平手打ちの正しくなさを指摘する前に

暴力はいけないという大前提は何度でも確認すべきだけれど、言葉を奪われたひとたちが暴力に訴えずに済む社会を作る責任はマジョリティにこそあるということも確認した方がいいように思う。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.05.13
誰でも

ビンタの衝撃

 アカデミー賞授賞式におけるウィル・スミスの平手打ち事件から、一ヶ月以上が経ち、この話題はすっかり過去のものとなってしまった。それは、当たり前だし、むしろ一ヶ月以上経ってもこの話題で持ち切りだったら、それはそれで世の中大丈夫なのか?という感じだが、時間が経ってみても私にはどうにも腑に落ちないことがあるので、今回はその話を少ししてみたい。

 簡単に経緯を振り返ると、アカデミー賞授賞式において長編ドキュメンタリー賞のプレゼンターを務めていたクリス・ロックが舞台上から招待者席に座っているウィル・スミスの妻ジェイダ・ピンケット=スミスに対して「ジェイダ、大好きだよ。『G.I.ジェーン2』を楽しみにしているよ」と発言し、これに怒ったウィルが舞台上のクリスのところへ歩み寄ってビンタを食らわせ、去り際にも放送禁止用語を含む罵声を浴びせた。ジェイダは脱毛症を患っており、そのことをオープンにした上でベリーショート(ほぼ坊主頭と言ってよい短さ)にしており、クリスの発言は脱毛症のひとを揶揄するジョークであると言うことができる。
 しかし、クリスは「いい意味で言った」と主張しており、Twitter上でも、これに同調して「『G.I.ジェーン』でのデミ・ムーアの坊主頭は美しかった」「『V・フォー・ヴェンデッタ』のナタリー・ポートマンや『マッドマックス/怒りのデスロード』のシャーリーズ・セロンの坊主頭もカッコ良かった」などと他の女性たちを挙げて、むしろこれを揶揄だと受けとる人間が「女性の主体性を尊重する」ことができず、「女は男に守られるべき」だと思っている保守的な人間である、といった主張をしているひともかなりいたようである。
 また、「経緯はどうであれ、ビンタという身体的暴力を用いたことが問題である」という論調もかなり強く見られた。そして、これが米国のアカデミー協会的には最終的な結論となったようで、ウィルはアカデミーから自主退会という形で去り、さらに、今後10年間、彼はアカデミー賞には無縁のひととなることが決まっている。ウィルが関わったドラマや映画は企画が中止になったり、一端棚上げになっており、#metooで告発された一部の映画関係者に対する処分よりもかなり厳しいものになった。

平手打ちをしたのがウィル・スミスであること

 アメリカ社会は、拳銃の所持が認められているため、「暴力」が簡単に「死」に繋がる。だからこそ、平手打ちであったとしても、暴力に訴えることには強い忌避感があるし、暴力を用いることを徹底的に否定していかなければならない、という社会通念があるのだ、といった解説には、確かに「なるほど」と思わせる面があるし、特にウィルが「黒人男性」であることが話をより複雑にしているという解説にも納得がいく。
 アメリカでは歴史的に「黒人男性である」だけで「暴力的に違いない」というステレオタイプで見られる危険性を背負わされる。白人男性が暴力事件を起こした場合、それは個人の問題として処理されるが、黒人男性が暴力事件を起こすと「ほらみろ、やっぱり黒人男性は暴力的だ」とそれは個人の問題ではなく「黒人男性」の問題にされてしまい、マジョリティの偏見を強化する(偏見を再確認する)契機にされてしまう(実際にこうした偏見に基づいて警官が黒人の少年や男性をこれといった理由もなく「悪いヤツ」と決めつけて発砲したり拘束したりして命を奪った例は少なくないし、それが司法で正しく裁かれないことへの抗議から大きな人権運動へと発展した事件も複数ある)。
 世界中に同時中継される(当然、子どもも視聴している)アカデミー賞授賞式という場において、相手の無礼にたいして暴力で応酬するというのは、誰であっても批判の対象となるだろうが、ウィルが黒人であることで、それは単純に個人の問題では済まない「黒人コミュニティ」を巻き込む問題にもなってしまう。それは、ウィルが望んだことではないけれど、残念ながら「そうなってしまう」ことである。
 男性が馬鹿なことをしても「あいつは馬鹿だな〜」で済むのに、女性が馬鹿なことをすると「これだから女は使えない」「やっぱり女は馬鹿だ」となるのと同じで、むしろ、これは受け手の問題なのだが、そうなることが分からないウィル・スミスではないし、むしろそういった「暴力的な男性像」から可能な限り離れるように努力してきたひとだからこそ、子どもが見るような映画にも多く出演してきたし、それこそ、ディズニーの実写版『アラジン』では、大人気キャラクターのジーニーにも配役されたのだろう。
 だからこそ、彼の行動にショックを受けるひとがいるのはよく理解できるし、彼の暴力が批判されること自体は、「健全」であるとさえ思う。というのも、家族を侮辱されたことで怒って手を上げたことが良しとされることは、「正当な理由」があれば暴力を振るってもよい、というメッセージとして機能してしまうからだ。

