「買う男性」にこそ処罰を与えるべし

買春者の9割以上が男性であることを考えてみても、「性の平等」は性売買が廃絶されたその先にしかあり得ないと思う。どうしても「性売買」(正確に言うと「女性を性的に搾取すること」)を守りたい勢力も勢いづくと思うので、性売買廃絶派も積極的に発信していこう、ということで…
珈音 2025.11.27
誰でも

性搾取被害を「仕事」と呼ぶべきではない

 「おっぱい募金」を巡ってネット上で左派リベラルな人たちと意見が対立して、人生で初めて「性嫌悪」だの「セックスワーカー差別者」だのと言われたのは、もう10年前の2015年のことだ。当時の私は、まだ、「セックスワーカー」の置かれている状況についてよく分かっておらず、性売買が合法化されているドイツに留学をしていた影響も手伝ってか、「性売買の非犯罪化」にどちらかと言えば賛同する立ち位置だった。どう考えても「性売買」は行われているのに、あたかも行われていないかのような体裁になっていることがおかしいと思っていたし、そのような状況は「働く人」をかえって危険に晒すのではないか、と考えていたからだ。

 また、当時の私のTL上では、Sexwork is work派(性売買をその他の仕事と変わらない「職業」であると位置づけることで、差別や偏見をなくしていけると主張する一派)の発言力が強かった。というか、この「おっぱい募金」騒動をキッカケに、初めて性売買の問題について考えたタイプの左翼・リベラルな知人たちの多くが、Sexwork ist work派に取り込まれていったため、それに100%諸手を挙げて賛同はしていない私のような考え方はマイナーだったのだ。(この件については過去にも書いているので、よろしければこちらの記事も。)

 しかし、自分のSNSでの発信や人間関係が、「脱原発運動」「反レイシズム」中心から「フェミニズム」中心に移行していく中で、性売買当事者や元当事者の直の声に触れるようになり、また、AV強要問題などを通じて、日本の男性たちの加害性についてもよく知るようになった。それと同時に、買春者を処罰し、被買春者を非犯罪化して保護と援助の対象とするという、いわゆる「北欧モデル」について知ったことで、私は自分の認識の甘さを思い知った。そして、法が変わり、社会が変われば、いずれ「性売買は廃絶できる(し、しなければならない)」と確信するに至った。
 そして、2025年11月末現在の日本社会において「おっぱい募金」騒動が起ったならば、肯定派は圧倒的に少数派になるのではないかという気がする。

 当時は、常日頃から性売買という社会問題について関心をもってネット上で議論している人というのは、今以上にごくごくニッチな存在だった。その狭い界隈においては、性売買肯定派の方が優勢だったし、アカデミアにおいても「セックスワーカーの主体性」を論じる研究者の方が先進的であるという雰囲気もあった。その傾向は、今もまだ続いてはいるが、一般社会においては、metooによって女性の性被害告発に関心を向ける人が(自分の被害を語り、自分が被害者であることを自覚する人も)増えたり、フェミニズムに関心を持つひとが増えたことで、「性売買」を性暴力の1つの形態として捉える言説も少しずつ広まっているように見える。その背景には、たくさんの名もない女性たちの告発や性暴力被害を無くすために活動してきた女性たちの存在がある。彼女たちの言葉と行動がゆっくりではあるものの、確実に社会を動かしているという実感がある。

 もちろん、世論はいつでも正しいわけではないので、その点には注意も必要だが、10年前のSNS上では、世間一般のごく良心的な人たちを納得させるに足る説明もできない暴論が、狭い人間関係の中で「異論封じ」(同時に「気に入らない女叩き」)として機能していただけなのだと思う。やはり性売買をその他の「職業」と同列に語ることはできないと強く思う。

 電車でも飛行機でも映画館でもカフェでも吸い放題だった煙草も、今では基本的に「喫煙所」以外では吸えない社会になっている。今、10代の若者には信じられないことだろうが、そこら中で喫煙できて当たり前の時代に「煙草を吸える場所を規制しましょう」と言う人は、おそらく笑われたのではないか。喫煙し放題の当時を知っている世代の喫煙者にとっては、今の社会は「窮屈」に感じられるに違いないと思うが、当時を知らない人にとっては「煙草を吸いたい人は喫煙所に行く」のはただの日常だ。「当たり前」が変わる時、特に過渡期には、混乱や衝突もあるものだと思うが、それでも「過去の当たり前」が「過去」になれば、社会は「新しい当たり前」を前提に進むようになるのだ。

