国際女性デーの憂鬱

ここ数年、国際女性デーが近づくと多くのメディアで特集が組まれていますが、そこでは女性差別についてというよりも「女性に限らずすべてのひとが生きやすい社会」「女性も男性も生きやすい社会」について言及されることがとても多いです。その理由を考えてみました。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.03.11
誰でも

国際女性デーは「みんなのもの」?

 1年365日のたった一日だけ「国際女性デー」という日がある。3月8日がそれに当たる。近年、日本のメディアでもジェンダー問題が取り上げられる機会が増え、以前よりもこの国際女性デーへの注目度も高くなってきた印象がある。大手メディアでも「国際女性デー特集」として、連載記事が配信されることも恒例化しつつある。しかし、ジェンダーギャップ指数120位の、まだまだ男女平等にほど遠いこの国において、女性差別の問題に的を絞って発信できることは山ほどあるはずなのに、かなりの頻度で「女性も男性も自分らしく生きられる社会について考えましょう」というスタンスの発信が行われているし、過去には、フェミニストを「なりたくなかったアレ」呼ばわりまでする記事もあった。
 プライド月間に「今月はプライド月間です!セクシュアルマイノリティもそうでない人も誰もが自分らしく生きられるようにみんなで考えましょう!」という発信がなされたら、「なんか変なの」と思わないだろうか?セクシュアルマイノリティへの差別を無くそうという話をする際に「差別をしない方が社会にとってもプラスになる」という話が出てきたら、おかしいと思わないだろうか?
 なぜ、女性差別の話になると、突然、「女性だけでなく」「誰もが」という話になったり、「男性にもメリットがあります」と女性差別に反対することにエクスキューズが必要であるかのような物言いになってしまったりするのだろうか。

 まず大前提として、「女性に限らず誰もが自分らしく生きられる」というのは目指すべきことである。そして、男性にも「男らしさの強要」という社会的圧力があることも事実だと思う。しかし、1年にたった1日しかない国際女性デーにわざわざその話をする必要があるとは思えない。特に近年、男性学関連の書籍も増え、男性の生きづらさについて取り上げられることも日常的になりつつある。男らしさやマチズモからどう脱却すればいいのか、脱却した先にどんな人生があるのか、ということについて、まだまだロールモデルが少ないとは言え、平易な言葉で書かれた本や記事も少なくない(その一方で、むしろ「男らしさ」「女らしさ」を強化するような言説も大量にばらまかれているのだが…)。国際女性デー以外の機会、たとえば11月19日の国際男性デーにこうした問題についての特集を組むことには大賛成である。
 セクシュアルマイノリティについても、日常的に関連する記事を目にする機会は10年前とでは比べ物にならないくらいに増えているし、ドラマや映画などに登場する際の扱われ方も大きく変わってきている。こうした変化は歓迎すべきものだし、特にプライド月間などに普段以上に丁寧な取材を行なった記事や番組が出てくることも、社会をよりよくするために大事なことだと考えている。
 繰り返しになるが、しかし、国際女性デーには、「女性」のことをもっと中心に扱ってくれてもよくないか?と思うわけである。

女性はマイノリティだと思われていない

 マイノリティとマジョリティの関係というのは、その訳語に「多数派」「少数派」が当てられることもあることからもわかるように、多くの場合、人数にも大きな差がある。障害者と健常者であったり、同性愛者と異性愛者であったり。社会が人数の多いマジョリティに最適化されていることで少数のマイノリティが生活上の不便を強いられたり、「異端者」として排除したり、存在しないものとして扱われるパターンだ。しかし、逆に、圧倒的多数のマイノリティを少数のマジョリティが迫害する例というもある。南アフリカのアパルトヘイトや王族や貴族を頂点とする身分制度のように。
 女性差別の厄介なところは、こうした他の例と比べて、男女の人数が拮抗していることと男女の身体差があることで、権力関係が時に見えにくくなってしまうところにあるのではないかと思う。

