一人称を巡る旅と男性からの「連帯」について
2011年、ツイッターを始めた。
キッカケは東日本大震災。
ドイツ留学から戻って1年半ほどしか経っていなかったこともあり、「ドイツ人なら、こういうときにデモをするよな」と考えて、日本でもデモをするひとがいるのだろうか、いるならどこで探すのが一番いいのか、と考えた結果がツイッターだった。
当時、仲が良かった創作系オタクの友人に使い方を教えてもらった流れで、なんとなくオタク+反原発アカウントとしてスタートしたこともあり、アイコンは好きな漫画のキャラを落書きしたものを使い、名前は当時のその友だちを含む数名で結成していた「脳内バンド」(妄想なので演奏はしないというかできない)のメンバー名を利用してあまり深く考えずに珈音(カイン)とした。
なぜ、そうしたのか今では記憶が曖昧なのだが、あるときから、私はツイッターでの一人称を「僕」とすることに決めた。
実は、日常でも「僕」をつかっていたことが短期間あるのだが、あくまでごく限られたサークル内でのことだったので、オープンな場で「僕」をつかうのは初めてだった。
原発怖いよー!ということを言っている分には、「僕」であることの意味を考えないですんでいたのだが、デモなどでツイッター経由で知りあって顔見知りになるひとも出てきた頃、とある年配男性からツイッターで延々と粘着されたことがあった。
「○×のデモでお会いしている××です」と名乗ったその男性は、私からすればどうでもいいイチャモンをつけてきておきながら、私から「それは知りませんでした。教えていただきありがとうございます。」と言われると思ったらしいのだ(なに、その無駄ポジティブ?!)。その時、どうも世の中には女性(特に歳下の)にだけやたらあれこれ教えに来る男性(いわゆる「教えてあげようおじさん」)がいることを実感した。と同時に、一人称を「僕」にしていることで、ツイッターにいる見ず知らずの「教えてあげようおじさん」をある程度避けることができているのかも…と認識するようになった。
「僕」、便利!!!
震災から時間が経ち、徐々に原発事故よりも政治全般の問題へとデモの対象がシフトしていきつつあった頃、ちょっとした理由から、多少フェミニズムにかかわるトピックに言及することが増えた。その際も、生理に関することには直接言及しないなど、自分が女性であることはできる限り伏せておくことを意識していたのだが、あるとき、痴漢に関する話だったと思うが、私のツイートがクラスタを越えて少したくさんRTされた。このときに、数名の女性から「この人、男性だと思うけれど、こんなに女性の被害のことをわかってくれている」「男性でこんな風に言ってくれるひとがいるなんて思わなかった」といったリプライがきていて、「あ、"僕"のせいで勘違いさせてしまったか」と申し訳なく思った。
「いえ、僕は女性です」と言うべきか迷って、言わなかった気がするのだけど、騙したいわけではなかった。ただ、「なんだ女性なのか、やっぱり男性はわかってくれないんだ」とガッカリさせてしまうのも気の毒な気がしてしまった。私個人としても「男でもわかってくれるひとはいる」と思いたい。しかし、現実にいないかもしれないものを、いると期待させてしまうことも残酷ではないか?
その後も、私はしばらく「僕」という一人称を使い続けた。それは「珈音」というツイッター上のキャラクターのようなもので、その一人称でなければなんとなく成立しないように思えていたからだ。ただ、積極的に「女性ではないフリ」をするのはやめた。具体的には、痴漢被害や生理のことを自分ごととして書くようになった。そうしてみてわかったことは、やはり自分の経験に基づくことについては書けることがたくさんあるということだった。そして、さまざまに異なる経験をしつつも、「私も!」と共感しあえることがあった。「女性差別のことを考えている男性(らしきひと)」と見なされていたときよりも、女性たちとの連帯を感じることができるようになった。
その後、2015年11月から一緒に暮らしているパートナーとほぼ毎日のようにフェミニズムに関連することを話し、本を共有し、議論をしていくうちに、ネット上のキャラクターは徐々に私自身の中に吸収されていき、「僕」という一人称を、もう私は必要としなくなった。珈音という名前は残ったけれど、私は「私」をつかう。たまに「俺」とも言うけれど。
「男性からのフェミニズムへの連帯」が語られるとき、私は一人称「僕」で男性と間違われた自分の、あのときの居心地の悪さを思い出す。同じことを女性として発信したときは共感や連帯を感じられるけれど、男性と間違われたときにだけ感じた「感謝」や「敬意」のようなものにソワソワする。そして、「連帯します」と言っている男性は、おそらくそうした発言をした際には基本的に女性から感謝と敬意を受取っていて、それが普通のこと・いつものことになっているために、そこに居心地の悪さを覚えることはないのではないか、と感じる。中には、感謝の言葉をかけられて当然と勘違いしているひともいるようにも見える。
そのひと自身に悪意がなくとも、そのひと自身が意図的に女性を差別した経験がなくとも、そこで「感謝される」ことに居心地の悪さを覚えないのであれば、やはり一度立ち止まって自省してほしいと思う。そして、女性に向かって連帯を表明するだけではなく、男性に向かってダメな言動をその都度注意するという、地味で面倒くさくて場合によっては嫌われる役を引き受けてほしい。そして、女性が「男性からの連帯の表明」を常に諸手を挙げて歓迎する気になれない理由にも思いを馳せてほしい、と思っている。
ホルガ村カエル通信、今回は以上です。
初回なので、少し自己紹介的な内容も絡めて書いたため、長くなってしまいましたが、2通目からはもう少し短めにまとめてお送りしますので、今後もよろしくお願いします。
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