買春処罰という発想の転換

 この10月に始まった国会において、塩村あやか議員、緒方林太郎議員の質問に対し、高市早苗首相が買春の処罰化や性売買の根絶に関連して、かなり踏み込んだ発言をしたことを、私は高く評価する立場だ。ただし、買春の処罰化だけでは不十分で、被買春者女性への罰則を無くし、脱性売買のための支援を行う仕組みを作らなければ、女性たちがより巧妙な形での性搾取に巻き込まれてしまう危険性がある。買春を処罰の対象にすると同時に、被買春者の女性たちや貧困や生活難を抱える女性たちへの積極的な支援は欠かせない。その点にもしっかり言及してもらいたいと思ってはいるが、これまでに首相という立場のひとが、この問題に真正面からきちんと言及した例はないので(今年の6月にも立憲民主党の山井議員が衆院内閣委員会で法務省に対策を求めてはいる)、小さな一歩とはいえ、前進だと捉えるべきだと思っている。

 SNS上では、塩村議員が買春観光客(主に外国人)に言及したことを指して、「買春しているのはむしろ日本人男性だ」「排外主義的な風潮に便乗している」と言う声もあるようだが、私には「右派・保守が乗りやすい切り口」で言質を取りに行くという作戦であるように見えた。普通に考えて、「買春を処罰すべし」と言いながら、「外国人はダメだけど日本人は買春してもいい」と言うわけにはいかないだろうし(産経新聞は若干そのように取れる記事の書き方をしていたが)、今のところ、処罰そのものに正面から反対している政党はない(所属議員や党員にはSexwork is work派もいるけど)。各新聞社の報じ方も「売る側」のみを処罰する現行の法制度に批判的だ。また、性売買が反社の資金源になっていることにもはっきり言及する記事が増えたように思う。

 タイミング的に、こうした一連の流れの中で報じられたのが、12歳のタイ人少女の性搾取事件だった。60人以上の男性たちが、12歳の少女を「売られているから買った」のだ。この事実は、元々は性売買の問題にあまり関心を寄せていなかった人たちにも大きな衝撃を与えたようだ。私の職場でも、あまり政治やフェミニズムの話をしないタイプの同僚が「酷い話だ、信じられない」と怒りを表明していた。普段からフェミニズムに関わる話題にそれなりに触れている人にとっては、「許しがたい」「ひどい」話だという怒りはもちろんあるのだが、「信じられない」ことではないのが、未成年者を「買う」男たちの存在だ。

 私が子どもだった頃の社会においては、「ロリコン」は議論の余地なく「気持ち悪い」存在として扱われていたように記憶している。そのような雰囲気の中で成長した私は、自分が大人になった後、「子どもを性的に見る“権利“」を大真面目に訴える人たちが出てくるとは夢にも思っていなかった。「ペドフィリアとチャイルドマレスターは違う」だの、「ペドフィリアは性的マイノリティとして尊重されるべき」だのという世迷い言を、人権の尊重を唱える左派・リベラル側が主張するという倒錯。
 左派・リベラルは「性的なこと」にオープンであることが先進的で「家父長制」に対抗する上でも重要だと考えがちなところがある。しかし、子どもの人権、子どもが心身を危険にさらされることなく成長する権利よりも、(大人の)性欲の方が重要だとすることは、別に先進的でも「反家父長制」的でもない。家父長制の強い地域においては、児童婚の「伝統」が未だに残っていることもあるし、「子どもの権利」という考え方が定着したのは20世紀末に近いのだ。子どもを性的に搾取することは、家父長制の一部になり得るし、「男の性欲」は家父長制社会で常に肯定され、常に優先されてきたのだ。

kawaii文化の喜べなさ

 昨今の日本において、女性は「幼さ」を纏うことが求められているように感じる。もともと「女性の若さ」に価値を置く文化はあったし、「女性の価値は若さによってのみ測られる」と無自覚に思い込んでいる人は今でも多いのだろう。そのことは、中高年女性が若年女性を心配する発言をすると「BBAの嫉妬w」とあざ笑う男性が少なくないことからもわかる。日本において、女性は声の高さ、話し方、立ち居振る舞い、化粧やファッションなど、すべてにおいて「かわいさ」を身に着けるように誘導されている。最近は「大人かわいい」などという表現も出てきているが、日本語文化圏における「かわいさ」は基本的には「幼さ」に置き換えが可能なことが多い。はっきり自立していて、自我があって、自己主張をする、精神的に成熟している女性では「ない」のが「かわいさ」と呼ばれている。

