というタイプの不調よりもわかりにくい、もわぁ―っとした不調。一日中「胃がここにあるな」と胃を意識してしまう不快感と下痢は自覚があったが、あのぼんやり感は「もしかして気のせいなのかな?」と思ってしまうこともあった。しかし、頭がまあまあクリアになってきた今、あれは気のせいではなかったということがよーくわかる。あんな状態で読書したり文章書いたりしてたんだから、まぁ、よくやったな…と思ってしまう。ということで、ぼちぼち定期更新を再開できれば…。

感情的で打たれ弱い男たち

 「男」とひと括りにされるとツラいと泣き言を言ったり、そんなことならもう女性差別に反対しない!と拗ねたりする男性は定期的に観測される。私がまだ実家暮らしだった10年近く前から、Twitter上だけでも、何度も何度もそういう男性を見てきたので、正直「またか」と思うのだが、そういう男性は他人を批判する時は威勢がいいことも多くて、なんというか他人に厳しいのに打たれ弱いのだなぁと呆れてしまう。
 とは言っても、だいたいの人間は打たれ弱いものだ。批判されるとショックを受けたり、場合によっては傷ついたりもする。腹が立つことも当然あるだろうし、「こんなに頑張っているのに!」と理不尽さに匙を投げたくなることもあるだろう。それ自体は、感情を持つ人間である以上、ある程度は仕方のないことだと私は思う。しかし、そこで立ち止まって振り返ることもやはり大事だと思うし、冷静に「何が」批判されているのかを考える必要がある。
 「男は」と「大きな主語」で批判されるものは、たいてい「一般的に言って男性の多くは〜である」であったり、「男性全般に言えることだが〜という傾向が(女性と比べて)高い」という内容である。そこで「俺は違う」と言いたくなったとしても、「俺は違う」なら「なるほど、男性一般は女性から見るとそう見えるのか」「自分の周囲の男性たちはどうだろうか」と考えてみればいいだけの話だ(もちろん「俺は違う」という認識がそもそも間違い❌ということも大いに考えられるのだが、とりあえず、それについては脇に置いておこう)。そして、「確かにそういう傾向があるな」と思ったら、そのよろしくない傾向をどう変えていけばいいかを考えてほしい。「いや、そんな傾向はない。女の勘違いだ」と思うのであれば、「女性がそんな勘違いをするのは、男性のどんな言動が原因なのか」を考えてみてほしい。ここで、間違っても「女が勘違いをするのは女が感情的だからだ」と女性に責任を転嫁してはいけない。「女は感情的だから勘違いするんだ」という己の感情に流される男性は残念ながらとても多いのだが、その態度こそが非常に感情的で非論理的なことには気付かないところが無駄にポジティブで本当に困る(別に感情的でも論理的に思考できるならいいんだけどね)。

痴漢に甘い男たち

 具体例を挙げてみると、「男は痴漢なんて大したことじゃないと思っている」みたいな発言があったとしよう。「俺は違う!」「俺の知ってるヤツで痴漢をしたことがあるヤツはいない!」と思った男性は、「俺は痴漢を警察に突き出したこともあるんだぞ」「俺は痴漢と間違われないように満員電車では両手でつり革を掴んでいる」(←本当にこういうこと言ってた男がいるんである…)とかいきり立つ前に、「どうして女性がそう感じているのか」を考えればいい。
 痴漢があまりにも多いという女性の日常、「痴漢を捕まえようとしたが周囲が誰も協力してくれなかった」という経験談、痴漢に同情する(被害者の「落ち度」を責める)言説が少なくないこと、痴漢が「性暴力」であると社会に認められていないこと、痴漢をネタにして面白がる人たちがいること、痴漢をエンタメ化した風俗やAVの存在…ちょっと考えれば思いつくことがあるはずだ。ひとによっては「痴漢ぐらいで騒ぐ女が悪い」といった女叩きを目にした・耳にしたこともあるはずだ。男性は「女子会w」などと女性同士のおしゃべりを馬鹿にしがちだが、男性にも男性だけのときにする下衆トークがあるだろう。そういう会話の中で、痴漢がネタ扱いされたことは本当に一度もないのだろうか?
 批判されているのは、そういう「男社会における痴漢被害の軽視や矮小化」だし、別にあなたを名指しで「痴漢を大したことじゃないと思っているクソ野郎、なんなら痴漢そのもの(or予備軍)」とか言っているわけではない、ということが理解できただろうか?(まぁ、そこでの反応次第で「あ、こいつは痴漢(予備軍)だわ」と判断される可能性もあるけどね。)

