性(セックス)差と性(ジェンダー)差の憂鬱

生物学から考えるヒトの性
ごく最近知った「ヒトの性の生物学」という麻生一枝さんによるweb連載記事がとても興味深い。これまでにも何度も書いてきたように、私は「性差は社会的に作られた部分もあれば、生物学的な傾向の部分もある」と考えている人間である。つまり、全てが生物学的に遺伝的に出生時に決定されているとは思わないが、すべてが社会的な刷込み(学習)の結果だとも思わない。そして、社会的に構築された「女性らしさ」や「男性らしさ」が身体的な性差への認識を強化する役割をしていることも間違いないと思っている。しかし、昨今のリベラルが主張する「すべては社会的に作られたものである」「男女の身体的性差はない(性別二元論は間違っている)」「性差に言及するのは保守」といった言説は、現実にある物質としての身体差を軽視し、結果として女性差別の解消を妨げる効果を持つと考えている。性差医療の話などを考えても、身体「も」重視しなければいけないという思いが年々強くなっていたところだった。
麻生さんの記事が載っているweb日本評論というサイトは、会員登録が必要だが、登録さえすれば無料で読むことができるので、多くのひとにぜひ連載第1回からすべて読んでもらいたい。特に最新(2025年8月12日現在)の記事を含むここ数回は広義の生殖補助医療関連の話で、やはりこの分野は慎重に慎重を重ねても色々と問題が多いのではないかと考えさせられるし、それであるにも関わらず、現状、倫理的な問題について社会全体での議論を起こさないように、技術開発が進められているのではないか?という問いは重要だ。技術的に可能であるからといって、実際にその技術を用いるべきなのかどうか、それは社会全体に関わる問題である。技術的に可能であれば、実際にその技術を使ってみたくなるのが人間だろうと私は思う。それは知的好奇心でもあるだろうし、その技術が他の疾患の治癒に役立つ可能性もないとは言えない。
しかし、生命の誕生に人間が介入することには、ブレーキが必要だと私は考える。それは、「命の誕生は神聖で尊いから」、とかそういう話ではなくて、なんだかんだで人体についても生命の誕生についても、我々人間が知っていることは知らないことに比べて少ないからだ。そんなこと言っていたら、あらゆる医療行為ができなくなる!と反発がありそうだが、既に生まれて生きている人間への医療行為と異なり、生殖関連の医療には「新しい生命の誕生」というファクターがある。生きている人間は、医療行為を受けることを選択することができる(ただし、実際に“本当の意味での選択肢“があるかどうかは議論の余地がある)。しかし、生殖補助医療に関しては、誕生させられる側には選択肢がない。そもそも、生命は「誕生する(しない)ことを選べない」のだ。誕生させる側は、その圧倒的な不均衡に自覚的でなければいけないのではないか、と私は思う。
第23回では、iPS細胞による精子や卵子の製造が日本の大学で進んでいることについて取り上げられているのだが、そもそもiPS細胞が日本の大学で成功したこと、それはやはり「宗教的な禁忌」という足かせがないからかもしれないとふと思った。キリスト教文化圏であれ、イスラム教文化圏であれ、一神教の信仰が一般的な社会においては、「神の領域」に人間が踏み込むことへの躊躇が生まれやすいのではないかと思う。日本にも神話はあるが、日常生活において、「神」を絶対の審判者として意識する道徳観(と仮に呼ぶ)はないと言えるだろう。それは、科学技術の推進において強みになる部分もあろうが、倫理的な問題について考えることを放棄させる働きも持つように見える。実際、生殖補助医療に限らず、「法を犯していなければOK」という言動を取る人間がそれなりに存在している。2024年の都知事選候補者による選挙ポスター問題はその分かりやすい例であるし、麻生太郎の「セクハラ罪という罪はない」発言などもそれである。
以前、モーガン・スパーロックの番組だったと思うが、アメリカの保守的なキリスト教徒と無神論者の家庭で30日間子どもたちを交換して生活するという企画を見たことがあった。週末には必ずメガチャーチの礼拝に参加する保守的な家庭の父親(の方だったと思う)が「神を信じてないなら、一体、どうやって善悪を区別するんだ???」というようなことを実に素朴に発言していたのが印象的だった。その時は「むしろ神がいなかったら何やってもいい(何やったらいいかわからない)のかい??!!」と心の中でツッコミを入れたものだが、逆に神という指針があることでかかるブレーキも侮れないのかもなと今になって思う。仮に刑法に定めがなくとも、倫理的に問題である言動を慎もうと考える、その動機付けになるものとして、宗教は機能し得るということだろう。いや、全然関係ないかもしれないけど。なお、無神論者ファミリーの方は「善悪は自分の道徳観で判断すればいいのだ」的なことを言っていた記憶(20年かそれ以上前に見てるので確証はない)。
