「お前は黙れ」と言われ続けても

「声をあげる女性を支持します」みたいな男性から「だが、しかし、お前は黙れ!」と思われるくらいでちょうどいいと思うんだよね。そもそも「黙らなくていい女性」を決める権利なんて男性にはないわけだしさ。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.06.26
誰でも

意識されることのない差別

 同じことを言っていても、発言者が男性だと「なるほど!」「そうですね!」と感心され、女性だと「でも、それは…」「そうは言っても…」と反論される、というのは割とよくあることなのではないかと思う。少なくとも、私は、そういう経験があるし、そういった場面をネット上でも対面コミュニケーションの場でも見聞きしてきた。近年、フェミニズムへの関心の高まりもあり、「わたしは黙らない」「わたしはわきまえない」と宣言する女性たちも増えてきている。それ自体はとても良いことだし、今後もこの傾向が加速することを願っているのだが、それでもまだ「黙らない」「わきまえない」とわざわざ言わなければいけない状況なのだ、という厳しい現実を忘れてはいけないだろう。

 最初の話に戻るが、「発言者が男性だと話を聞いてもらえる問題」の厄介なところは、一番の問題は「女性の話を聞こうとしない側」にあるにもかかわらず、「あなたの言い方が悪かったのでは?」「あなたが感情的だった(論理的でなかった)からでは?」と女性発言者の方に問題があったことにされてしまいがちなことである。
 ほんの数分前に女性が提案したときには、なんだかんだと屁理屈をこねて却下したのと同じことを男性が再度提案した途端に「たしかに、それは一理ある」と言い出す男性は、自分が「女の意見だから」という理由で、これといった根拠もなく否定的に判断してしまっているということに無自覚なので、男性が提案すれば素直に内容だけで判断することができるのだ。しかし、当人は「客観的に」「論理的に」「冷静に」判断しているつもりになっているので、女性から「さっき私が提案したのと同じでは?なぜ、私が提案したときには却下したのか?」と問われても、女性の説明不足・言葉足らずのせいである等と言い張るだけで(本人の主観的にはそれが事実なので)自分の偏見と向き合うことはない。それどころか、異議を申し立てる女性のことを「自分の説明不足を棚に上げて怒る感情的な女だなぁ」などと思ったりするのだ。
 一度、偏見で懲り固まってしまうと、なかなかそれをほどくのは難しい。こういう男性(社会)相手に女性にできることは残念ながらとても少ない。彼らは、偏見を強化するように現実を解釈してしまうので、女性に自分(たち)の偏見を指摘されても、むしろそんな女性のことを「感情的」だと感じるし、そんな「感情的になっているヒステリー女」に理不尽に責められている自分を犠牲者だとさえ思うこともある。しかし、だからといって「私も同じ提案をしましたよ」と言わなければ、「(女性は役に立たない提案しか出来ないのだから)やっぱり男性の方が優秀なんだ」という偏見を優しくアシストしてしまうように思う。要するに、何か言っても言わなくても、どっちにしても「女の話は聞く価値がない」と思っている男性の思い込みは強化される仕組みなわけだ。オーマイガー…(ジョセフ・ジョースター風に)

「私は黙らない」

 左翼やリベラルを自認する男性たちは、そうは言っても「女性の声を聞きますよ」「女性の意見も大事ですよ」というポーズはとりたがる。そして、困ったことに彼らは自分たちでは本気で「女性の意見を(謙虚に)聞いている」と思っているのだ。だからこそ、2018年の4月に新宿駅前で「わたしは黙らない0428」という街宣が行われたとき、賛同して参加する男性も多かった。女性たちが企画して街宣を行い、そこに賛同する男性も多く参加するということ、それ自体は喜ばしいことだ。「うるさいフェミがなんか言ってる」と馬鹿にしたり、「女性差別の問題ね、頑張ってね!応援してるからね!」と他人事として処理してしまうのではなく、街宣に参加して、場合によっては自分にとっても耳の痛い話を聞き、自省しようという意識がある男性が存在するということなのだから。
 この街宣の中心となったのは、2015年前後の市民運動で大きな役割を果たしていたグループの女性メンバーやそういったグループに賛同して活動をしていた女性たちだ。そのため、左翼・リベラルの市民運動内の女性差別や運動内外から女性メンバーに向けられる女性蔑視も大きなテーマの1つだった。女性たちが自分たちの経験から自分たちの言葉で語る、女性差別への怒りや悔しさには素直に共感するし、「黙らない」と高らかに宣言する姿は理不尽な思いをしながらも声をあげられないままできた多くの女性たちを励ますものだったと言える(なお、この街宣に関しては、こちらの記事が丁寧で参考になると思うので、是非読んでもらいたい)。