 他の件についても基本的に同様である。個々人が意図的に「よーし女を差別するぞー」と思っていなくても、この男尊女卑社会では構造的に差別に巻き込まれてしまうのだ。しかし、だからといって、個々人の意識の持ち方や言動に意味がないわけではない。むしろ、そのような社会であるからこそ、個々人の意識の持ち方や言動によって少しずつ社会の方を変えていかなくてはならないからだ。
 どうしても社会においてマジョリティ側になる機会が多い、「男性」という属性を持って生まれたひとは、21世紀になって批判の的となる機会も増えている。ほとんど批判もされずに、もっとひどい女性差別をしてきた世代の男性たちがいることを思うと、理不尽に感じること自体は理解もできるのだが、しかし、今でも女性は女性であるというだけで男性ほどは話を聞いてもらえず、訴えを信じてもらえず、能力を過小評価され、本人の意志とは無関係に「エロい肉塊」として扱われている。しかも、その差別を「女性への配慮」だと勘違いしている男性がいたり、差別を優遇と勘違いして「女はイージー」などとむしろ嫉妬する男性までいる。場合によっては、それを理由に女性を殺す男もいる。それについて、「女とひと括りにしてはいけない」と男性側が声をあげたことがあっただろうか?
 むしろ、いまだに男性は(左翼やリベラルを自認していても)女性のことは基本的に「おんなこども」だと思っているのではないか?と疑いたくなることがある(この件については過去のエントリも読んでもらえると嬉しい)。例外的な「女とは思えない」「女だてらに」「男勝りの」と呼ばれる女性がいるだけで、そのひとたち以外は「女性」というある意味ではのっぺら坊の無味無臭の何の特徴もない没個性的なカテゴリーに押し込めてはいないだろうか?同じ趣味人でも、女性だけが殊更に「歴女」などとカテゴライズされる傾向を見ても、男性こそが長年、女性をひと括りにして眺めてきたのではないか?

 長い歴史の中で、人間たちは、男性を「見る者(主体)」とし、女性を「見られる者(客体)」に振り分けてきた。男性は自分が「見る者」の立場で他者をひと括りにすることには慣れているのだが、自分たちが観察されてカテゴライズされることには慣れていないのだろうと思う。自分たちが「客体であったはずの女性」から見られていることに気付くのは、男性の不安をかき立てるように見える。というのも、男性性と主体性というものが強く結びついているからだ。男性は「見られる」ことで客体化されると、男性性を奪われた感覚に陥ってしまう。そのことが、彼らに不必要に過剰な反応を起こさせているんではないか、と思えてしまう。社会構造への批判に対して、「俺は違う」「俺は〜している」「俺は…」「俺は…」と自分の話をしだしてしまうのは、危機に瀕した己の主体性=男性性を必死でアピールしてしまう態度、「俺は主体(男性)だ!」ということなのかなぁ、と。そんなに焦らなくても、別に大丈夫だし、お前個人の話はしてないよ…。

 では、最初から「男は」とひと括りにせずに、「痴漢に甘い男性は」とかターゲットを絞れば良い、じゅうたん爆撃のように「男は」と流れ弾を当てるから問題なのだ。と言い出す男性もいる。しかし、これも認識が足りない好例である。というのも、たいていの人間は自分のことはエキセントリックだとは思っていないし、常識的な範囲で物事を考えていると認識しているからだ。しかし、この認識というのは、どこまでが正しいのか検証されていないのである。
 そのため、「痴漢に甘い男」と限定すると、「自分には関係ない」と考える男性が、おそらくは8割以上だと思う。もしかすると9割以上かもしれない。特段に「痴漢許すまじ」と思ったことがなくても、「さすがに痴漢はよくないよね」くらいに思っている男性は、自分は痴漢に甘いとは思わない。しかし、「でも痴漢冤罪もあるから女は信用できないな」と思って、いざというときに痴漢の確保に協力しない男性は少なくないと思う。また、「痴漢はよくないけど、稼ぎ頭である俺は仕事に遅刻できないからトラブルには巻き込まれないようにしよう」と痴漢確保に協力しない男性もいるだろう。彼らは自分が「痴漢に甘い男」であると認識しているだろうか?
 さらに、左翼やリベラルの男性は、むしろ自分たちは平均以上に女性差別について考えているし意識的に反対しているという自負がある。そんな界隈のひとが2014年のワールドカップの時期に問題になった渋谷の痴漢に関連して、どんなことを言っていたかと言えば、「あんなところに行けば痴漢に遭うことも予見できるから、俺は自分の身内の女性たちには近づかないように言ってました」「自分には関係ない話。現場の人間が対処すべき」みたいなかんじ。意図していないとはいえ、「そんなところに行くから痴漢に遭うんだ」と言っているのと同じである。
 これを受けて「いったい男どもはいつになったら痴漢の問題と向き合うのだ」と批判した女性がいたのだが、彼女は男性たちからフルボッコにされたのである、「男とひと括りにするな!」と。いやいやいや…俺は痴漢に甘くなんかないぞ!と言うために、女性を叩いてどうするの…だし、私には彼女のツイートは「男も一緒に問題に取り組んでくれ」というSOSにしか読めなかったので、当惑した。はっきり言って、こんなにも「男には通じないのか」と思い知らされた出来事だった。そして、あの時は通じなかったものの、「男は」と言われたからこそ、自分たちも無関係じゃない(と女性から思われている)ことを彼らは理解させられたのだから、やはり「男は」とひと括りにしていくことが大事だということの証明にもなった。
 余談だが、この「男は…」がどうしても我慢ならないらしきひとと話をしたときに、「たとえば、在日コリアン差別に関する話で、『日本人は差別に甘い』と言われたとして、『俺は差別に反対している!日本人で括るな』って怒るの?」と訊いてみたことがあるんだが、吃驚なことに「怒る」という返事だったので、たぶん、一生理解し合えないんだなーって思ったよね。

