同時進行する「フェミニズムの普及」と「女性の資源化」

バラエティ番組でフェミニズムがテーマになり、男性MCからの肯定的なコメントがつく一方で、女性の身体がパーツに切り刻まれて資源化される動きも加速しているように見える。早く、フェミニズムを吠えなくてもいい時代になってほしいよね、という話。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2025.03.08
誰でも

 2021年の2月に、このニュースレター「ホルガ村カエル通信」を始めて、4年が経った。最初は毎週更新という(今から考えると)驚きのハイペースだったのが、徐々に隔週になり、月1回になり…今では思い出した頃にポツポツやってくる不定期配信になってしまっているのだが、その理由として「書きたいことはだいたい書いてしまった」というのがある。
 SNSでフェミニズム関連の炎上案件があると、「あぁ、これは前に書いたアレの話だなぁ~」と過去記事を引っ張り出せる程度には書きためてきたし、世の中は懲りることも飽きることもなく、同じ女性差別を繰り返している。女性差別が突然無くなるはずもなく、社会が突然変わることもないし、女性差別撤廃への道はまだまだ先が長いことは頭では分かっているが、「またか…」と気持ちが塞ぎ込むこともある。しかし、それでも、「10年前だったらここまで炎上しなかったんじゃないかな?」と思わされる案件もあるし、「10年前だったら異論を唱える女性はもっと少なかったんじゃないかな?」と感じることも増えた。

テレビにおけるフェミニスト像の変化

 ごく最近だと日テレの「上田と女がDEEPに吠える夜」というバラエティ番組で「フェミニズム」がテーマとして取り上げられたのも記憶に新しい。MCの上田晋也のリアクションを褒める声もたくさん見かけたが、「男が“普通“のことをしただけで過度に持ち上げられる」ことについて苦言を呈している人もいた。どちらの意見にも頷くところがある。
 ところで、私が子どもの頃、地上波のテレビでフェミニズムを語っていた人といえば、あの田嶋陽子さんである。田嶋さんご自身が当時のことなどを振り返っている書籍の一部抜粋が文春オンラインで公開されているので、関心のある人には読んでもらいたいのだが、あの頃の田嶋さんはあえて「ピエロ」の役割を引き受けることでフェミニズムをお茶の間に届けてくれていたのだと思う。私は、田嶋さんの「男は女を穴と袋として搾取してきた」という表現に度肝を抜かれつつも、「この人の指摘は正しいな」と思って見ていた記憶がある(それにもかかわらず、私がきちんとフェミニズムと「出会う」までにはそこから10年以上かかっているのだが、それはまた別の話)。
 「ガミガミうるさい女」というキャラとしてテレビに出続けた田嶋さんの功績は、近年になって多くの人に再評価されており、様々なメディアで取り上げられる機会も増えていると思うが、あれから30年経って、今のバラエティ番組にフェミニストが出る際に「ピエロ」になる必要がなくなったということ、これは割と大きなことなのではないかと思う。

 また、上田のリアクションは、ある意味では打算的なものなのかもしれない。今どき、内心で何を思っていたとしても、「フェミニスト怖い」とか「そうやって女の権利ばかり声高に主張するのはさぁ~」みたいなことを言ったらマズイという判断もできないようでは、人気商売で売れ続けるのはむずかしいだろう。しかし、10年前だったら、上田はそこまでの判断をできただろうか?「強い言葉で言わないと男は聞かないわけじゃない?」と女性の発言を後押しするようなことを言えただろうか?むしろ「主張していることは正しいと思うんだよね。でもさ、やっぱ言い方がキツいからさ~」とでも言ってなかったか?そう考えると、「今の時代に合わせて対応した“だけ“」であったとしても、その「今の時代に合わせた対応」がアレになるというのは、日本社会もゆっくりではあっても、着実に変わってきていることを示しているように思う。そこには希望もある。