 女性の「声の高さ」とその社会の男女平等の度合いの関係についての記事を読んだこともあるが、アニメを観ていても女性の声優さんの声の高さは、インド映画に挿入される歌曲(基本、この部分は俳優さんではなく、歌い手による吹き替え)の次くらいには高いように思う。どの程度日本独特な現象なのかはわからないが、明らかに80年代のアニメと比べてみても女性の声は高音化している。かつてのアニメには「声の高いキャラ」もいるが、(若い)女性キャラ全員の声が高いわけではなかったし、声が高いキャラはまだ未成年の女子であったり、少しエキセントリックなキャラだったり、「声が高い」ことにはそれなりの理由らしきものがあったと思うのだが。もちろん、すべてのアニメがそうではないが、全体としてそういう印象を受ける程度には、声が高いのが普通なのだ。
 このように「幼さ」が尊ばれる、その一方で、「身体の成熟」については、未成年者のキャラクターであっても異様な拘りを持って描かれている例が多い。身体のラインが出にくいであろう素材の服であっても、胸や股や尻にまるで服が吸い付いているかのような陰影や皴が細かく書き入れられているアニメは、必ずしも「成人男性向け」のものに限らない。ごく普通の万人向けのアニメでさえ、そうした身体の成熟に「だけ」拘る表現の影響を受けた作画になってきている。そして、その不自然さを指摘する女性はアニメキャラに嫉妬しているということにされるのである。

 様々な場面で、広告のアイキャッチとして制服姿の高校生(と思われる)女子が使われ、身体的にはある程度成熟しているけれども、経済的にはまだ自立できていない(そして、本人達は認めたくないだろうが、精神的にもまだ未熟である)未成年の女子を「女性として最高の存在」であると刷込んでくるのが21世紀の我が国の社会なのだ。その結果、成人女性たちも「少女の代替物」として評価されるべく、「幼く」(「若く」ではない)装い、振る舞うことを、それができない場合は「弁えて」男性に傅くことを、男性中心社会は期待しているのではないだろうか。

 そういう社会で性売買が行われるとき、男性から求められるのはどんな女性だろうか?昔から、広義の夜職女性たちは、「バカなふり営業」をしているということを話していたし、そうしなければ売れないということは、日本の男性たちを観察していれば、夜職経験がなくとも想像に難くない。一般的に言って、男は自分よりも賢い女が嫌いだからだ。女は、バカで従順で、できればあまり「経験豊か」じゃない方がいいと、たいていの男性は思っている。自分が一方的に品評する側に立つことができて、相手をコントロールすることが可能で、他の男と比較される心配がないと思うからだ。
 ちなみに、男性が「賢い女」だと認めるのは、「俺の要望を察して、言わなくてもやってくれる女」であって、自分よりも知識や教養があって論理的である女性でも、自立して働いて男性と対等に議論しようとする女性でもない。そんな幼稚で自信がなくて卑怯な男たちの性欲だけを、未だに全面的に肯定しているのが、日本の性産業なのだ。

 買春男は「金を払えば性欲処理をさせてもいい」と思っているのだから、倫理観など期待できない。彼らは支払った分の「元を取ろう」と、自分の欲望に忠実に従うであろう女性を選び、自分の希望通りの「サービス」(と多くの場合、それ以上の奉仕)を受ける権利があるとばかりに振る舞う。しかも、その上で「楽して稼げていいね」などと思うのだ。そんな連中だからこそ、「実は未成年のタイ人の子がいるんですよ」と紹介されれば、よろこんで「サービスを受ける」(性的虐待をする)ための金を払う。自分がやっていることが、未成年児童に対する虐待であるという認識もなければ、少女を保護しなければならないという人間らしい義務感も感じない。
 そんな社会で、性奴隷化される少女、性奴隷として売買される少女を救うために、「性売買の非犯罪化」は全く意味がないどころか、「未成年である」ということ以外は問題がない行為であるというお墨付きを与えることになりかねない。