 まず、男女の人数については、私が言うまでもなく、ざっくりと人類の約半分が女性である。実際には歴史的経緯による不均衡や地域差などもあるだろうが、基本的にはだいたい拮抗している。そのため、個々人の経験に焦点を当ててみれば、「女性が圧倒的に多い職場や家庭で男性の方が遠慮していた」という例も出てきたりする(もちろん、この「遠慮していた」というのが、男性側のある種の被害妄想的なものである可能性も否めないし、よく出てくる「男を手のひらで転がす強い女」という話も内実は「男をたててあげる内助の功」という立派な男社会支援の話でしかなかったりするのだが、それはまた別の話)。
 そして、男女の身体差ゆえに、必然的に「女性にしか出来ないこと」が存在するため、それが「女の特権」だと捉えられ、その特権を持つ女性こそが強者であると判断される場面があるのではないだろうか。
 以前、ある男性哲学者が「女は妊娠出産が出来るから生物学的に男よりも価値がある、だからこそ、女は男性間で交換された」といったことを書いていた。彼は「だから、女性が商品として扱われるのは、差別された結果ではなく、価値があると判断されたからなのだ」という文脈でそう書いていた。「(男性にとって)価値のある商品」として扱うこと、それがすでに「人間を人間として扱わない差別」なのだが、彼はおそらく本当に何の悪気もなく、「価値がある」ことを良きことと捉えているのだろうと思えた。そして、この発言をみて、おそらく多くの悪意のない男性たちは「確かにそうだよなー」「やっぱ女は強い」とうっすら思ってしまうのではないか、と思う(勘違いであってほしいが…)。
 もう数年前な気がするが、「女が生意気に権利ばかり主張するようになったから、男性は精子を出ししぶるべき!」みたいなトンデモ発言をしている男性がいたのだが、これは「妊娠出産できるという最強カードを持っている女」こそが男を迫害しているのだという被害妄想の裏返しなんではないかという気がしてくる。
 妊娠出産という機能だけでなく、「男性を誘惑する身体」としても女性は「強者」扱いされることがある。西洋美術において19世紀末に多く描かれたファム・ファタルのイメージなどにも現れているが、女性の身体は男性にとっては「性的物体」であるはずなのに、その物体に男性の方が翻弄されて逆に吸い尽くされて呑み込まれてしまうような描かれ方がある。同じように性的に相手を耽溺させる存在であってもカサノヴァは恐怖の対象としては立ち現れないのに対し、ファム・ファタルが恐怖の対象となり得るのは、女性が「本来は物体であるべき」だからなのではないか、と思う。
 「弱者男性」自認界隈でも、「女は膣があるだけでモテる」から強者であると認識していそうな発言は頻繁に出てくるが、実際のところ「膣があるからモテる」のが当の女性にとってどんなものなのかについては彼らは考えない。とにかく性的に欲望されるのだから強者だと信じている。「膣があるから」という理由で女(の身体)を欲望してしまう自分自身とは向き合わず、「欲望される女」を恨む。彼らにとって、女性がマイノリティだなどというのは単なる妄言であり、わがままであり、許されざる欺瞞なのであろう。

「女性」とは何者なのか

 この社会の考える「女性」とは「男性ではないもの」である。男性を「人間」のひな形と考えたとき、それに当てはまらないものが女性なのである。身体的には、ペニスがない者・妊娠出産できる者がそれに当たるわけだが、実はそこには「規範的な男性」以外の存在がすべて組み込まれている。規範的な男性とは、「成人した健常者の異性愛者の男性」である。だからこそ、「おんな子ども」と女性と子どもをまとめる言い方が存在するし、ゲイ男性を演じた役者が「(役が終わって)男に戻った」などと発言してしまったりする。そして、「女性」のワクの中に、様々な属性が混在している場合、その中で人数が少ない存在の方が「よりマイノリティ性が高い」と判断されることになる。
 国際女性デーに際して、「女性に限らず誰もが」と言い出してしまう原因のひとつはここにもあるだろうと私は思っている。読者男性から文句が出ないように、なんなら男性の編集者などメディア内部の男性たちに忖度して、「誰もが」と書いてしまう場合もあろうが、「女性」というのが「規範的な男性」ではないすべてのひとを包括する単語のようになってしまっているからこそ、なんの違和感もなく、「国際女性デーだからこそ」セクシュアルマイノリティや「規範的でない男性」の話を積極的にするべきだと思って記事を書いているのではないだろうか。

 ここ数年、毎年のように同じようなことが起こり、その都度、それなりに批判もあり、時にはそれを振り返るような記事まで出ているにもかかわらず、今年も繰り返されているのは、それがミスではなくて、積極的な使命感によるものだからなのではないか、と思えてくる。「多様な女性」の中でも、特にマイノリティ性が高い属性のひとの存在や別のマイノリティ性を持つひとの存在についても、私たちは意識する必要があるし、そのこと自体は間違っているとは思わないが、しかし、人類の半分を占めているにもかかわらず、いまだに差別され続けている「普通の」(これは「異常」の対義語であるnormalという意味ではなく、ordinaryという意味での「普通の・平凡な」だと読んで欲しい)女性について語る言葉がまだあまりにも少ないことにも、メディアの人間は意識的であるべきだろう。