 番組の中で、瀧波ユカリさんが、女性差別の根深さや長い歴史に触れて、まだ女性の権利回復には100年単位で時間がかかるだろうと指摘していた。残念ながら、その通りだろうと私も思う。今すぐ女性差別が解消されてほしい気持ちではいるが、そう簡単ではない理由については、これまでにも言及してきた通り、「女性を差別することで円滑に回るように社会の制度設計が成されている」ために、差別をやめると社会が円滑に回らなくなり、これまで得をしてきた人(主に男性)がある種の「不利益」を被ることになるからだ。当たり前だったことを止めたり変えたりするには時間も労力も、時にはお金も必要だ。それでも、人間が作ってきた制度や慣習なのだから、人間の意思で変えたり改善したりすることは可能なのも、また事実なのである。

 まぁ、そういうことを考えて、「書きたいことは書いてしまった」とか言わずに、同じことでも何度でも繰り返し飽きずに訴え続けていかなければいけないよな、と反省した。

小さな行動の積み重ねこそが世界を変える下地を作る

 世界を大きく変えるようなシンボリックな人物は時々現れるし、世界を変えるインパクトを持った歴史的な出来事というのも時々起る。しかし、そういった人物や出来事が社会を変えるときというのは、「社会の方に変わる準備が整いつつあったとき」でもある、と私は思っている。

 例えば、ハリウッドの#MeTooは日本でも大きく報じられたが、その後、日本の芸能界や映画界においてそれが始まるまでには時間が必要だった。その間に、私の観測範囲において起きた変化といえば、SNSにいわゆる「フェミアカ」が急増したことやフェミニズムにまつわる話題が様々なところで目に付くようになったこと、女性をメインの読者とするメディアが増えたこと、女性ユーザーを強く意識した企業が増えたことなどだ。その一つ一つはそれほど大きなインパクトのあることではないかもしれないし、中には「フェムテック(の一部)」のように、微妙な女性搾取や女性蔑視が混ざり込んでいそうなものもあったが、これまでの社会では透明化されていた「女性」の存在に目を向ける人や企業が増えてきたのも間違いない。それはやはり、「女性」たちが自分たちの存在やニーズを繰り返し訴え続けてきた結果なんではないかと思う。

 石川優美さんの#KuTooなどのインパクトのある出来事は、記録され記憶され、なんらかの形で歴史に残るだろうし、残さねばならない。また、女性にとって、そうした注目はアンチの嫌がらせを呼び寄せることも多く、必ずしも良いことばかりではないことも忘れたくないが、同時にスポットライトを浴びることがないままの多くの市井の女性たちの存在も忘れられるべきではない、と個人的には思う。一般の目立たない女性たちが、注目とも賞賛とも無縁なまま、細々と紡いできた言葉と小さく広げてきた連帯は、大きな出来事が育つ土壌を作ってきたと強く実感している。繰り返しになるが、10年前の地上波でいきなり出演女性たちがフェミニズムについてDEEPに吠えられたかと言えば、無理だったと思う。
 念のために言っておくが、番組に出演していた女性たちの能力が不足しているということではない。むしろ、それぞれの女性の語りは熱かったし、特に瀧波ユカリさんの「時間内で簡潔に必要なことを相手に伝わる言葉で語りきるスキル」は是非とも見習いたいものがある。私が言いたいことは、市井の女性たちの地道な語りやその中で作り上げてきた社会の雰囲気というものが、そうした著名な出演女性たちがフェミニズムを語る後押しをしているのではないか、ということだ。つまり、この10年の間に「非モテのブスBBA」だの「更年期のしわわ」だのなんだのと言われながら、フェミニズムを語ってきた我々野良フェミの存在もそれなりに力になっているはずだと、たまには自画自賛しても良いのではないかと思うわけである。そして、私などよりもずっと前から女性の権利のために闘ってくれていた諸先輩方にあらためて感謝したい。
 遠回りではあっても、やっぱり地道に女性同士で連帯の輪を広げていくことは大事だなと思っているし、講読登録者数百人程度の弱小個人メディアではあるものの、自分も自分にできることを続けていかないと、と重たい腰を上げて(単にWordを起動しただけだが)原稿を書き始めたわけである。

人間の飽くなき欲望と女性身体という「資源」

 さて、前半は明るめの話題だったのだが、後半は…社会が変わろうとしてはいても、やっぱり社会はあの手この手で「女性身体」を資源化して搾取する方法を開発してしまうのだな…という話をしていこう。
 慶応大病院において、子宮移植の臨床研究にゴーサインが出たというニュースが出たのは2月27日だった。