 まだ成長過程にある少女が被害者であったからこそ、世間は動揺したというのは事実だが、さらに踏み込んで、成人女性であれば同じ目に遭っても良いのだろうか?ということも議論されるべきだ。また、今回明らかになったタイ人の被害少女の母親も、報道などから察するに、同じように少女買春の犠牲者である可能性が高く、世代を超えて連鎖する女性の貧困と切り離せない問題として扱う必要がある。
 60人の買春者を処罰すべきだという意見に、私も賛成だが、それに加えて、タイの主流派仏教の女性差別が若い女性に「性売買を選択させて」いる問題なども含めて、世界各地に未だに根強く残る女性差別とそれに基づく女性の貧困・困難という「女性差別」の問題として、国際的に連帯して取り組むことが必要だと考える。

「非犯罪化」とスティグマ

 夏の参議院選は、色々とぐったりすることが多い選挙だったが、自分が票を投じた議員が仕事をしてくれているのを見るのは嬉しいことだな、と思っている。東京選挙区、私は塩村あやかさんに投票した。女性議員はアンチのバッシングも起きやすいし、本来は支持者であるはず人たちから、ある種の「接待」を求められたりもしやすい存在だ。落選期間があれば、その間に政界引退を考えることも、男性以上に多いように思う。だからこそ、塩村さんには国会にいてもらわなければいけないだろうと考えた末の投票だった。
 立憲民主党には、塩村さんのような買春規制を求める議員もいれば、性売買の非犯罪化を求めている議員(や候補)もいるし、買春者だったことが明らかになった議員もいる。だから、立民に法改正をさせるべきではない、立民では不安だ、という声もあることは知っているし、その意見も理解できる部分はある。しかし、政党全体で意見が完全に一致して異論がないというのは、上意下達の民主集中制をとっている共産党かうんと小さな政党以外では無理な話なんだろうと思う。現在、私はどの政党も積極的には支持していないということもあるが、買春処罰に関しては有志議員たちに超党派で話を進めて欲しいと思っている。

 性売買肯定派の掲げる「性売買の非犯罪化」は、買春客も女衒も非犯罪化する。非犯罪化されれば、被買春者女性の「スティグマ」(社会的にマイナスな烙印)が払拭されるかのように言うロビイストたちがいるが、私はそれは非現実的な観測だと思う。今の日本において、買春者は実質的には「非犯罪化」された状態で野放しになっているし、「風俗営業法」という脱法的法律によって女衒も大部分が非犯罪化された状態だと言ってよかろう。「買う側」と「売らせる側」は無傷でいられるのに、なぜ「買われる側」だけが非難されるのか?Sexwork is work派は、それは売春防止法(や買春処罰を求めるフェミニストたち)のせいだと言うが、非犯罪化された国々で「買われる側の女性」が他の職業に就いている女性たちと同様に個人として尊重され、「職場」における安全を保障され、社会的敬意を払って扱われているか、という問題について真正面から答えられる人は少ない。
 性売買を「普通化」しようとする人たちは、「好きで選んで性売買に関わっている」と言う当事者を、都合よく連れてくることはあっても、望まずに(自分で選んだと思い込まされて)性売買に巻き込まれた当事者の声は「当事者の声」として尊重しない。

 私は、仮に「自分で選んだ」という当事者がいたとしても、「選ばされた・騙された・洗脳された当事者」を作り続けなければ維持できない性産業という産業自体に問題があると考えるし、それを無くすためには「買春は暴力」ということを社会常識にしていくことが重要だと考えている。
 「福祉に頼るよりもセックスワークをする方がいい、と言っている当事者がいる」と買春処罰化に反対して述べている人もいたが、「生活保護を受けて暮らすくらいなら、休みなしで365日働く方がいい」と言う人がいたらどう思うだろうか?「自分は好きで売血や臓器売買をするので、放っておいてほしい」という人がいたら、どうするのが正しいだろうか?その「自己決定」は、他の弱い立場の人たちや社会全体への影響を無視してでも尊重されるべきものだろうか?なぜ、「性」が絡んだときだけ、「女性の自己決定」とやらに過剰に肩入れする男性たちが湧き出てくるのだろうか?