 2011年の東日本大震災以降、SNS経由で始まった市民運動は数多くあり、そういったものは基本的にはクラウド型で、特になんらかの組織に属していなくともTwitterなどで情報を得て参加することができるものだが、継続的に運動に参加していれば顔見知りもできるし、そのうちSNSでも相互フォローになり、親しく交流するひとも出てくる。そうなると、デモや集会の後に呑みに行ったりする機会もあり、徐々にグループ化するのも自然なことだ。私も、時にはそうしたグループに混ぜてもらい、超絶人見知りなので苦労しつつも、志を同じくする人たちと繋がっていく心強さも感じていた。しかし、結果から言うと、なまじ中途半端に知り合いになっていたことで、SNS上での意見の相違が、私が路上での活動に参加するのを難しくしてしまうこととなった。
 その街宣の2年以上前、2015年の12月、私は「おっぱい募金」というイベントを批判したことで、左翼・リベラルの男性たち(およびリベラルフェミニスト女性たち)から、既に「性嫌悪フェミ」認定され、女性の性的自己決定権を尊重できないセックスワーカー差別者であるとレッテルを貼られていたのである。
 とは言っても、「性嫌悪フェミ」であっても、脱原発運動をする分にはあまり影響は大きくなかった。当時は今ほどフェミニズムが流行っていなかったこともあり、フェミニズム関連の話題にはノータッチという運動参加者もいたからだ。また、2015年末当時、脱原発運動はすでにやや下火になっており、一番の盛り上がりを見せていた頃にはデモや官邸前抗議に積極的に関わっていたひとの中には、別のイシューの方により深くコミットし始めたことで、原発問題からは少し遠ざかっているひとも多かったので、2017年に諸事情あって団体を抜けるまでそちらには問題なく参加することが可能だった。
 しかし、フェミニズム関連の活動となると話は別だ。著名なフェミニストの多くが「セックスポジティブこそが正しい」というスタンスになっている昨今の日本社会において、私のような「性嫌悪フェミ」にはネット上以外には場所がない。上記の街宣においても、「セックスワークはお仕事です」というコール&レスポンスも行われたとのことで、「おっぱい募金」を批判するような「性嫌悪フェミ」は、むしろ批判を向けられる側だったのだ。