しかし、その道徳観をきちんと身に着ける機会がないままだったら?というのが、日本社会の惨状なのではなかろうか。まぁ、なんだかんだで人間は弱いものなので、罰則がなければ「ちょっとした悪事」に手を染めやすいものではある。罰則規定が厳しくなったことで激減した酒気帯び運転などを具体例として思い浮かべてもらうといいかもしれない。結局は「法で縛るしかない」というのは情けない話ではあるが、そうやって社会のルールが変わることで人々の意識も変わっていくことも間違いないはずで、つまり法規制が社会全体の倫理観の向上に繋がることを考慮に入れていくことも大事だ。
さて、話を戻す。日本においては、生殖補助医療に関して言うと、先に技術の実用化がなされ、あとから倫理規定が加わる形で進んでいる(意図的にそのように進められている?)ようである。代理母出産に関しても、SNSで否定的に言及すると「この技術で子どもを持った当事者」「この技術で誕生した当事者」の「存在」を盾にするリプライがついたりもする。当事者の「存在を否定している」と言われて、怯まないでいられる人は少ないのではないかと思う。しかし、私は「誕生させられた当事者」がすでに存在していることも承知している(否定していない)し、生物には「生まれる(生まれない)ことを選ぶ」ことが不可能であるゆえに、そのひとたちが差別されたり非難されるいわれはないということは強調しておきたい(そもそも問題として「いわれのある差別」ってのはないんだけどね)。
麻生さんが連載の中で触れているように、生殖補助医療によって誕生した人たちについての追跡調査は充分に行われているとは言いがたく、長期的な健康への影響については分からないことだらけだ。つまり、現状はある種の人体実験になってしまっている面も否めない。さらに、自分の出自を知る権利の面での課題もまだ解決からはほど遠い。産みだす側が同意しているにしても、人間が身体を持って生きざるを得ないことを考えれば、こうした倫理的な課題が放置されたままで、新たな生命を誕生させる事は、「子どもがほしい」という理由で肯定されるべきことなのだろうか。こういった問題を、生物学的な側面から考えるためにも、この問題について、麻生さんのような生物学の専門家にももっと議論に参加してもらいたいと思う。
有害な男性性とリベラル男性
Newsweek日本版に掲載されている「『リベラルな男性』たちに一体何が?…なぜ彼らは民主党を離れるのか、背景に『男らしさ』攻撃が?」という記事を読んだ。
この記事によると、アメリカでは元々リベラルで民主党支持だった男性たちが、アンチフェミになるわけでもネットで暴れるでもなく、ただ静かに民主党から離れる(棄権する、共和党に入れる)という現象があるとのこと。そして、その背景には、民主党周辺の「行き過ぎた」有害な男性性批判があるというのだ。「出た!行き過ぎた○○ってやつ!」と思うひとも多いと思うが、さほど長い記事ではない&無料で読めるので目を通してみてほしい。アメリカの状況は、日本とはまた違っているだろうし、その辺りに詳しいわけではないので、私の言っていることは的外れなところもあるかもしれないが、自分が考えたことを言語化してまとめておきたいと思う。
まず、1ページ目を読んだ私の最初の感想は、「甘えてんな~」だった。「有害な男らしさ」への批判が「男性であることが問題視されている」と感じられると言うが、女性はずっと「女性であることが問題視されてきた」からである。女性であるという理由で能力がないものと扱われ、女性であるという理由で感情的で愚かで嘘つきであると決めつけられてきた側からすると、ほんの数年「男性であることが問題視」された程度で「自分の存在や価値観が歓迎されない政党に投票しない」と言えるのだから、これまで男性は「男性であること」を意識しなくてもいいくらいに、男性であること=「人間であること」だったのだろうなぁ、と。しかし、その割に「男は大変なんだ」「男は男らしさを強要されているのだ」と言う声もあるし、男性も「有害な男性性」にはそれなりにウンザリしているという設定ではなかったか?それとも、「男は大変なんだ」は日本では盛んだけど、アメリカではそれほどでもないのか?
