ミソジニー村の村長になれるのは誰なのか

「ワークライフバランス」
恥を忍んで告白すると、私は「ワークライフバランス」の「ライフ」を「余暇」とか「趣味の時間」のことだと思っていて、「家事」のことだとは思っていなかった。高市早苗の自民党総裁選後のスピーチにあった「ワークライフバランスという言葉を捨てます」という発言から派生したネット上の議論などを見ていて、「ライフ」には「家事」も含まれているらしいということを知って、「え?それ、ワークワークバランスじゃん?」となったところである。
個人的な趣味の話をするなら、私は料理が好きだ。だから、料理という家事は、私にとっては、息抜きや娯楽の要素がある。それでも忙しい時ややる気が起きない時には煩わしいものなので、ましてや料理が趣味ではない人にとっては、それは「ライフ」よりも「ワーク(ただし無償)」なのではないかと思う。
しかし、考えてみれば、「子育て」という要素が加わると「家族と過ごす時間」は必然的に「家事・育児をする時間」にもなってしまうという側面はあるだろうと思う。というか、その二つを完全に分離することは難しい。子どもと過ごす時間、大人は子どもの安全に気を配る義務があるし、教育的な配慮も必要になる。それは、子どものいない私が自分の好きな料理をしたり、食後の時間にお茶を飲みながら好きな本を読んだりする時間とは違うものになる。
そして、まだまだ保守的な日本社会においては「夫婦+子ども」という家庭が「標準的な家庭」と一般的に想定されているだろうから、ワークライフバランスという言葉もそういった家庭を念頭に使われるケースも当然多いだろうし、もともとは私生活を犠牲にして日夜働く「企業戦士」的な働き方一辺倒へのアンチテーゼとして導入されたものなのだから、その「賃労働」に対置されるものには「賃労働から解放される時間=そこには家事労働や育児やその他のケア労働も含みます」となってしまうのかもしれない。(ただし、子持ちであっても、男性にだけは私と同様の「自由時間」が存在しているケースも日本においては珍しくないのではないかと疑っている)
以前、ドイツ人の友人が「年間30日しか有給休暇がない」と愚痴ってきたことがあった。日本人の我々からしても「30日しか、だと?」だが、ドイツでは法的に保証されている有給休暇が年間24日なので、彼の職場の待遇はそれよりも良いのだ。さらに、付け加えておくと、あちらでは医者に「病欠しろ」という診断書を書いてもらえば、有給休暇とは別に有給で休めるようだ。日本であれば、病欠した日に有給休暇を消費することが割とよくあることを思うと、うらやましい限りである。
日本で企業に就職して働いている友人にこの話をしたところ、「日本では30日も休んだら仕事についていけるだろうか?って不安を感じちゃう人の方が多いんじゃないかな」と感想を述べていた。その友人もヨーロッパ留学経験があり、あちらの文化にもそれなりに馴染があるのだが、日本の企業で働いて、周囲の人をみているとそういう感想が出てくることに、日本社会の「勤勉っぷり」を認識させられた。
しかし、日本においては「勤勉」であることは称揚されるものの、勤勉な人間が自分の「権利」を主張することは忌避されている。結果として、勤勉に搾取されてしまうという構造ができ上がっているように思う。
これは他人事ではなく、実のところ私自身にも当てはまる。私は比較的あれこれ権利を主張する方ではあるが、それでもやれる限り徹底的に闘う!みたいなことまでは出来ていない。近い立場の上司に掛け合ってスケジュールを組み直してもらうとか、出来たとしてその程度だ。コロナ禍2年目にリモートワークを勝ち取ったのは割と頑張ったのだが、それ以来、上司から疎まれたまま、上司は定年退職を迎えるっぽい。偶然、友だちの先輩という立場の人だったこともあって、プライベートで飲んだこともあったというのに…というのはまた別の話。
保守でなければ出世できない構造
私は、高市早苗には相反する感情を抱いている。まずは、保守政治家であり、排外主義的な発言や明確に差別や弱者軽視と言っていい発言をする政治家としての高市に対する嫌悪感がある。高市がヘビメタ好きであるという事実も、「メタラーとして迷惑」という気持ちにさせられるくらいには、高市を好きになれない。