 ウィル・スミスと言えば、私にとっては「MTVで知ったラッパー」だったので、「ラッパーだけど映画にも出始めたひと」だと思っていたのだが、気付いたら「超人気俳優の一人」になっていた。そんな認識なので、彼が世間的にはどういうイメージだったのか、きちんと把握できていない可能性もあるし、アメリカ文化(とザックリ言ってもアメリカって標準時間が3つあるくらい広いのよね…)に精通しているわけでもないので、私が間違っているのかもしれないが、私がどうしてもよくわからないのは、ウィルへの処分の重さに対して、クリス・ロックが無罪放免どころか、アカデミーから感謝されてさえいることだ。

グッドヘアーの呪い

 クリス・ロックの発言が「いい意味」であるかないかは一端脇に置くとして、しかし、それでも、彼のあの発言(女性の容姿いじり)も決して褒められたものではないし、それがウィルの平手打ちを誘発したのは単なる事実である。ウィルが平手打ちをしたことで、ウィルとクリスのどちらが悪いか?みたいな話になってしまった嫌いがあるが、クリスとジェイダの関係で考えた場合、悪いのはどう考えてもクリスである。クリス本人の意図とは関係なく、ジェイダがくすりとも笑わなかったことを見れば、彼女には「いい意味」には聞こえなかったわけで、クリスに悪気がなかったとしても、脱毛症のことを知らなかったとしても、軽々しく女性の容姿をいじったことに対して、一言くらい謝罪があってもいいのではないだろうか?
 ウィルが暴力を振るったことで、逆にジェイダは発言する機会を奪われてしまったとも言えなくないし、最終的に「やっぱウィルはビンタはしちゃだめだったよね」と思うけれど、それでも、ジェイダと同じく脱毛症の女性から「ウィルありがとう」というコメントもあった、ということも忘れてはいけないように思う。

 そして、私はクリスの「いい意味で」だという言葉をとても信用する気になれない。というのも、彼は『グッドヘアー』というドキュメンタリー映画を制作しているからだ。これは、クリスが娘から「なんで私はグッドヘアー(縮れていない髪の毛)じゃないの?」と聞かれたことで作った映画で、髪の毛という一般的に「女性が大事にするべき」とされるものに対する、特に黒人女性が抱かされるコンプレックスなどが取り上げられている。もう10年以上前に見たので、うろ覚えなのだが、登場する女性たちの多くは真っすぐな髪の毛を手に入れるために苦労をしているから「彼氏に無造作に髪を触られたくない」といった話もしていた。
 私は天然パーマの髪質なので、それをストレートにすることの苦労はそれなりに知っている。半年ほどヘアアイロンを頻繁につかっていた時期もあるが、結果として髪が傷んでしまった。もちろん私のやり方に問題があったのだろうとも思うが、縮れた髪の毛を真っすぐにするために髪にあれこれすることは、髪の毛や頭皮に優しいことではないのだろう。
 同じようにカールした髪の毛であっても、男性は必死にストレートヘアを手に入れようと努力しなくても済むが、女性はそれを求めて若い頃からお金も時間も使っているということをクリスが知らないとは思えない。ストレートヘアを求めないにしても、もともとストレートヘアであったとしても、男性よりも女性の方が髪についてはコンプレックスを抱かされる社会なことは、いい大人ならわかるだろう。