そして、次に「冤罪への懸念」という話が出てくるのだが、この「冤罪」という言葉が日本語SNSにおいては、しばしば女叩きに使われているので、どうにもモヤモヤしてしまう。ただ、比較的まともなひとが、ちょっとした誤解によって実際にやったこと以上に悪いことをした事にされ、「とんでもない卑劣漢である」と決め打ちされてしまった例も知っているので、開き直って「有害な男性性で何が悪い!」と言うことはできないリベラルで自省できる男性の方が、本当の意味で「冤罪への懸念」を抱くことは当然かもしれない、とも感じる。まぁ、こういうことを言うと「これだから既婚フェミは男に甘い(から信用できない)」と言われるのだろうが、「自分が男だったら発言することが怖くなるかもしれないなぁ」程度には想像力を働かせた方が、男性も存在する社会で、女性の権利回復をするのにベターな方法を考えられるのではないかとは思う。指パッチンで地球上の全男性を一瞬で消す事はできないのだから。
あと、「冤罪への懸念」なんて一切抱いたことはありません!っていう男性も、それはそれでヤバいんじゃないかと個人的には思う。「自分は常に正しい言動ができるし、誤解をされることはない(誤解するのは相手が悪い)」と思っていなければ、今のネット言論空間で発言してて、そこまでの自信が持てるとは思えないので。実際、「あなたの発言には問題があると思う」という私の意見に対して「自分の真意が理解されなくて残念です」みたいなリアクションをしてきた著名人(?)男性がパッと思い浮かぶだけで2名いるんだが、自省しないマンは強い。迷惑なことである。
次に法廷や会社の人事などが女性に有利に働いていることへの懸念が述べられているのだが、この点はアメリカと日本でかなり差がありそうに思う。日本では法廷や人事で男性が「正当な扱いを受けられていない」と感じるほどには、女性の(性)被害の訴えは聞き入れられてないように見える。中居正広の件でも、フジテレビ側の第三者委員会の報告書が出てからも被害者へのバッシングが続き、被害者側が被害状況の詳細を開示せざるを得ない状態に追い込まれているくらいだ。何人もの弁護士がプロとして作った報告書があってもそれなのだ(もちろん加害者が有名人・人気者であるからという側面は大きいのだが)。日本の普通の会社組織において、被害者の訴えがまともに対応されない例など枚挙にいとまがないだろう。法廷においても、昨年末に配信した「嫌知らずな男たち」で書いた通りの惨状だ。男性が縮み上がるくらいに、女性の被害がきちんと扱われている例が多いのであるなら、その点はうらやましいと思ってしまう。
とは言え、筆者の述べる「たった一言で全てを失う」緊張というのは、昨今のネットリンチや訴訟連発インフルエンサーなどを見ていて理解はできる。私もかつてはあまり考えずに投稿していたところがあるが、自分が「言いたいこと」を言うために負えるリスクを考えると完全にオープンな場では発言が慎重にならざるを得ない。金と暇があって、訴訟を起こしまくって敗訴を重ねたとしても、それを上回る「カンパ」が集まるらしいひともいるが、たいていの人間にはそれほどの金も暇もないし、左翼・リベラルの発信は「正しさ」を脇に置くのが難しいため、フェミ叩きや暴露系のように儲かりもしないのである。
少し脱線したので話を戻そう。
記事によると、「有害な男性性」批判は、結果として「男性性」そのものの否定になっており、「健全な男性性」までもが否定的に捉えられるようになったことで、男性は(特に女性に対して)どう振る舞ったらいいのか途方にくれているようである。この感覚はよくわからないので同居人とも話してみたのだが、常にではないにしても、時々、「ジェンダーニュートラル」「ジェンダーレス」な男性像以外は全て否定されている感じがするということではないか、ということだった。私は以前、B’zの歌詞について「“有害な男性性“の否定をしているけれども、あくまで“男性として“歌っている」という記事を書いているのだが、その“男性として“というのが場合によってはアウトとされるのではないか、みたいなことらしい。そうであるならば、有害でないのなら「男らしさ」も有りなんだよ、というメッセージが必要だという主張と読めば良さそうだ。