 「平凡な女性」たちの受ける「平凡な差別」が、どれほど女性たちの生活を困難にしているか。しかも、「平凡な女性」と見なされた女性たちは、実際にはセクシュアルマイノリティであろうと「平凡な差別」を受けることに変わりない。その女性が「平凡な」人生を歩んでいようが、奇抜な人生を歩んでいようが、それがわからない場面で、女性は女性と見なされただけで、「いつか結婚出産で辞めるかも」と入試で差別され、就職で差別され、賃金で差別されて生きている。しかも、妊娠出産を実際にするかどうか、あるいは可能かどうかにかかわらず、女性の身体を持っていると見なされた時点で「そういうもの」として扱われるのだ。それが「仕事に穴をあける使えない存在」扱いであろうと、「男にとって価値のある存在」扱いであろうと、本人の意志や希望、性的指向などもお構いなしに勝手に社会から「そういうもの」認定されてしまう。そして、家事や育児や「女性ならではの細やかさ」を必要とされるケア労働を押し付けられる。
 人口の約半分を占める女性という属性がこうした差別を受け続けていること、裏返せば、人口の半分を占める男性という属性がこうした差別を是正しようとしないことに向き合う記事は、他のマイノリティに関する記事よりも価値がないと見なされているのであれば、それこそが女性差別の結果ではないだろうか?

 私は「女性差別の解消こそが第一で他の差別は後回しで良い」と言っているわけではない。現状、「女性差別は後回しでいいよね」となっていることに意義を申し立てている。もちろん、すべての差別にまったく同じだけ言及するというのは不可能だ。人間は万能ではないし、個人の時間は有限だ。地球の裏側で起きている差別についてより、今目の前で起きている差別について多く言及されるのは仕方のないことだ。しかし、何人もの優秀なライターを持つメディアで、「国際女性デー」という日に、「平凡と見なされる女性たちが日常的に受ける平凡な差別」が省みられないのであるなら、そこにはどんな構造的な差別が存在しているのか、自己点検をしてみた方がよいのではないだろうか。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 映画やドラマなどで女性差別と果敢に闘う女性が主人公になる場合、善意の人々はみんな彼女(たち)を応援し、彼女(たち)が「普通の女性」と異なる主張・出で立ちをすることで受ける差別に怒りを覚えると思います。しかし、その一方で、「平凡な女性」と見なされる女性は、「女らしさ」を押し付けられることにも第二次性徴にも違和感を覚えずに生きていると見なされているような気がするのですが、実際には、それを表明する機会がなかったりうまく言語化できないままでいるだけで、それなりに違和感を覚えて、それぞれになんとか折り合いをつけて生きているのではないでしょうか。そして、仮に違和感を覚えていなかったとしても「だから差別されてても別にいい」わけではないということも繰り返し言っておきたいです。
 イギリスの女性参政権運動の興隆を描いた映画『未来を花束にして』の主人公モードは「平凡な」兼業主婦から運動の闘士になっていくのですが、「平凡」だった頃の彼女も違和感を覚えていなかったわけではないことは映画を見ればわかると思います。「女はこうあるべき」という抑圧が強い社会では、直感的に「おかしい」と気付いてもそれを表明する場も言葉もなかなか見つけられないものだからだと思います。

 昨今、女性たちの間で「女性間の差異」がとても意識されるようになっていると思います。というよりも、SNSで差異に言及するひとが増えてきたと言った方が正確かもしれません。それぞれの経験は誰にも代弁できない固有の経験であり、それぞれの属性に特有の生きづらさがあることがよくわかります。そして、社会がひとまとめに「平凡な女性」とみなす女性たちの中に、多種多様な女性たちがいて、それぞれに声をあげているのに、国際女性デーという機会にさえ、その声は聞かれない。そんなことが数年続いているので、もう国際女性デーが近づいてもあまりワクワクもしません。2017年のWomen's Marchから5年しか経っていないのに。

 そんな中で、私の書くものにどのくらいの意味があるのか、最近は無力感ばかりが大きくなってしまいますが、それでも自分にできることが他に思いつかないので、細々と続けていきたいと思います。

 では、また次回の配信でお会いしましょう〜。

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