 それに加えて、クリスは2016年のアカデミー賞に際して、ジェイダが「黒人の俳優や監督がほとんどノミネートされないアカデミー賞をボイコットしよう」と呼びかけたことを受けて、「オスカーをボイコットするだって? 彼女がそうするのは、まるで僕がリアーナのパンティをボイコットするようなもんだ」と発言してもいる。(←これは、こちらの記事からの引用なのだが、女性の下着を"パンティ"と呼ぶのは『ドラゴンボール』のキャラとか『LEON』読んでるおっさんであって、女性はショーツと言うよね?)
 ジェイダはこの年の授賞式に招待されていなかったため、「招待されてもいないものをどうボイコットするんだ?」とつっこむのはコメディアンとしては当然かもしれない。しかし、そこでわざわざ「リアーナのパンティ」とこの話題に無関係の女性の下着を引き合いに出さなくてもよかろう。まぁ、それは…クリスは多少お下劣なジョークも言うタイプの人間だからということ&2016年頃は今よりそういったジョークが一般的に許容されていたことから、不問ということにしてもいい。しかし、今回、ジェイダの夫=ウィル・スミスが主演男優賞にノミネートされているというタイミングで、わざわざジェイダを名指して容姿をいじったことが、この2016年の出来事と全く無関係であるとは思えないのだ。「威勢よくボイコットなんて言ってたこともあるのに、夫がノミネートされて喜んで出席しちゃうわけ?ちょっとからかってやろ」と思ったからこその名指しじゃないのかなぁと思ってしまう。『G.I.ジェーン』などと1997年の映画を引っ張り出してまで、彼女の髪をからかおうと思ったのは何故なのか?
 また、私の記憶では『G.I.ジェーン』は話題にはなったものの、映画としての評価はあまり高かったわけではない。なぜ、わざわざ、そんな昔の映画(25年前!!)を挙げたのだろうか。本当に「いい意味」で言ったなら、それこそ『マッドマックス/怒りのデスロード』でもよかったのではないか。

言葉の暴力の軽視と不可視化される女性差別

 さて、結局のところ、クリス・ロックがどういうつもりであの発言をしたのかは本人にしかわからないし、それは必ずしも「本人が言っていること」と一致しているわけでもない。しかし、身体的暴力を否定する一方で、言葉による暴力はなかったことにしてしまうアカデミーの結論にはどうにもモヤモヤしてしまう。

 ウィルとクリスという黒人男性同士の諍いのような形になったことで、見えにくくなっているのは、最初のクリスの発言は男性というマジョリティから女性というマイノリティへの言葉の暴力だったということなのではないか。その構図を作ってしまった元凶はウィルなのだが、しかし、ウィルを批判する多くのひとが「ジェイダは自立した大人の女性なのだから、ウィルがしゃしゃっていかなくとも自分で対処できたはずだ」「ウィルの行動は、妻を一人前の人間と認めていないからこそ出てきたものだ」「妻が侮辱されたからと言って夫が出て行くのはおかしい」と言っていたはずだ。それであるなら、ウィルの行動を理由に、ジェイダの被害についてクリスを批判するのを控える、というのも納得がいかないような感じがある。ウィルの行動が批判されることはわかるが、クリスのジェイダに対する発言がたいして批判されないのがわからない。

 ウィルの行動を「有害な男性性」というキーワードで説明するひともかなりいたように思うが、実際のところ、彼が何を思ってビンタをしに行ったのか、他人である私にはわからない。そして、ウィル本人にもはっきり分かっていない可能性がある。私たちは、思考するよりも早く感情に動かされることもあるし、自分の行動のすべてを正しく分析できる訳でもない。いずれにしても、彼の行動を「有害な男性性」の発露だと批判しているひとたちは、「女性の容姿をネタにする」というクリスの有害な男性性には無頓着に見える。
 「気に入らないジョークにビンタしてもいい」ということになったらコメディアンはどうすればいいんだ?という意見も目にしたが、「気に入らないジョーク」が病気を揶揄するようなものである場合、ビンタはダメでも批判はした方がいいのではないだろうか。そして、本当にクリスがジェイダの病気のことを知らなかったとしても、自分が病気のひとに、そうとは知らずにでも酷いことを言ってしまったと知らされて、何も反省するところがないのも不思議だ。私が『グッドヘアー』のことを真っ先に思い出したというのに、監督したクリス本人が全くそれを思い浮かべなかったのだとしたら、彼は何のために映画を撮ったのだろう。「啓蒙されるべき世間」と違って、こういう映画を撮って「アフリカ系アメリカ人の女性がそのままの髪で誇りを持てるようであってほしい」と考えている自分はもう「わかってる」男だから反省すべきことなどないと思っているのだろうか。