しかし、私が思うに、社会に必要なのは「健全な男らしさ」というよりは、勇気・責任感・リーダーシップなどの資質を「男らしさ」という言葉で括らないことなのではないだろうか。それを「男らしさ」という言葉で括ってしまうと、それは残念ながら「有害な男らしさ」になってしまうように思う。というのも、勇気は無謀にもなりかねないし、責任感は固執や執着に繋がることもあるだろうし、リーダーシップは独断専行に変わってしまうこともある。「健全な男らしさ」が「健全」で有り続けられるかどうかは本人次第だからだ。また、勇気・責任感・リーダーシップが「男らしさ」だとされてしまうと、女性の勇気・責任感・リーダーシップは「女性とは思えない」「女だてらに」という話にされてしまうし、対置される「女らしさ」なしに、「男らしさ」は機能しない。そして、「男らしさ」に括られた資質は良きものとされ、「女らしさ」に括られた資質は男らしさには劣るものとされてしまうのではないだろうか。
繰り返しになるが、私は男女の違いというのは、身体にあると思っているし、その身体差やホルモンバランスなどの違いから言動にも差が生まれる部分がゼロだとは断言できないと考えている。しかし、「男らしさ」「女らしさ」のような枠組みで、人間の言動を分類することは、その「差」を固定化し、絶対視する傾向を作ると思う。現時点で男女の気質に偏りがあるにしても、それを性別で括る表現をする必要はない。言語表現が変わる事で、人間の認識も変わり、リーダーシップのある女性も増える(「らしさ」の要請が消える事でリーダーシップを発揮しやすくなるので)かもしれないし、気遣いのできる男性も増えるかもしれない(増えてくれ)。
記事の最後に、筆者は、これを文化的な問題としてではなく、政治的な課題と捉えて、フェミニズムや平等の理念を保持しつつも、男性を「脅威」としてではなく、「よりよい社会をともに作るパートナー」として扱うことを提案している。
あのですね、10年前くらいにはある程度そういうスタンスで発信していたけど、男性が全くこちらの発言を聞かないわ、さっき覚えたばかりの言葉でマウント取ろうとしてくるわ、「男で括るな~」とキレ散らかすわ…で、「もう男に期待しても無駄では…?」という気持ちにさせられた経験が、私にはすでにある。そんなわけで、「やっぱ甘えてねぇーか?」というのが正直な感想ではある。また、男性が「脅威」として扱われるのは、これまでの男性たちの行いの結果である。すべての男性が強姦魔ではないことは知っているが、被害に遭う前に強姦魔とそれ以外の男性を事前に区別する術はないのだ。「将来のある若者なのだから」と男性の加害を見逃したり、被害者の落ち度をあげつらったり、男性に対する信頼感を毀損してきたのは、他ならぬ男性なのである。民主党に対して「信頼を回復するためには…」を説くのも良いが、「よりよい社会をともに作るパートナー」として扱われたいのであれば、男性側にもそれ相応の努力が必要であろう。どうも、この筆者には、その辺りの自省が足りない感じがあるのが、最後までちょっと引っ掛かった。
が、そうは言っても、社会を変えるためには、殊、選挙という局面においては、数でまとまらないとどうにもできないところがあるので、アメリカの民主党はその辺をよく考えた方がいいし、似たような反省は日本の左翼もしなければいけないことなのではないか。
なお、私の観測範囲(狭い…)では、日本において左派政党から距離を取り始めているのは、むしろリベラルな女性たちで、リベラルな男性たちはそこまで離れてないように見えるのだが、どうなんだろうか。私の場合、SNSのフォロイーにしても、友だちにしても圧倒的に女性が多いし、そもそも政治的な話題を避けがちな日本社会において、職場のひとやご近所さんの支持政党とかほとんどわからないので…。(大家が朝日新聞を取っているのはたまたま見て知っているので、大家がネトウヨではないのは間違いない。)
オレンジ色の朝