このニュースへの反応は、私のタイムラインではほぼ10割が否定的なものだった。

 子宮移植を肯定的に捉える人たちの言っていることは、ざっくりとまとめれば「身体的な条件で諦めなければならなかった人が子どもを産める」というもので、さらに彼らは「ドナーは親族限定なのだから、“無関係の”“他人“が口出しをするのはおかしい」と考えているように見える。また、当事者にとって、子宮移植がどれほど切実な願いであるか、という話も出ていた。
 しかし、少々残酷な言い方ではあるが、「身体的な理由で叶わない願い」はあるし、生物は身体を他者と交換することはできないので、身体的な理由で出来ないことは、特にそれが他人の身体を利用することでしか叶わない場合は、基本的に諦めるしかない、と私は考えている。他人の身体を利用することで、自身の「願い」や「欲望」を叶えることは、そもそも倫理的な問題が大きい上に、経済的・社会的な権力勾配ゆえの搾取に簡単に繋がる危険性があるからだ。
 こういった主張をしていると、「女性のことを"正しい判断ができない半人前扱いしている"差別だ」とか「パターナリズムだ」とか言ってくる人たちが必ずいるのだが、「自分から奴隷になりたいと言っている人が奴隷になる権利を奪うのかー!」みたいなトンチキな発言をしていることにいい加減に気付いてもらいたいものである。

 現時点では、子宮移植を受けるレシピエントは生まれつき子宮がない女性で、ドナーはその親族(経産婦)ということだが、第一の候補になるのはおそらく母親だろう。中には「娘のためなら臓器でもなんでもあげたい」と思う女性もいるだろうという想像はつく。この社会における「母親像」には献身や自己犠牲が含まれているし、妊娠・出産にまつわることの責任はほぼ女性のせいにされている。不妊で悩む夫婦で、まず最初に自分の方に原因がある可能性を考える夫はゼロに近いだろうし、生まれた子どもに障害があった場合に、妻子を捨てる男も激レアではない。生まれつき子宮がない娘さんを産んだ母というのが、どんな心理状況に置かれているか、想像に難くないだろう。
 そこに、「子宮移植」という可能性を提示されたら、仮に臓器摘出に不安や抵抗を覚えたとしても、同意する以外の道はあるだろうか?また、母親がなんらかの事情でドナーになれない場合、親族の別の女性たちに白羽の矢が立つことになるだろう。「あなたが子宮を提供してあげれば○○ちゃんもお母さんになれる」と親戚全員が説得にかかることもあるかもしれない。これは正確には「説得」ではなく、「お前が断れば○○ちゃんはお母さんになれないんだぞ!」という脅迫に近い。その状況で、「嫌だ」と言い通せる女性はどのくらいいるだろうか?そして、「嫌だ」を言い通した場合に、その女性は親族の中でどんな立場に置かれるだろうか?そういったことを考えた上で、私は子宮移植の臨床研究に反対している。

 「まだ実用化されたわけではない」「臨床研究の段階で何を慌てているんだ」といった反応もあった。しかし、一見すると冷静で理性的に見えるこの意見は、「子宮移植の臨床研究」の持つ意味とその波及効果についての熟慮が足りていない。仮に実用化されなかったとしても、国内では法的に認められないままであったとしても、「子宮移植は技術的に可能である」ということになれば、闇で取引が行われることは間違いない。この資本主義社会においては、需要があれば、どんなものでも商品化されてしまう。違法な臓器売買もすでに現実に行われているのだ。