一方で、彼女があそこまで振り切らなければならなかった理由も考えてしまう。女性であるがゆえに男性の何倍も優秀でなければ認められないのは政界に限らないが、総裁に選ばれた直後だからこそ、男性の同僚たちを前に「働いて働いて働く」と言わねばならないと感じたのだろう。そんな「男社会で生きる一人の女性」として見ると多少の同情もしてしまう。自民党の政治家として生きるというのは、高市が自分で選んだ道ではあるが、もし、日本の政界がもう少し女性差別的でなかったなら、高市はもっと中道寄りの政治家でいられたのではないか。
そういう「構造」の問題を差し置いて、「高市は差別主義者だから何を言われても仕方がないのだ」とばかりに、男性の議員だったら言われることがないような言葉までぶつけられていることに、日本社会全体のミソジニーの深さを感じてしまう。
不確かな情報に基づく差別扇動発言や統一教会との関係、排外主義的な政策などについては、それぞれ個別に具体的に追及していくべきだと思うが、その際に不必要に「女性であること」に言及するのは得策ではない。しかし、残念ながら、高市批判には自民党総裁に就任した時点で、それまで以上に女性差別的な要素が上乗せされているし、首相に就任すればさらに苛烈になっていくだろうと想像してしまう。そのことによって、自民党支持者の女性だけでなく、穏健な無党派層やノンポリの女性も逆に高市に同情するだろうし、結果として支持率が上がるだろうと思って見ている。そして、それを一部の左翼・リベラルは「差別主義者に簡単に騙される愚民が多い」と捉えてしまう(なんなら「女は感情的で政治のことがわからないから」と女性差別的なことを思う)。捉えるだけならまだ仕方がないかもしれないが、彼らは律義にも、それをわざわざ全世界に開かれたSNSに投稿する。そして、「なんか左翼・リベラルって感じが悪い」と嫌われるのである。なんでそんな下手を打つのか、いつも歯がゆい思いでいる。
人間は「感じの悪い正しいことを言うひと」と「感じはいいけど時々正しくないことも言うひと」がいた場合、9割方、後者の方を好きになってしまうものだろうと思う。それは「正しさ」という点では間違っているかもしれない。しかし、人間には感情がある。好感を持ってもらうためには、「感じのいいひと」になればいいだけで、正しくないことを言う必要も主張を変える必要もないのだから、そんなに難しいことではないと思うのだが…。なぜか「貴殿は我々の感じ悪さに堪えられるかな」みたいな変なハードルを課してくるタイプが左翼には(とりわけTwitter上に)少なくない。せっかく自民党が裏金問題とかで「感じ悪い」担当をしてくれていたんだから、その隙に「感じ良い」担当になっておけばよかったのに…。
しかし、その機会を逸した左翼・リベラルは「初の女性総裁(そしておそらくは初の女性首相)」をミソジニー混じりの言葉で叩きまくって、感じ悪さを2乗することになってしまうのが目に見えている。ツライ。
余談だが、女性差別的と見なされがちなメタル界においても、特にマッチョで女性を性的オブジェクト扱いしているところがあったManowarというバンドがいるのだが、最近どこかでBrothers and Sisters of Metalとファンのことを言っていて、「Sistersが入った!Manowarにも男女平等の風が!」と思ったところだし、Manowarは「メタル好きならお前は友だちだ」と言ってるんで、排外主義者はメタル兄弟とか名乗らないでほしいし、高市もメタル者なら、国籍や民族で差別するような思想とは手を切るべきだ。もちろん、メタルの中にも明らかに問題のあるタイプのバンドはいるが、高市の好きなバンドはそういうニッチなジャンルではないし、欧米のメタルバンド好きにとって、我々アジア人はどちらかと言えば差別される属性なのだ。排外主義を掲げつつ、欧米のメタルを愛好して、自分たちが差別されることは考えないというのも随分能天気な話でもある。
アジア系に対する透明な差別