さて、そんな狭い範囲を眺めていると、未だに「参政党ショック」とでも言うべき状態から抜けきれない左派・リベラルは多いように思う。私自身は、「そもそも参政党って党名おかしくね?英訳どうすんの?(答え:Party of Do It Yourself)」というところから引っかかってしまうのだが、その政党がついに国会において、それなりの勢力となってしまっていること、そこに惹きつけられた人たちが一定数いることの意味については、様々な分析に「なるほど」と思いつつも、なんとなく隔靴掻痒の感がある。おそらく、色々な要因がからんでいて、支持する人たちの動機も必ずしも単一ではないからなのだろうと思う。そんな中で、SNSで緩く繋がっているとある男性が、参政党が語る「救済の物語」には左派の「正論」だけでは勝てないのではないか、ということを言っており、「物語」というのはけっこう大事な視点かもしれないな、と感じた。
最初に断っておくが、私は、「差別はいけない」「多文化共生」というのは、社会の大前提だと思う。人も物も情報も、かつてないスピードで行き来している21世紀である。異文化と共生しないでやっていくのは不可能でさえある。人種差別も女性差別も今でも根強く残っているものの、それでも人類は「差別はいけない」というコンセンサスを形成するところまできたのである。人権という概念が生まれて、それが特定の人種や階級のひとだけでなく、全てのひとが持っているものだとされるようになった。それは間違いなく、人類の進歩だと考える。
その上で、私は、参政党に票を投じたひとたちすべてを「差別主義者」だと断じることは難しいし、危険なのではないかと思っている。もちろん、中には「差別主義者」と名指されるべきひともいるだろう。しかし、選挙結果に表れているのは、「“差別したくて仕方がないひとたち“がたくさん存在している」ということではなく、従来の政治に見捨てられたと感じているひとたちの存在なのではないか、と思う。私は非正規雇用で職場を掛け持ちしているので、日々複数の駅を利用しているのだが、選挙期間含めて、駅前などで一番見かけたのは参政党だった。大きな駅で参政党の街宣に出くわした時には歩きながら話を聞いていたのだが、そこで語られていたのは、投票率の低さとそれゆえの自公政権の強さだった。「投票に行きましょう!みなさんが投票に行けば日本は変わります!日本を変えましょう!」という訴えは真摯なものに“見えた“し、「これだけを聞いたら“悪くないじゃん“と思うひとがいても驚かないな」と感じた。
参政党の憲法草案を見ていないのか?「日本人ファースト」という文言だけでも差別主義者の集団だとわからないのか?等々、左翼側が言いたいことは重々承知している。しかし、誤解を恐れずに言うなら、日本の政治はずっと日本人ファーストである。それは、国民国家においては、ある程度は自明のことでさえある。日本共産党による自公政権の政治が「アメリカいいなり」であるとの批判にしても、日本国の政治が自国民(日本国に暮らすひと)よりもアメリカの都合を優先していることへの批判という側面がないとは言えないだろう。日本の左翼の間でも評価の高い北欧諸国の高福祉社会は「誰を国民とするか」の線引き無しには成立しない側面がある。問題は、それを「あえて」スローガンにすることの効果の方にある。それは、スローガンにすることで、排外主義・外国人差別を扇動する効果を持つことになる。しかし、「都民ファーストの会」が存在して久しい日本国において、「日本人ファースト」という文言が出てくるのは時間の問題だったのかもしれないし、そこにある差別扇動の効果に全く無自覚なままのひとも少なくないのではないか、と思えてくる。そういうひとに対しては、「日本人ファーストは差別!恥を知れ!」よりも、「いや、日本の政治はむしろ日本人ファーストで、外国人優遇と言えるようなものはないし、難民受け入れとかも全然してないし、移民に対しても放置プレーだから軋轢が生まれることがあるんですよ」という丁寧な対話が必要なんじゃないかと思う。対話した結果、徒労感を覚えただけっていうことも大いにあるだろうし、誰もがそれをやらなければいけないとは思わないし、言うつもりもない。しかし、それができる人間は率先してやっていく必要があるのだろうと感じている。