本来売っていないはずのものを買う人々の存在

 私のニュースレターでは、性的人身取引(性奴隷の問題)を扱ったシドハース・カーラの本を紹介したことがあるが、「売りたい」と思っていなくても、「買いたい」人間がいれば、人間さえも商品として売買する連中がいるし、それが世界の様々な地域でローリスク・ハイリターンなビジネスになってしまっている。そこに同意などなくとも、逃げられない境遇に陥らされている被害者が大勢存在しているのが現実だ。そして、そのビジネスを仕切っているのは、どの国でも反社会的勢力であり、そのような状況下でカーラはかなりの危険を犯して取材をしている。そのカーラでさえ、「命の危険があるから触れられない」としたのが臓器売買ビジネスだ。
 映画『私を離さないで』(原作:カズオ・イシグロ)のように、移植用臓器の器として「生産」される子どもはまだ存在しないかもしれないが、米アカデミー賞受賞作品でもある『スラムドッグ$ミリオネア』(原作:ヴィカス・スワラップ『僕と1ルピーの神様』)でも描かれていたように、親を失った子どもたちに衣食住を提供する親切な人間のフリをして、子どもたちを集めて物乞いをさせているようなギャングが、臓器売買も行っている可能性は高いだろう。そのような連中に「子宮は移植できる」と知られたら、何が起きるか?そこには、「自己決定」も「同意」も存在しない。つまり、「子宮移植の臨床研究が行われることが報じられること」は「その結果が報じられること」であり、その結果が「技術的に可能」であるなら、臓器売買ビジネスの商品に子宮も追加されることは避けられない。だから、そもそも研究をすることが罪深いとさえ言える。

 子宮がないことで、自分の遺伝子を持つ子どもを産むことが叶わない当事者で、辛い思いをずっと抱えている人がいることは理解できる。しかし、子宮移植が技術的に可能であると知られたことで、本人の希望や同意のないままで臓器を取り出される女性が出てくる可能性があることについても考えなければならない。そして、臓器売買をする人間にとって、臓器を取り出してしまった後の身体はどのようなものかを考えれば、「子宮移植」はどこかの女性たちの命を奪う可能性を持っていると言わざるを得ない。

 「それを言うなら、子宮以外の臓器のために殺されている人はもういる」などと言い出す人もおそらくいる。しかし、「すでに人権侵害が行われているんだから、その範囲を多少広げても問題ない」という主張には首肯しかねる。そして、その他の臓器に関しては、命に関わる治療で移植する必要がある患者さんがいる以上、一律禁止にできないという現実がある。子宮移植という選択肢がなくても、それが直接的な死因になる人は恐らくいないと思われるが、選択肢が出来ることで、身体や命の危険に晒される女性は出てくる。この違いは大きい。

女性間の分断の変質~資源と資源から搾取者と資源へ

 子宮移植と聞いただけで「女性身体の資源化」と言い出すのは、話が飛躍し過ぎで大袈裟だと感じているらしき人もいるようだ。しかし、女性が感情労働を当たり前に期待され、男性であれば求められないで済むケア労働をすることを自明のこととされ、家族のための自己犠牲が美談化されやすい世の中で、効率重視で倫理観がバグっている世の中で、少子高齢化の責任が女性にばかり押し付けられる世の中で、「もう使わない子宮」を持つ女性がどんな扱いを受けることになるか、女性として生きてきた大抵の人には容易に想像ができるだろう。

 「無理やり子宮を取り出されるわけじゃない」「お前の子宮の話じゃない」と言う男性には、こういう問題が全く見えていない。そして、子宮移植の話でどう考えても一番「お前に関係ない」と言われるべきは男性たちなのに、懸念を表明する女性を「無知だ」「感情的だ」とあざ笑い、子宮の役割を「子ども産むための袋」程度にしか思っていない分際で女性に偉そうに説教をしているのが、例によって無駄にポジティブ(無駄に自己評価が高い)で呆れるしかないし、仮に「私の子宮」ではなかったとしても、誰かの子宮や「子宮の器」として資源化される女性の存在を考えて発言することは、他人から馬鹿にされねばならないことなのか。
 「ひどい目に遭う女性がいても自分じゃなければいい、関係ない」と考える女性の方が好きだ!と言うなら、その個人的趣味については「そうですか」としか思わないが、そんな考え方の男性をパートナーにしたい女性はそんなに多くないように思うし、結局は、そういう男性たちが非婚化や少子化の進行にも大いに貢献しているのではないかと思う。