遠くにも届けるために

 私がフェミニストであるかどうかはみなさんの判断にお任せするとして、「これだからフェミは」「これだからツイフェミは」とか…まぁ他にも職業であったり、文系学部出身者であることであったりでひと括りで雑に何か言われる経験は割と多い。確かにあまり良い気分がするものではないし、「それは自分と関係ない話なんだがなぁ」と思うこともある。それでも、「世間一般からはそう見えるのか」という気付きにはなるし、それを参考に発信の仕方を考えて変えたりもしてきた。

 繰り返しになるが、だいたいのひとは、自分が含まれる属性への批判には「うっ」となるもんではある。それが的外れなものであっても、それが的を射ていても、どちらにしても全然全く気になりません!という強いハートを持っているひとは例外だと言っていい。しかし、特に自分が構造的に強者側に立つことに関しては、「そんなことない」と否定する前にちょっと考えてみる必要があると思っている。そして、考えた結果、自省すべき点があれば自省する。楽しい作業ではないし、たまには愚痴のひとつもこぼしたくなったとしても、社会的動物である以上は、それなりに社会的な役割を果たさねばならない。しかし、考えた結果、批判者の方が構造を捉え損なっていたり、全く頓珍漢な責任転嫁をしているケースもないわけではない。その場合は、その不備を指摘すればよいのであって、「自分は違う」と喚く必要はないのである。

 そして、ちょっと気になっていることは…「自分は違う」とピーピー言ってしまうひとの割と多くが他者を批判する時には容赦がないことが多いな、ということである。相手の話もろくに聞かずに、相手の主張を理解しようともしないで、お前はマジョリティなんだから反省しろ、と他人を断罪していたひとが、「男は〜」と言われた程度で「疲れる」とか「ひと括りは乱暴だ」とか言い出すので、マジかよ〜〜〜と思う。俺は強い言葉で批判してもいいけど、俺のことは強い言葉で批判しないで、ってそりゃズルくないか?と。マジョリティは、基本的に鈍感になりやすいので、時には強い言葉で批判することは必要だし、有効でもあると思う。しかし、自分が簡単にぴえーんとなってしまうひとは、もう少し他者に対しても言い方などを配慮してもよかろう?と思う。
 また、自分自身もかつては「単なる暴言はヘイトスピーチではないからOK」みたいな基準をアリだと思っていたので反省しているのだが、やっぱり相手も人間なのだから、暴言を浴びせたらかえって頑なになってしまう可能性もあるし、暴言を浴びせることで効果を望める場面というのは限定的なのではないか、と今は思っている。
 新大久保などで行われていたヘイトデモに対して、強い言葉を浴びせるのは「楽しくヘイトデモしよ〜っと」というデモ参加者の「楽しみ」を奪い、デモに参加しなくなる→デモそのものがなくなる→ヘイトスピーチに晒されるひとが減るという効果が期待できた。しかし、それ以外の場面で、暴言は有効だろうか?暴言までいかないにしても、必要以上に強い言葉は効果的だろうか?まぁ、それを使っている当人やその周囲のひとたちは、「必要以上」ではなくて「必要」なんだ、と認識していると思うのだけどね。
 強い言葉は内輪ではバズる傾向があるが、せっかく場所を問わず多くのひとにリーチできるネット上で内輪向けに発信していても、それは社会を良くすることに繋がらないのではないか。そのツイートをするとき、自分の中にあるのは「社会を良くしたい」という気持ちなのか、「強い言葉でバズりたい」という欲求なのか、送信ボタンを押す前に考えるようにしたいものだ。

 まぁ、そんなこんな考えた結果として、最近の私はTwitterではあまり「クソオス」という単語を使わなくなったし、言葉遣いもそこそこ大人し目にしている(つもりである)。個人的な感触としては、以前よりも「よく知らないアカウント」にRTしてもらうことが増えたかな、という気はする。別にバズってアルファツイッタラーになりたいわけではない。ただ、せっかく自分がある程度は勉強したり発信したりする時間をとれる人間なので、ひとりでも多くの女性にフェミニズムと出会うきっかけのようなものが届いてくれたら、多少は世のためになるのではないかな、と。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 いろいろと書いてみました、なんだかんだで男性がバグるのって「男は〜」と括られたときのことがほとんどで、「健常者は」とか「ヘテロセクシャルの人間は」とかだと、むしろ率先して「自分はマジョリティである自覚をもってますよ」アピールをしたがることさえあるんですよね。そう考えると、やはり女性差別は「最後まで残る差別」なんだろうな、と暗澹たる気持ちになりますが、男性がぴーぴーバグるような発信を心がけていこうと思います。

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