おっぱい募金騒動

 HIV予防啓発のための募金を1000円以上するとAV女優の胸を触らせてもらえるという「おっぱい募金」。女優さんたちは「喜んで参加しています」と言っているようだし、HIV予防という大事な活動に関わることを誇りに思っているといった発信もあったと思う。募金参加者には、強く揉んだりしないよう注意がされており、女優さんたちも交替で対応しているということだった。それを「性搾取の被害者」扱いするのは差別であり、女性の性的自己決定権の否定であり、家父長制的な性規範に縛られたものの考え方らしい。
 しかし、私がおかしいと思うのは、まず、1000円以上の募金で胸が触れるというシステムそのものである。募金であるのなら、そこに見返りを用意するのはおかしいのではないか?と。1000円以上の募金というなら1万円募金してもいいはずなのだが、主催者発表による参加人数と募金総額を見るとなんなら1000円すら払ってないひとがいる?という金額になっているので、実質的には1000円(というはした金)でAV女優の胸を触れる超お得な性サービスになっているように見えた。しかし、「おっぱい募金」は、あくまでチャリティイベントであり、風俗営業ではないので、サービスとしての価格を設定することはできない。そのため、客は「募金」したつもりでよい気分になりつつ、破格の性サービスを受けられるが、女優は(イベントへの参加に給料が発生していることを願うが…)本来であれば受取れる対価(そもそもひとりにつき1000円は対価として安すぎるという問題は一度棚上げする)を募金という形でかすめ取られて身体を景品として提供しているという状態になっている。ここには、「女性の身体の景品化」という問題と「やりがい搾取」という問題があると私は今も思っている。
 こうした意見に対しては、「彼女たちは誇りをもってやっているんだ」「性の自己決定権を侵害するな」という批判が湧いてくるのだが、「搾取の構造があること」と「本人がその仕事を自主的に選んでやっていること」は両立するという当たり前のことを指摘させないでもらいたい。私自身、バイトも含め様々な仕事をしてきたが、多くの場合、そこには「やりがい搾取」の構造があったし、働くひとの善意や「社会の役に立ちたい」という欲求(場合によっては個人的な能力やコネ)を利用した時給外の労務や給与以上の貢献によって職場の評価が支えられている場面も多く見てきた。こうした職場の「搾取」を批判しているからと言って、私が自分でその仕事を選んでないわけではなかった。他の仕事と比べて時給が良かったり、自分のスキルをそれなりに活かせたり、興味のあることに関われたり…。でも、自分で選んだ仕事だからと言って、搾取されていいという理由にはならないという話をしているだけだ。
 特に、当時の私は「性サービスの売買そのものは否定しない」というスタンスだったので、「AV女優として働く権利」を侵害しているかのような批判をされるのは意味がわからなかった。人気商売でもあるわけだから、ユーザーと直に触れ合うイベントは女優さんにとってはチャンスにもなるだろうし、そうであるならば、身体を触らせるのではなく、ストリップショーなどの「主体的性表現」の提供といった方法もあったのではないか?ということも主張していたのだが、おっぱいを触らせることを否定するのは「性嫌悪」で「ワーカー差別」だということらしかった。
 「おっぱい募金」では、女優さんたちはアイドルの握手会のように数名で横並びになって胸を露出させており、参加者が順番に触っていくような流れであることが写真などから窺い知れた。アルコール消毒のせいで乳首が痛くなりながらも頑張った、という女優さんの「献身」エピソードも流れてきていたので、労働環境としてやはり問題なのではないか?という批判も出ていた。しかし、あくまでチャリティイベントということで、これも「労働環境」の問題として取り上げられないのかもしれない。そうであるなら、実に巧妙な搾取だなぁと思う。

「自己決定」という罠

  いずれにしても、「おっぱい募金」騒動を経て、新しい市民運動界隈(の特に男性の間)で「女性の性をタブー視してはいけない」「女性の性の自己決定権を尊重しよう」という言説が急速に広まった。おそらく、彼らはそれまで人生で一度もこの問題を考える必要がなかったし、どちらかと言えば女性に対して古い感覚を無自覚に継承していたのではないかと思われる。だからこそ、「自ら進んで選んで性産業(AV含む)に従事している女性がいるんだ」という言葉に刮目させられ、過去の自分の認識を改めなければと考えたのだろう。騒動の初期には「おっぱい募金」に否定的な意見を述べていた男性たちの多くが、騒動を経て「軽率におっぱい募金に反対した自分は間違っていた」と表明し、その後は「Sexwork is work」と唱えるようになっていったし、国際人権NGOアムネスティによる「セックスワークの非犯罪化」を求める提言をシェアし、性産業を批判するひとは「無知で古くさい考え方をしている人間」であると決めつけてかかるようになったのだ。「性嫌悪」を批判することこそが先進的で正しく、女性のためでもある、と彼らは信じているのだ。(性嫌悪批判についてはこちらの過去記事もよろしければどうぞ。)