 アカデミー賞授賞式という華々しい舞台を台無しにした元凶はクリスだと私は思う。彼はこの日に他にも問題発言をしているし、過去にも問題発言を指摘されているが、それらについても一度も謝罪していない。「絶対に謝らない」というのも、なかなかに「有害な男性性」な気がするが、ウィルの平手打ちほどは問題にされずに終わってしまっている。アカデミーは、ウィル一人を悪者にすることで幕引きをしてしまったし、クリスはまたしても反省する機会を逃した。そして、なによりも「女性の容姿をネタにすること」の持つ問題、はっきり言えば女性蔑視という問題については全く不問のままになってしまった。
 「自虐ネタや際どいジョークなども有りで笑をとる、スタンダップ・コメディとはそういうものだ」とアメリカ事情通のライターさんたちは書いている。しかし、仮に現時点でそういうものであるのだとして、それは本当にそのままで良いのだろうか?それは単なる思考停止ではないのか?

言葉を奪わないために

 この事件は「有害な男性性」という概念をかなり広く知らしめたし、私にとってはアメリカ社会において暴力の否定がどれほど真剣に行われているかを知る機会にもなった。そこから、「時には体罰も仕方ないよね」文化が未だに根強い日本社会が学ぶべきことは確実にある。しかし、できることなら、それに加えて「言葉による暴力」についても真剣に考えるべきだったのではないか。
 アメリカには、ヨーロッパ諸国におけるようなヘイトスピーチ(憎悪扇動)を禁止する法はない。ヘイトスピーチに対しても、「法で裁くのではなく、言論で対抗する」という考え方だかららしい。しかし、多くの場合、マイノリティは「言葉を奪われて」いる。それは植民地などにおける同化政策によって、母語そのものを奪われる例から、読み書きの訓練をする機会を奪われる例、発言する場を奪われる例まで様々なバリエーションがあるが、いずれにしても、「言論で対抗」するためには、それなりの訓練が必要なのだ。そして、その訓練をする機会はマジョリティ性が高い人間の方が多く持っている。つまり、立場の弱いひとは、〈もともと強い側の人間の方に圧倒的に有利な条件〉で、あたかも対等であるかのように戦わなければいけないことになる。身体的暴力にさえ訴えなければ言葉でどんなことを言っても良いとなると、発言する場所があり発言を聞いてもらえる権力がある人間は圧倒的に優位だし、どんな酷い侮辱を受けても暴力を振るった方が「悪い」のなら、場合によっては最初に暴言を吐きまくった人間の方が「正しい」ことになりかねない。

 今回の件については、最終的な結論が「身体的暴力に訴えたウィル・スミスが一番悪い」だとしても、より多くのひとにとって過ごしやすい社会を作るためにも、「言葉の暴力」についても議論が進むことを願うし、教育や就業の機会の平等などを進めることで社会的格差を少しでも減らしていくことが大事なのではないかと思う。
 その際、「女は感情的」のようなステレオタイプも無くしていく必要がある。最初から「女は感情的なだけで論理的ではない」と信じているひとは、女性が論理的に話を進めても感情的なだけだと決めつけて内容を聞かないし、一方で男性側がどれほど論理破綻していても「冷静風味」な態度だけで論理的だと勘違いできるという不平等な状況になるからだ。
 対等に議論をするためにも、マジョリティ性が高い側の人間が配慮しなければいけないことがあるし、取るに足らないもの扱いされる無名の一般人の声にも耳を傾けてほしいと常々思っている。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 参考までに、私がいつも興味深く読んでいる堂本かおるさんの記事を2つ貼っておきます。

 別のライターさんの「クリスが賞賛されている理由」についての記事も読みましたが、その手の記事は「日本のSNSでは"妻を守ったウィル、偉い!カッコいい!"という意見が圧倒的多数だ」という日米比較の話が必ず出てきます。しかし、私の観測範囲ではそこまでウィルの行動そのものを肯定している意見は多くなかったので、なんというか私の知りたいことに対しては絶妙にかゆいところに手が届かない感がありました。

 とはいえ、何だかんだで割と「男の友情」みたいなマッチョ映画を好んで観てきてしまった人間でもあるので、自分の中にも暴力への判断の甘さはきっと備わっているのだろうと思うので、そこは機会があるごとに繰り返し自省していかなければ、と思います。

 では、また次回の配信でお会いしましょう〜🐸

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