自公政権には批判的なひとたちが、従来の、既存の左翼政党ではなく、国民民主党や参政党に流れるのは、左翼が「救済の物語」を語ることに失敗してきた、その政策や理念の発信の仕方を間違ってきたことと無関係ではないと思う。これは、一応は左翼である私自身も出来ていなかったことであって、他人を一方的に責める意図で言っているわけではないし、安易に「外敵」を設定する物語に乗ってしまうひとたちを完全に罪のないものだと言いたいわけでもない。ただ、間違っていた部分を認めなければやり方を変えられないし、やり方を変えなければ得票数は増えないというシビアな問題とどう向き合うのか、これまで以上に左翼の側の器量が問われているのではないか。
左翼・リベラルは常に減点方式で評価される。比較的近い立場のひとたちからさえ、単なるイチャモンや見当違いの批判を受ける機会も、右翼・保守よりも圧倒的に多い。特に女性、それもフェミニストと目される人は「足りていないところ」ばかりを指摘されがちだ。「いい加減にしてくれ」と思う気持ちは充分過ぎるほど理解している。しかし、それでも聞くべき批判にさえ耳を貸せなくなったら終わりである。「自分(たち)の言動の何が批判されているのか」にきちんと向き合おうとせずに、批判者を茶化したり、非人間化(私の知っている範囲でさえ、ナメクジ、うんこ呼びがあり、それを仲間が咎めていない)したり、批判者を無知扱いしてAIの出してきた情報の箇条書きスクショを貼り付けて何かを言った気になったり…、それで左翼・リベラルの主張を支持するひとが増えるかどうか、よく考えた方がいいのではないだろうか。
以前から言っていることだが、強い言葉や極端な主張は仲間内ではウケるし、SNSではバズりやすい。しかし、それは「いつものひとたち」を越えて、その外側には広がっていきにくい。赤の他人から「どう見えるか」の演出は、残念ながら参政党の方が圧倒的に上手である。最初から「トンデモ政党」でしかないと思って見ていれば、矛盾している主張やDV野郎っぽい言動などにも目が行くが、そうでないひとにはパッと見ではわからない程度には洗練されている。それに対抗するためには、きれい事を「正義の主張」としてではなくて、「あなたの物語」として届ける工夫が必要なのではないか、と思っている。じゃあ、お前がやれよ!って言われそうだけど、こういうことこそ、広告やデザイン、マーケティングのプロの仕事だと思う。素人の手弁当でどうこうできるなら、10年前に政権交替できてるよ。
自分で考えることがますます難しい時代に
だいぶ久しぶりのニュースレターになってしまったのだが、ここ数ヶ月、「自分で考えること」がますます難しい時代になっているなぁと強く感じている。そもそも、人間の思考は常日ごろ目にしているコンテンツから大きな影響を受けているし、言語を習得する過程で「誰から(何処から)習得するか」によって何らかの偏りが生じているようにも思う。そうなると、そもそも厳密な意味での「自分で考える」「自分の言葉で表現する」ということはどこまで可能なのか?という疑問も湧いてくるのだが、PCとネットの普及で「コピペ」が簡単にできるようになり、SNSのリポスト・シェアの機能によって「他人が綴った言葉」をそのまま自分のタイムラインに流し、それを「自分の言葉」であるかのように錯覚しやすくなった。そこに、さらに生成AIの登場である。
私が利用しているブログ系のサービスでもAIによる文章生成・アシスト機能が導入されているし(使ったことはないけれど)、yahooやgoogleのフリーメールでも「返信のサジェスト」やらAIによる文章作成やらが可能になっている。そうなると、ますます人間は「自分で」文章を考える必要がなくなってくる。AIが書いた「誰かの」投稿に共感して、それを自分のタイムラインに流し、それを学習したAIがまた似たような文章を書いて…が延々と繰り返されるようになったら、人間はAI同士のコミュニケーションのハブみたいな感じになる。そんなネット空間に、「自分の文章」を載せる意味とは?みたいなことをついつい考えてしまい、どうにもやる気を削がれる、2025年の夏である。