少し脱線するが、日本の多くのひとは肌の色による人種ヒエラルキーを「白人>黄色人種>黒人」だと勘違いしているように思うのだが、フランスなどにいくと実感するのはアジア系はアフリカ系からも差別される側だということだ。基本的に、アジア系は人種ヒエラルキーの最底辺に位置づけられるのだ。だからこそ、2023年のアカデミー賞におけるキー・ホイ・クァンやミシェル・ヨーへの受賞者(白人)たちの失礼な態度は結局ほとんど問題視されずに、被害者側がわきまえた発信をすることで「差別はなかった」ことの証拠のようにされてしまった。
その際、日本のハリウッド好きの中にも、完全に白人目線になっているというか、アジア系差別に非常に鈍感なことを言っている人たちがいた。それも「私はハリウッドに詳しいからこそ一般人にはわからないハリウッドの常識がわかってるんですよね」と言わんばかりの口調で。ウィル・スミスの平手打ち事件でも、そういうタイプの人たちがクリス・ロックの女性差別には鈍感なまま、ウィルの「有害な男性性」について、自分たちはさも先進的でフェミニズム的であるかのようにあれこれ言っていたことも思い出してしまう。
アフリカ系への差別は「人種差別」としてはっきり認識されて糾弾もされるのに、アジア系への差別は存在しないことにされる。それは、アジア系への差別が「存在を無視される」系統の差別になりがちなこととリンクしているように感じる。敵意をむき出しにされたり攻撃されたりするタイプの差別と違って、差別されたことを訴えても「気のせいじゃない?」と言われるような差別というのをアジア系は受けることが多い。
光浦靖子の『ようやくカナダに行きまして』(文芸春秋)でも、カナダの語学学校でスイス人クラスメイトから「存在を無視される」系の差別を受けたことが書かれていた。気のせいなんかじゃないのに、グループワークを一緒にやっている他の人たちは気づいてくれなかったようだし、当然誰も注意してくれなかったわけで、その時の感覚は私にも経験があるのでよくわかる。私の場合は直接的に何かされたわけではなかったのだが、とある学生のアジア人差別的な冗談発言にクラス全員が笑っている中で、言葉にならない悔しさと動悸を抱えてうつむいているしかなかった自分の経験を、他人に話せたのは1年以上経ってからだった。話したら「それは差別である」とわかってくれると思える相手だったから。この手の話は、話す相手によっては「悪気はなかったと思うよ」「差別だと思うのはちょっと過剰反応じゃない?」と返されただろうし、何よりも誰かに話すことそのものもなんだかつらかったのだ。
正しい主張も聞いてもらえなければ意味がない
かつて秋葉原でヘイトデモが行われたときに、カウンター(というか、私はデモが来る前に沿道の人たちに注意喚起のビラなどを配る担当)に行ったときに、秋葉原に遊びに来ていた若い男の子のグループが話しかけてきて、「ヘイトデモはダメだ、オタクに国境はないんだ」といったことを熱く語ってくれた。日本発のオタク向け(に限らないけど…)コンテンツにはいろいろ問題が多いし、それを愛好している時点で少なくとも“ツイフェミ“のことは嫌ってる可能性が高いわけで(当時はまだアンチフェミは少なかったし、“ツイフェミ“なんて言い方も定着してなかったけど)、振り返ると少々複雑な気持ちにもなるのだが、排外主義に対する姿勢は正しい。
人間は、「正義」とか「理屈」とかよりも、身近で感情移入できることからの方が正しさに近づけることがある。もちろん、そこから逆に正しくない方に向かってしまうこともあるから、正義も理屈も大事なのだが、しかし、だからこそ、左翼・リベラルは、もっと無関心層の感情に敏感になった方がいいと思う。「正義を振りかざして」と思われてしまってからでは主張している内容が相手の心に響かないのだ。
総裁選後の辻元清美から高市への「おめでとう」のツイートは、政治的な立場は違えど、「女性議員」だからこその苦労や悔しさを共有できるからこそ出てくる言葉だった。少なくとも私にはそう読めた。しかし、左翼やリベラルの立場の人たちの中には「口汚く」と言ってもいいような物言いで辻元を非難する者も少数ではなかったように思う。