 世界各国の(元)当事者の女性たちの経験、そうした人たちを支援しているひとたちの、ほぼ全員が語っているのが、「被買春者になっている女性たちは、子どもの頃に性的虐待を受けていることが多い」ということだ。性被害の経験は、自己の身体への嫌悪や軽視を引き起こさせるということは、専門家たちが指摘しているが、その経験が「性売買しか自活の道がない」と被害者女性に思い込ませてしまうことは少なくないのではないか。

 私自身は当事者ではないため、どこまで踏み込んで発言していいのか、当事者の語りを簒奪せずに、それでもこの社会を少しでもマシにするために、性売買の現場に取り込まれて搾取される女性をなくしていくためにできることがあるのか。この問題に言及する際には、つねに逡巡がある。しかし、だからと言って、被害者である当事者たちにのみ語らせること、当事者だけにさらなる負担を負わせることも、また、暴力的であると思う。
 私のような意見こそが当事者を危険に晒すのだ、と脅してくる性売買肯定派はたくさんいる。しかし、実際に当事者に暴力をふるい、当事者が嫌がる行為さえも強要し、当事者を殺してきたのは、買春者たちだ。それでも、なお、「買う権利」を守る必要があるというなら、その理由をきちんと論理的に説明すべき責任を負っているのは、彼らの方だ。「売る権利」という表現は、買春者たちの存在とその醜い加害欲・支配欲を覆い隠すものでしかない。

 資本主義社会においては、売りたい側の都合で「購買意欲」が作り出される例というのも数多くある。SNSインフルエンサーの流す情報を見て、何かが欲しくなった経験がある人も多いだろう。しかし、どれほど宣伝を流しても、需要が喚起できなければ供給は止まる。売れない商品は淘汰されていく。
 「性売買は最古の職業」と言いたがる(要するに、あるのが当たり前の必要な職業であると言いたがる)人もいるが、それは昔から「買いたい」人間がいたということだ。しかし、現代社会においては、どんなに買いたいと思う人がいても「生きた人間を解体する権利」だとか「猫や犬をなぶり殺しにする権利」だとかを売ることは許されない。そんな極端な例でなくとも、人体や環境に有害であることが判明した薬や農薬なども、その効能自体には需要があっても売ることはできなくなってきた。人間社会が進化するのと同時に、「売っていい」「買っていい」ものの範囲も変わる。労働奴隷売買が禁止されたように、世界は性売買を廃絶していく方向に向かうべきだ。

 日本の性産業はAV産業も含めたら、すでに北欧モデルを採用している国々と比較しても、ものすごく巨大だし、諸外国の反社も関わっているだろうから、フランスや韓国以上に反発も大きく、社会全体の意識を変えるのは大変だろうと思う。それでも、はじめなければ先には進まない。

 これまでにも性売買については何度も書いてきているが、自分の気持ちを整理するためにも、このタイミングでもう一度書いてみた。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 これまでにも書いてきたことの繰り返しも多いですが、やはり知れば知るほど、考えれば考えるほど、性売買を「職業」として認めることには問題しかないという確信が深まるばかりです。

 なお、タイ人少女の事件に怒っていた職場の同僚には、すかさず日本の性産業の悪らつさやAVコンテンツの加害性・暴力性、SNS上での男性たちのクソ発言、さらには買春者の処罰化について高市が言及していることなどを話しました。最初は、「でも、男の性欲自体は仕方ないんじゃない?」と言っていた彼女でしたが、別の女性同僚(たぶん自覚的なフェミニスト)も「それ、絶対嘘ですよ〜」と会話に参加してきて、最終的に「日本の男は終わってるね」で概ね一致しました。

 職場でこういう話をすると、若干(?)引かれることもあると思うのですが、コロナ禍明けあたりから小出しにするようにしていて、とりあえず今のところは人間関係は良好です。一番よく話をする同僚は完全なるノンポリなのですが、そんな彼女が自分の実体験から語る言葉には、「それにはフェミニズムが取り組んでますよ!」なことがちょこちょこあって、「それはフェミニスト界隈では○○と呼んでいる」とか「そういう男には××と切り返しましょう!」とか言うようにしています。私の語り口が多少極端で「毒舌」であることに笑いながらも、彼女が徐々にフェミニストに親和的になっている印象を受けるので、「最初から考えの似た人が集うSNS」ではない場所でもカジュアルに買春者をディスっていくことが大事なのではないかと思います。頑張りたいです!

 ホルガ村カエル通信は、主にフェミニズム周辺の話題を拾ってお届けする個人ニュースレターです。今回のような長文のレターとおすすめの本や映画を紹介する3000字程度のレターを不定期に配信しています。配信後はweb公開しているので、読者にならなくても読めますが、講読登録者には「限定パラグラフ」付きのニュースレターが届きます。

 夏以降は、ギリギリ「月1回は配信する」ペースでやってきて、なんとかこのまま続けていけるようにしたいです!
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 では、また次回の配信でお会いしましょう!

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