生成AIのおかげで、世の中の大半が「書きたくもない文章」を書かされる業務から解放されるのであれば、「書きたい文章」を書く人がもっと増えても良さそうなものだが、なんでもマネタイズするのが賢いと思われる時代、金にならない文章をそもそも書きたい人がいないし、金になる文章も楽して書く(=AIに書かせる)のが賢いということになるらしく、わざわざnoteをやってるのにAIに書かせる意味がわからねぇ~と思う私の方がマイナーなのかもしれない…。私は文章を書くことそのものが苦痛だったことはあまりなくて、学校の読書感想文であれ、大学のレポートであれ、書くことはもともと好きだった。「テーマがつまらないので退屈である」とか「参考文献のリスト作りが面倒くさい」とか「うまくまとまらなくて書き進まない」とか、そういうのはあったが。
そして、軽めの語学オタクとして思うことは、文法穴埋め問題や選択問題と違って、作文問題はその時点で勉強している文法を総動員する必要があるため、「どこが分かっていないか」がわかりやすい問題だということだ(もちろん長文読解にもそういう面は強い)。自分が表現したいことを言うために何が足りていないか、自分に出来る範囲で最大限自分の言いたいことを言うためにはどうしたらいいのか、そういったことを考えるのでかなり頭を使う。そして、これは母語の場合にも、けっこう当てはまるんじゃないかと素人なりに思うのだ。だからこそ、文章も書かないでいると書けなくなる。5月にニュースレターを配信した後、忙しかったこともあるが、それ以上に書かなかったことでますます書けないサイクルに陥っていた可能性が高いので、短くても月に1本は出せるように、書き続けるようにしていきたいな、と思っている。って、長々と言い訳かよ…という感じになってしまったが、頑張るのでよろしくお願いします。やはりリアクションがないと「伝わってる??」「需要ある??」と不安になるので、記事のシェアや感想(マシュマロもあるよ)などをいただけると励みになります。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
7月以降の暑さが異常すぎて、30℃を少しでも下回ると「今日はだいぶ楽だな」などと思ってしまう狂った状況ですね。45歳の私が子どもだった頃には、8月に30℃を越える日が2、3回あった程度で、そういう日は家中の電気を消してフローリングに横になってぼーっとして過ごしたりしてましたね、家にエアコンがなかったので…。当時でもエアコンがない家はすでに珍しかったんですけど、占有庭付きのマンション1階に住んでいたので、土のおかげもあってか、家の中はあまり暑くならなかった記憶です。
このニュースレターを読んでくれている方の多くは、どちらかと言えば「左翼」とか「リベラル」の方が多いのではないかと思います。対参政党に関しては、意見の違う方もいるだろうと思いますが、少し引いた視点から見た場合にどう見えるか?どう見せたいのか?ということを、率直に冷静に話しあえる環境が、SNS上にはないように思えて、それでも私の考えていることが伝わればいいなと思って書きました。反発を呼ぶだけかもしれませんが、黙っているよりは言っておいた方が後悔が少なそうだと思ったので。意見が一致するひとと会話することも、精神衛生上、絶対に必要だと思っていますが、意見が合わないひととこそ、対話を重ねる努力をしなければいけないと感じています。それが、民主主義のコストであって、コスパもタイパも悪くても、そこを蔑ろにすることは独裁への道を開くのではないか?ということを、数年ぶりに『銀河英雄伝説』を見返しながら思っていました。銀英伝の話もそのうち書きたいです。
それでは、また次回の配信でお会いしましょう。次回は、1ヶ月以内に出したいです!
はじめましての方々へ。こんな感じの長文を不定期で出しつつ、数千字くらいの「おすすめコンテンツ紹介」のニュースレターを発行しています。個人でやっているので、不備もあろうかと思いますが、過去の記事もすべて無料でweb公開しているので、よろしければ読んでみてください。また、「購読者登録」(メールアドレスを入力するだけ)をしていただくと、購読者限定パラグラフが付いたホルガ村カエル通信があなたのメールボックスに届きます。よろしければ登録もしていただければ嬉しいです。
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