その一方で、むしろ政治的には辻元と反対の立場にいる人たちからは「このツイートをみて見直した」といった反応がかなりあった。別に、それを理由に彼らが辻元の政策を支持するわけではない。しかし、なんとなく「感じ悪いリベラル」と思っていたのが「意外と話が分かる人かも?」になれば、それ以前よりは辻元の「言っていること・主張していること」が耳に入りやすくなるという効果は期待できると思う。
人間は複雑な側面も持っているけれど、単純なところもあるもので、「なんだ意外と感じがいいじゃん」と思っただけで、その人の発言の捉え方も変わったりするものだ。それに、彼女らは国会議員同士であり、充分すぎるほどの大人同士なのだ。儀礼的にでもお祝いを述べるのは、当たり前でさえある。それができないのは、狭量な人間という感じがするし、そんな人間に自分の票を託せるのか?という視点も必要だ。
「差別主義者とは徹底対決あるのみ!」とファイティングポーズを決め、相手の声をかき消すほどに罵倒する(相手が女性であればババア呼ばわりも辞さない)ことは、「ファン向けアピール」としては効果があるのかもしれないが、他の人たちの目にはどう映るだろうか?多くの票を集めなければ勝てないことを踏まえて、ファンサービスよりも不特定多数の有権者に訴える方法を熟考してもらいたいと心から願って止まない。
女性政治家だけが期待される何か
Netflixの『ザ・クラウン』というイギリス王室を描いたドラマがある。基本的にはエリザベス2世時代のドラマ化になっている(それ以前も少し描かれるけれど)ので、当然、高市も尊敬する、鉄の女ことマーガレット・サッチャー首相の時代も出てくる。ドラマはあくまでドラマなので、史実にどれほど忠実なのかはわからない。それでも、私はそこで描かれるサッチャーには少し同情もしてしまう。
特に、スコットランドにあるバルモラル城に招待されるエピソードでは、平民出身で貴族のお作法やしきたりが分からないことでサッチャー夫妻が右往左往する様子やそれをクスクス笑う(おそらくあまり「悪意」はないのだろうけど)エリザベスたち王族の様子が描かれ、「うっっわぁー、お貴族、くそ意地悪!!!」と思わされる。せめて誰かが少しは教えてあげればいいのに…。今であれば、こそっとGoogle先生に訊ねて、適切な服装をしたり、ちょうどよい頃合いに広間に行ったりできるのだろうけど。
高市への非難を見ていて、どうしてもこのドラマのサッチャーのことを思い出してしまうし、サッチャーが亡くなった後の今でも「他に類を見ないものすごい極悪政治家」の代表のように言われ続けている理由って、もちろん彼女の政策にもあるのだろうけど、実はミソジニーも結構あるんじゃないのか?と思えてしまう。同程度に悪い男の政治家がいても、サッチャーほどには憎まれないで済むという現実があるんじゃないか。私たちはどこかで女性政治家にある種の「女性像」を期待していて、それに添わない女性政治家に対しては罰を与えずにはいられないのではないか。
女性が「強く」なくても、「働いて働いて働く」と宣言しなくても、政治家としてトップに立てるような社会にしていく努力を続けなければ、最も弱い立場の女性たちに心を配れる女性総理が誕生する日は来ないだろう。また、そのような「優しい」女性がトップに立った時に、元々は女性差別是正のためであった政策が「俺たちもつらいんです、ぴえん」男によって簒奪されてしまわないくらいに社会全体で女性の地位向上が必要だ。トップが変われば変わることもたくさんあるけれど、そのような女性をトップに立たせない強固な男性中心社会があるという事実を無視した高市批判は虚しい。
私にだって、どうせならリベラルな女性総理の誕生を祝いたいという気持ちはあるのだ。しかし、それでも保守的な人物であっても女性が総理になることの意義を全否定はできない。
まだ、何がどうなるかわからない「高市政権」だが、女性の閣僚が過去最多になる可能性もある。これも「女性なら誰でも良い」わけではないが、これまで男性な上にしょーもない連中が閣僚として雁首を並べてきたことを思えば、まだマシである可能性もゼロではない。そもそも、なぜ、女性の時だけ「女性なら誰でも良いわけではない」とわざわざ言われるのか?
