私の「わたしの若草物語」

40代から読み始める少女小説も悪くないね。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2021.09.24
誰でも

「女の子向け」を自分のものと思えなかった

「少女小説」というジャンルをあまり読まずに大人になってしまった。

 私は椎名誠の『哀愁の町に霧が降るのだ』を読んで、男に生まれてこんな風に生きてみたかったなぁと思ったり、妹尾河童の『河童が覗いたインド』を読んで「インド行ってみたい!」とか思っている中学生だったので、『赤毛のアン』は家にあったし(姉の本だった)、1985年の劇場版も映画館に観に行ってるのだが、原作は読まないまま大人になってしまった。そもそも「男の子みたい」な自分に「少女小説」なんて女の子の読み物は面白くないのではないか、と無意識のうちに思っていた気がする。正直に言えば、もう四半世紀前のことなんで、当時の自分の考えははっきりとは思いだせないのだが、とにかく「少女漫画」も「少女小説」も読まずに、『刑事コロンボ』のノベライズ版を古本屋でせっせと買い集めて読んでみたり、シャーロック・ホームズを繰り返し読んだりしていたので、周囲がどんな本を読んでいたのかさえよく知らない(私が子どもの頃の少女漫画でみんなが読んでいたのは『ときめきトゥナイト』とか…だと思う…)。

 そんな私が最近『若草物語』と『続・若草物語』(ルイザ・メイ・オルコット著、一冊目の初版は1868年。私が読んだものは掛川恭子訳の講談社文庫・1995年版)を数日で一気読みしてしまった。さらに、ちょうどよいタイミングで斎藤美奈子が『挑発する少女小説』という本を出しているではないか!ということで、これから少し個人的少女小説ブームになりそうな気がしている。

オルコットの『若草物語』と映画の「若草物語」

 私が『若草物語』を突然読んでみる気になったのは、『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』という2020年日本公開の映画を観たからである。とてもよくできている映画で配役も素晴らしかったのと、ラストの場面が原作ではどうなっているのかが知りたかったという理由だ。それに加えて、もともと原作が好きだというひとが「何度も映画化されているが今回が一番いい」と言っているらしいという話も聞いたので、さっそくポチっと電子書籍を購入して、ちらっと読み始めたら最後…ものすごい勢いで読み進めて読了してしまった。

 私の子ども時代を思い出すと、自分は女の子らしい女の子じゃないから「女の子向け」のものは自分のためじゃないと思っていたくらいなので、ジョーにもっと共感できても良さそうなものなのだが、映画を見ているときも小説を読んだときも、私はジョーにはあまり感情移入できなかった。
 誤解されたくないのだが、感情移入できないことも含めて、それでもジョーは魅力的なキャラクターだと思っている。日本社会では映画でも小説でも「共感できる」「泣ける」が評価基準になってしまいがちだが、共感できるかどうかと作品が素晴らしいかどうかは別の話だし、まったく共感できなくても魅力的なキャラクターはたくさんいる。

 また、原作小説はキリスト教的な価値観に根ざした良妻賢母であることを勧めるというのが根底にはあるので、違和感を覚える点もないわけではなかったけれど、ジョーのような「結婚せずに作家として自分で稼いで家族を支えたい」という女性がメインのキャラクターとして登場し、彼女と生涯の親友となるローリーは「男らしさに馴染めない」キャラクターであるというところは19世紀半ば過ぎの当時においては画期的だったのではないか、と思う(ジョーという愛称も、女性の愛称として登場したのは最初なのでは?)。
 原作には、女性には母性本能があって、女性の人生のハイライトは子を産むこと…といった記述もあるが、映画版ではこうした部分はうまく背景にやってしまって、ジョーの成長と自立が描かれる。時系列にそって進む原作と異なり、映画は回想シーンを挟む形になっており、その処理の仕方も無駄がなくてよかった。

 映画版でジョー(シアーシャ・ローナン)を食う勢いで印象に残るのはエイミー(フローレンス・ピュー)である。あの映画を見てエイミーを好きにならないひとがいるだろうか?背伸びをして澄ました顔を作る末っ子。ジョーの視点からは「ワガママを言ってもなんだかんだで許されて最終的にちゃっかりいいとこ取り」しているようにも見えるエイミーだが、エイミーからすれば「自分の頑張りはイマイチ認められず、ジョーばかりが認められて褒められている」感じになる…あの姉妹の関係はかなりリアルで少し心がひりひりしてしまう。そのせいで、観てすぐには「良い映画だったけどなんかツラい」と思ってしまった。色々感想を話したりしているうちに「ああ、あの場面もよくできていたな」とじわじわ気に入っていった。
 そして、おそらくあの映画を観たひとはみんなティモシー・シャラメのローリーのローリーっぷりに文句なしだと思う。個人的には特に思い入れのない役者なのだが、これまでにいくつか観た彼の演じた役の中で一番良かったと思う。逆に、これまで誰がローリーやってたの?という感じに、シャラメ以外いない気がする。いたずら好きで少しばかり怠惰でもあって、でも有害な男性性は持ち合わせていないので、男の子のグループとはいまひとつ馴染めない…とローリーのキャラクターとティモシー・シャラメのルックスはぴったりだ。
 ところで、ジョーにフラれたローリーが最終的にエイミーと結婚するというのは、世間一般的にはどう思われているのだろうか?原作でも映画でも、私にはとても自然なことに思えたし、ローリーは確かにジョーを愛しているけれど、エイミーに対する愛情も確かに深いことに嘘はない。突然マーベル映画の話を持ち出すと、ホークアイ(クリント・バートン)がブラック・ウィドウ(ナターシャ・ロマノフ)を最愛の友人として大切に思うのと同時に妻や子どものことを愛しているのと同じというか…(男性の評論家がホークアイとブラックウィドウの関係を「性愛」としてしか理解できていないかのようなことを言っていて吃驚したのを思い出すが)。