 「産まない生を生きる選択」という記事でも書いたのだが、女性は「女性に生まれた」というだけの理由で、妊娠・出産を自分事として引き受けさせられる。実際に産むか産まないか、産めるか産めないかに関わらず、だ。だからこそ、現実に自分が「子宮を提供する」可能性がかなり低かったとしても自分事として想像ができるし、何よりも誰かの子宮が資源として扱われることは、その当人の意識がどうであれ、あらゆる女性の子宮を資源と見なす社会に繋がっていることを知っている。性売買の問題も同じだ。「金を払えば性が買える」社会は、あらゆる女性を性的資源化する(ついでに言っておくと、それは裏を返すと「性的主体として女体を消費しない(できない)男性」に落後者のレッテルを貼ることに繋がり、ゲイ男性への差別を助長する他、非モテを拗らせた弱者男性の増産にも寄与することになっているとも思う)。

 女性の社会進出はそれなりに進み、前半でも触れたように、社会は少しずつではあるが、よりフェミニズムに親和的な部分も出てきている。しかし、その一方で、医療の進歩は「代理母出産」や「卵子提供」などの形で女性身体を資源化し、リベラルや左派とされる人々までもが、それを「女性の選択肢」として称揚する傾向がある。巨大化する性産業は「売る女性の主体性」を錦の御旗に女性を性的身体へと還元し、それは中学生(場合によっては小学生)までもが性的身体として売買される土台を固め続けている。女性が意志と個性を持つ人間として意見することには良い顔をしない人間たちが、性的資源や生殖資源となる「主体性」にだけは光速でお墨付きを与えてくる。

 昔から、男(社会)は個々の女性たちを分断することで、階級としての「女性」を支配してきた。それが、家の中で家父長の子を産む女(袋)=資源①と性欲処理のために男性たちに共有される女(穴)=資源②という分断から、「(ある程度は)意見を聞いてもらえる女性、意志を尊重してもらえる女性」と「資源としての女性」という分断に移行しているようにも感じられる。そして、前者には後者の存在が見えにくいことも手伝って、両者の分断は、「どちらにしても資源扱いされる」というかつての分断以上に、女性たちの連帯を難しくしてしまうこともあるのかもしれない。代理母出産を利用する側と代理母として身体を提供する側、「セックスワーク イズ ワーク」と性売買を普通化しようとする側と他に選択肢が見つからずに性産業に入っていく女性…それぞれに見えている景色はあまりにも違うだろう。
 私たちが語る「フェミニズム」という言葉は、それぞれの立場で全く別の何かなのかもしれない。それでもなお、言葉を紡いでいくしかないので、Wordに強制終了されたり、「保存できませんでした」とか言われて、むきぃぃぃぃ~となりつつ、今回も7000文字以上書いてしまった。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 前々から思っていることではあるんですが、女性の権利の回復が一歩進むとその逆の動きが二歩くらい進む感じってないですか?意地でも女の権利は認めたくないというか、部分的に権利が認められると、それ以外のところでどうにかこうにか女を分断して資源にしてやろう…みたいな。まぁ、その辺りのことで何か書きたいとも思っていたので、今回は2つの話題を合わせて文章にしてみました。早く「フェミニズムを吠え」なくていい社会になってほしいですな。

 昨今、「フェミニズム」が「なんでも屋」的に"全部乗せ"されがちな言葉になっている気もするので、カタカナ語を捨てて「女権回復運動」とか言っていく必要があるのかもしれないですね。
 そんな感じで、キラキラしないしミモザも飾らないフェミニズム周辺の話を今後も続けていきたいです🔥

 最後に…今月(3月)は私の誕生月でして、この1年間は配信数も少なくなってしまっているので、図々しいとは思うのですが、こちらのほしいものリストから何か贈って応援していただけますと励みになります。今年はついに40代後半に突入ということで、これまで以上に体調管理などに気をつけて、もう少しコンスタントに配信ができるように頑張りますので、よろしくお願いいたします。

 ホルガ村カエル通信は、フェミニズム周辺の話題を取り上げる完全無料の個人ニュースレターです。オススメの映画や本などを紹介する3000〜5000字くらいの「カエルのおすすめ」シリーズとなんらかのテーマを私なりに掘り下げる長文レターが不定期で配信されます。長文レターの方には「講読登録者限定パラグラフ」がつきますので、よろしければメールアドレスを入力して「講読登録」をしてみてください。

 では、また次回の配信でお会いしましょう。

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最近、リンクを貼っていませんが、マシュマロもやってますので、匿名でご意見やご感想を送っていただくこともできますよ。

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