 しかし、今はもう2022年6月末である。2015年末から6年半も経っている。その間に日本ではAV強要問題が報じられ、ハリウッドで#MeTooが広がった。女性にだけ社会的に強制される「装飾」を拒否する「脱コルセット」という運動が韓国から伝えられ、日本では石川優美さんの#KuTooもあった。今年に入ってからは、日本の映画界や演劇界における性暴力の告発も続いている。
 女性が自らの意思で選んでやっているように見えても、当人もそのつもりでいたとしても、権力勾配によって強制されていること、立場上断れないこと、経済的な理由でより大きなリスクをとらざるを得ない状況があることは、こうした女性(の身体)を巡る議論の中で明らかになっている。それでも、なお、「性の自己決定権」という名の「セックスワークをする権利」「セックスに積極的になる権利」にばかりプライオリティを置くことの意味について、今の日本社会できちんと議論がされているだろうか?私にはそうは思えないのだ。

 AV強要の告発の中には、「AV女優になったのは自分の意思だが、スケジュールになかった本番行為をさせられた」といったものもあった。「セックスワークは立派な仕事」「女性たちは自ら選んで従事している」という言葉が、彼女の被害を救済する盾に成り得るだろうか?「セックスワークする権利」ばかりを叫ぶことは、「自分で選んだ仕事だろ?被害者ヅラするな」と言う意見をアシストしてしまわないだろうか?
 一方で、元AV女優の峰なゆかさんの漫画『AV女優ちゃん』で描かれる強要問題関連のエピソードにあるように「かわいそうな被害者」として扱われることが告発を難しくしたり、告発者への支持を躊躇させる原因にもなることはわかる。「性嫌悪」批判をする人たちは、私のしているような「女衒批判」を「自らの意思で働く女性を、悪い人間に騙される弱い被害者扱いするものである」と解釈し、場合によっては「被害者扱い」によって当事者の告発を妨げていると考えているのだろう。しかし、ここに巧妙な罠があるように思えて仕方がない。本来、「被害者である」ことはなんら恥じることではないし、恥じるべきは加害者(搾取する)側なのだ。そのことを棚に上げて、被害を被害と認められないままにしてしまうことは、次の被害への道を舗装していくことになりはしないだろうか?「かわいそうな人」だと思われたくない、という気持ちは、AV強要被害者に限らず、多くのひとが多少は抱えているものだろう。その気持ちを最大限尊重しながら、それでも被害者を救済するために必要なことは何か、ということを考えていくべきではないのか。

 また、『AV女優ちゃん』では、AV業界において、女性が様々な理由から「自らリスクの高い行為を選ぶ構造」があるということも描かれている。現在(2022年6月25日)、この漫画の一部がオンラインで無料公開されているのだが、91話では、NG項目をすべてなくすという決断をした女優さんが、ことあるごとに「自分で選んだ道ナリ」と自分に言い聞かせている様子が描かれている。この漫画は「半自伝的フィクション」であり、ここで描かれていることがそのまま現実に起きているという証拠はない。しかし、それでも、業界にいた人が描くひとつひとつのエピソードはリアルだし、日本社会における女性の扱いを思えば、「ああ、こういうことは実際に起っているのだな」と容易に想像がつくというものである。その構造を無視して、「自分で選べる」「自分でNGを設定できる」というのは、欺瞞でしかない。実際には数ある選択肢の中から選ぶものではなく、たった1つの「選ぶしかない道」である可能性を想定できないのだろうか?
 もちろん「数ある選択肢の中から選んでいる」ひともいるのだろう。しかし、その「セックスワークする権利」というのは、他に選択肢が与えられていない人の犠牲を無視してまで、保証しなければいけない権利なのだろうか?巨大な性産業の存在こそが、女性たちから教育を受ける機会を奪い、女性たちを貧困に追い込み、女性たちをモノ化する社会構造と共犯関係を結んでいるのではないか?