高市の苦労話は彼女の排外主義を正当化はしないが、その多くが女性でなければ経験することはなかった苦労であるのは事実だし、高市が女性差別の犠牲者であることも事実だ。自分たちの御眼鏡に適う女性以外は簡単に「男」認定してしまう(「名誉男性」「オバサンの皮をかぶったオッサン」などという言い方をしている人が少数とは言えない程度いる)左翼・リベラルの思考回路は、自分たちの性的関心が向かない女性をBBA認定して回るアンチフェミと方向性が違うだけでレベルは大差ない。そのことに気づかないで、高市よりも自分たちこそが女性の権利のために戦っていると自惚れている様子に呆れ果てている。
ミソジニーは他人事ではない
公明党の連立離脱で一時は危ぶまれた「高市政権」の発足だが、このニュースレターの発行数日後には結果が出る。世論調査の結果を見れば、初の女性首相誕生への期待は大きいようだ。高市早苗は「極右」の政治家ではある。しかし、政治には数えきれないほど様々なイシューがあり、極右であることがダイレクトに影響するのはそのすべてのイシューなわけではないと思う(だから同じく極右とされた安倍政権下でも野党も賛成した法案、全会一致で成立した法案も少なくない)。私は、そのうちの一部のイシューであっても、首相が極右であるせいで悪い影響が出ることをとても危惧しているし、公明党にはそのブレーキ役として留まって欲しかった気持ちもある。
「極右政権」の誕生には危機感を持たなければいけない。しかし、高市を支持する大半の人たちは、彼女が極右「だから」支持しているわけではない、という点も無視しない方がいいと思う。それは、高市に極右政策を進めさせないためにも重要になる。有権者が全く望まない政策を優先させれば、支持率は下るのだから、支持している人たちにこそ、ブレーキになってもらわねばならないからだ。支持者をすべて「差別主義者」「愚か者」と見なすこと、頭ごなしに非難することには慎重であるべきだろう。
そして、初の女性首相に期待する人たちの支持を、これまで左派・リベラルが獲得できずにきた原因を考えて、次に活かしていかなければいけないと思う。
左翼もミソジニー村のままでは、いつまで待っても「リベラルな女性総理」は夢のままだ。「ネトウヨはミソジニスト」「極右は女性差別者」と、ミソジニーや女性差別を自分たちから切り離して語りたがる左派・リベラルは多い。しかし、高市総裁誕生へのリアクションを見ても、ミソジニーは何も保守・右派陣営の専売特許ではない。女性差別は、この社会に広く満遍なく、そして深く浸透しているからこそ解消が難しいのだ。ミソジニーを丸出しにした直後に「(自分の言動は)ミソジニーではない」と勝手に言い張っている男性のすごいところは、男である自分に「女性差別とは何か」をほとんどの女性以上に正確に判定する能力があると思い込んでいるところだ。例によって無駄にポジティブで迷惑である。左派・リベラルのミソジニーは、まずは本人達に自覚させるところから始めないといけないので、気が遠くなりそうだが、しつこく言い続けるしかない。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
すでに大手メディアでも似たようなことを書いている方が数名いるので、私ごときが言うまでもないかなぁーとは思ったのですが、やはり自分が感じたことは自分で書くしかないというのと、有料の新聞記事などだと読める人が限られてしまうので、無料公開の個人ニュースレターの強みを活かすべきだなと思い直しました。
2年ほどまあまあ調子が悪くなかったのですが、9月半ばくらいから上咽頭炎(コロナ後遺症のひとつ)が再悪化しているようで、絶妙に体調不良です。この夏は炭酸飲料も解禁していたのですが、またしばらく炭酸・アルコール・カフェイン・油もの・甘いもの・辛いもの(胃酸逆流を誘発しやすいもの)を控える生活に突入です。アルコールは全く摂らなくても割と平気なのですが、コーヒーや紅茶が好きなのでカフェインレス生活は少々堪えます。よろしければ、アマゾン欲しいものリストからお茶など贈っていただけますと嬉しいです。気圧が下がる時期は上咽頭炎は悪化しやすく、リンパが腫れたり、鼻水が止まらなくなったり、酷い眩暈に見舞われたりして、気持ちがヘロヘロなので。
色々と先行きは不安ですが、「日本終了のお知らせ」とか口で言ってみても、実際には日々の生活は続くので、なんとか少しでもマシになることを目指していきましょう。
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