「感情的」であるからこそ描ける物語

 女性作家の書く物語、それも少女向けの物語となると、類型的ではない様々な女性が出てくるのは当然だが、それに加えて男性のキャラクターも多様な気がする。「女は感情的」と言われるが、感情の描写を丁寧にすることによってキャラクターには深みが増すし、現実の日常生活において相手の感情の機微に敏感になっているからこそ描ける「リアルな人物像」というのがあると思う。逆に、男性は物語のダイナミズムに比重を置き過ぎて感情描写を蔑ろにしているところがあるのではないだろうか?感情描写など「女子どもが読むもの」という意識があるというべきか。そんな男性たちは少女小説や女性向け小説(およびその映画化)を退屈に感じてしまうのかもしれない。感情が物語にダイナミズムを与えている部分も大いにあるのに。もったいない…。男はもっと「感情的」であることに積極的になるべきだと思う。まぁ、実際のところは…男って弱者に対して怒りや不満をぶつける場面では恐ろしく感情的なので、感情と向き合うことをサボり過ぎと言った方がよいと思うが。

 男性はもっと女性作家の作品を読んだらいいのではないか?漫画でもなんでも女性の作ったものが男性にもウケたときに「女性作家とは思えない〜」とか「少女漫画という枠に収まらない〜」とか言われるが、女性作家の書く(描く)ものを勝手に過小評価して、女性向けジャンルを勝手に格下に見ておいて何を言っているんだか…と思う。女性を勝手に「神秘的」な存在にしたり、悪女に仕立て上げたり、聖母として崇めたり…「男性と同じ等身大の人間としての女性」を描けない男性は多いのだが、なぜか男性たちは男性が描く女性の方こそ「本物の女性」だと信じて疑わない。普段「感情的」であることを馬鹿にして、己の感情にも他人の感情にも鈍感に生きているせいで観察眼も曇りまくりなのに、どうして自分たちの考えた女性像をそこまで信用できるのか、本当に無駄にポジティブだな、と感心する。

 『若草物語』を読んでジョーに憧れたひとは多いに違いない。他の少女小説でも主人公は「なんとなく周囲に馴染めない」ところを持っている。そして、そんな主人公たちだからこそ、少女は夢中でその小説を読んできたのだろうし、それらの小説は繰り返し映像化されてもきたのだろうと思う。それは、つまり、周囲に馴染んでいるように見えた「周囲の女の子たち」も、あの頃、多かれ少なかれ「本当の自分はこれじゃない」という気持ちを抱えていたからではないだろうか?本当に、なに一つ「女の子らしさ」に疑問を感じずに女の子をしていた子はどのくらいいるのだろう?
 当時の一般的な価値観に沿うように、最終的に「結婚」していく主人公たちであっても、「女の子だから窮屈だ」と感じる女の子がこれほど愛されてきたことは何を意味するのか。
 社会的に構築される「らしさ」や女性の一生はこうあるべきという規範が出来るだけ早く解体されていくことを願わずにはいられない。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。

 最近観た少女小説原作の映像作品で私が感情移入しまくって号泣したのは、ドラマ『アンという名の少女』です。原作から改変されているらしきところもかなりあり、カナダの先住民たちへの差別なども射程にいれた意欲作なので(ただし、「打ち切り」に近い形で終わっているようで充分に掘り下げ切れていないのが惜しいのだが)機会がある方にはオススメしたいです。上でリンクを貼った斎藤美奈子のインタビュー記事にもあるが、ジョーは基本的にロマンスに関心がない。自分で小説では書くものの、誰かと結婚することに関心がないし、いわゆるフェミニンなオシャレをすることにも関心がない(その一方で髪を切って泣いたりするのだが)。それに対して、アンはレースやリボン、パフスリーブのドレスに憧れ、変わり者の自分を理解して愛してくれる「王子様」の登場を諦め切れない。この二人のどちらに感情移入するか、けっこう趣味が割れるところだと思いますが、私は圧倒的にアンなのでいちいち滝のように泣いてしまってなかなか大変でした。『赤毛のアン』はシリーズ全部読むとなかなか長いので二の足を踏んでいますが、今後少しずつ子ども時代に通過しなかった少女小説を読んでいきたいと思います。みなさんの好きな少女小説や映像化されているものでオススメがあれば教えてもらえると嬉しいです。

 では、また次回の配信でお会いしましょう〜🐸

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