 「性産業の規制は、性産業の地下化を招く」「規制するとかえって女性が危険な目に遭うぞ」と脅す声がある。しかし、ここで真っ先に非難されるべきなのは、誰か?ワーカーの安全のための規制を守る風俗を選ぶ、適正AVのみを選ぶということをせず、自分たちのニーズに応えてくれるのであれば地下化した風俗、裏で流通するAVに金を落とす方を選ぶ男たちではないのか?女性の犠牲の上に成り立っている産業を肯定し、そこに金を落とし続ける客がいるからこそ、地下化してでも客の求める「サービス」が提供され続けるのだから。そこにあるのは「女性の性的自己決定権」などではなく、女性の身体的・精神的な負担や危険を無視した「男性の性欲の全面的肯定」である。女性の救済を訴え性産業の構造批判をする女性たちを悪魔化することで擁護されるのは、ワーカー女性の人権ではなく、買春男たちの身勝手な性欲ではないのか。「非犯罪化」の提言は、いま現在、ワーカーの人権が充分に守られていないことを逆に明らかにしている。しかし、客側が「ワーカーの人権が守られる状態になるまで風俗を利用すべきではない」と批判されることはない。この社会では、男の性欲は無罪だからだ。
 今すぐ産業そのものを消し去ることができない以上、現在働いているひとの安全の保証や労働環境の改善を訴えることは重要だ。しかし、「性嫌悪フェミ」を批判することに躍起になっている人たちも、性産業の存在が女性の性だけでなく、男性の性のあり方にも少なからず影響を与え、日本社会の女性差別を下支えしている可能性についてももう少し冷静に考えてみるべきではないか、と私は思っている。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 フェミニズムやジェンダー論に触れ始めると、誰もが一度くらいは「セックスワークの非犯罪化」というのが正しいことだと思うフェーズがあると思います。私自身もそうでした。しかし、「性の自己決定権」といいながら、「女性が男性の射精を促す行為をする権利」の話ばかりになっていることやそもそも現時点では売春行為は禁止されているはずなのに脱法的なシステムでそれが堂々と行われていること、それに加え、日本社会においては女性が自分の身体に対する決定権を奪われている(低用量ピル、緊急避妊薬、人工妊娠中絶などの問題を見れば明らか)事実などについて考えれば考えるほど、「セックスワークする権利」にばかり前のめりな男性たちに疑問を抱かざるを得なくなったわけです。

 また、アムネスティは、セックスワークの非犯罪化を巡るQ&Aの中で「アムネスティは、性産業を支持しているわけでも非難しているわけでもない」とし、「非犯罪化とは相容れない意見」を持つ人たちとも、ワーカーの人権を擁護するために「互いを尊重しながら開かれた議論をしていきたい」と述べています。性嫌悪批判をする左翼・リベラル―ついでにアンチフェミもーは、アムネスティの提言を自分たちに都合よく切り貼りして引用するばかりで、相容れない意見は「差別」と糾弾し、それが当事者の意見であっても全く尊重しないのが問題ではないでしょうか。

 (元)当事者の間にも、非犯罪化を望む声もあれば、懸念を表明する声もあるように思いますが、非犯罪化を推進したい人たちが「懸念を表明する当事者(元当事者)の意見」を「当事者の声」と認めないのが不誠実だなと思っています。誰か一人の経験が全てではないのはもちろんですが、相手の主張を曲解して、無知で差別的な考え方をしていることに仕立て上げることでしか自分たちの主張の正しさを訴えられないのであれば、その主張の方に問題があることに実は自覚的なのではないのか?とさえ感じます。最後に、元当事者の方でまとまった文章を連載している爪半月さんのコラムのトップページへのリンクを貼っておきます。

 では、また次回配信でお会いしましょう〜。ちょっと仕事が立て込んでいるので、次は少し時間を開けるかもしれませんが、できる限り隔週金曜日配信のペースを保てるように頑張ります💪

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