カエルのおすすめ:桐野夏生『日没』

4月は怒濤の忙しさで気付いたらもう月末…。ということで、今回は最近読んだ小説をおすすめしたい。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2024.04.28
誰でも

 桐野夏生の『日没』に私が関心を持ったのは、翻訳者である鴻巣友季子の著書『文学は予言する』(これも超おすすめの一冊だ!読むと本が読みたくなる本。)のディストピア小説の章で言及されていたからだ。別に取り立ててディストピア小説が好きというわけではないのだが、今の社会はなかなかにディストピア小説っぽさがあるし、近年注目のジャンルだということで(鴻巣さんの本でも大きく取り上げられている)、私も色々と読んでみたいなと思ってリストアップし始めていたところ、偶然(?)、同居人が「誕生日プレゼントに」と買ってきてくれたのだった。

 『日没』のあらすじを簡単に紹介すると、主人公である女性小説家・マッツ夢井は、「文化文芸倫理向上委員会」なる政府組織から召喚状を受取り、わけのわからないまま、断崖に建つ「療養所」に収容される。そこでは、食事の時間も入浴の時間も管理され、収容者同士の会話は禁止され、スマホの充電もままならないという完全に隔離された環境で「社会に適応した正しい小説」を書けるようになることが求められる…。

 『日没』は、大衆的検閲と国家の言論統制が結びついたら?というか、国家が大衆的検閲を言論統制に利用し始めたら?というwhat if?(もしも)モノである。「大衆的検閲」という言葉は、岩波書店の『世界』2023年2月号(No.966)に収録されている桐野夏生の講演(2022年11月にインドネシア共和国ジャカルタで行われた第33回国際出版会議における基調講演)で使われているものだ。この講演においては、戦時中の国家的な検閲の時代は終わったものの、SNS等における(多くの場合、偏ったアルゴリズムによる)安易なラベリングや単純な二元論が生み出す分断により、自分は「正義」の側にいると信じる、ごく一般の人たちが過剰な攻撃に陥りやすく、また、それがSNSを通じて伝播しやすい状況があることを指摘した上で、それが表現の自由を取り締まる「検閲」として機能してしまうこと、そして、出版社が作家の自由を守ることよりも大衆的検閲に協力するのではないかという危惧が述べられている。

 私は性暴力などを「娯楽」として「表現」することには明確に反対の立場であり、その点では「表現規制」を是とする側にいる。しかし、性暴力(痴漢や露出狂を含む)は多くの女性にとって「現実の脅威」であり、また、「当たり前のように経験しているただの現実」でさえある。「レイプされた女性も最終的に喜んでいる」とか「ちんこを入れればオンナは性的快楽で言いなりになる」みたいな性加害行為や勘違いを助長するようなものでなければ、性暴力そのものの描写が必要な小説でそれを書くこと自体は規制されるべきではないと考える。一方で、性暴力事件の裁判を「エロ」として傍聴しにくる男性がいる社会において、「娯楽」ではない性暴力の描写というのは不可能かもしれない、という気持ちもなくはない。難しい線引きだと思う。なお、同意の上での性行為については、「同意をとっている」ことが明確に分かる描写を心がける必要はあるだろうと思う。
(この後、多少はネタバレと言われる可能性があることを書きますので、ネタバレ絶対回避派の方はご注意を!)

 さて、私の立場はそのような感じなので、『日没』を読んでいると、自分が過去に行ってきた(そして、おそらくは今後も行うであろう)「表現」への批判について、桐野とは必ずしも意見が一致していないのだろうなと感じる。そして、主人公のマッツは桐野自身ではないものの、マッツとも意見の相違が大いにあるため、自分がしていることは、表現の自由を殺す行為(大衆的検閲)への加担なのかもしれないなぁということは考えざるを得なかった。それは、ほんの少し居心地が悪くて、落ち着かないものだったが、やはり、自分が発する言葉には責任を持ちたいと改めて感じたし、そのためにもきちんと推敲してから意見を述べるようにしたい(最近、SNS投稿が減っているのはそれもある)。

 では、『日没』は読んでて楽しくない小説なのか?といえば、その逆で、とても面白いのだ。ストレスにならない文体とちょうど良いテンポの物語の進み方、マッツがじりじりとしている場面ではこちらもじりじりさせられるが、それも小説の面白さだ。読み始めたら、一気読みしたくなる快作だ。実際、私も2日で読みきった。仕事がなければ1日で読んだと思う。そのくらいに読みやすいのだ。
 しかし、国家による言論統制を描いているので、内容はそれなりに重い。また、「療養所」内の描写は花輪和一『刑務所の中』を思い出させるものでもある。『刑務所の中』で、甘いものに飢える話が出てくるので、桐野も参考にしたのではないかと思う(少なくとも、刑務所という場所についてはかなり調べたと思う)。

 「療養生活」は、かなり「自由」度もあるのだが、そこがまた怖い。そもそも収容される前にルールの説明がないため、気付かないうちにルール違反をすることになってしまうのだ。この辺りは「何が秘密か、それは秘密です」などと反対運動で批判された2013年成立の「特定秘密保護法」を思い起こさせるし、療養者同士の会話が禁止されていることなどは明らかに2017年に成立した「テロ等準備罪」(通称「共謀罪」)を意識したであろうことがわかる。
 桐野夏生が、作家だからこそできる形で、こうした法の問題点を描いていることに感動するし、大学で小説を書くサークルを作ったメンバーのひとりだった自分との力量の差を見せつけられて嫉妬する。いや、なにを比較してんだよ、図々しい…と自分でも思うのだが、それでも「くぅ~こんな小説が書けるなんて羨ましいぜ~くそぉ~」と思わないと言ったら嘘である。桐野夏生、カッコいい!くやしい!カッコいい!と感情が渋滞を起こすのだが、そういう法律云々は置いておいても、とにかく「で?それで?どうなる?」とページを捲ってしまうこと請け合いだ!

 ラストまで読んで、「ひ~、人間、おっそろしい」と思ったのだが、実は、一番恐ろしかったことは、療養所でのマッツの言動に対して「あぁぁぁ、そんなことしなければいいのに~」とか「また余計なことをぉぉぉ~」と思ってしまう自分がいたことである。それは、別の言い方をすると、「弾圧に屈すればいいのに」「権力に迎合してしまえばいいのに」ということである。もともと私は、多少理不尽な校則にも「はいはい」と従ってしまえるし、それなりに適応してやっていけてしまう人間である、という自覚はしている。しかし、脱原発運動から様々な市民運動に参加した経験を持ち、おそらく左翼とされる立場であるはずの自分が、マッツの抵抗に否定的な感情を抱いて、「さっさと迎合してしまえ」と思っていることに気付いたときは恐ろしかった。そして、マッツはあまり感情移入できないキャラクターに描かれているし、「いや、抵抗するにしても、それは言わん方が…」と思う程度には、一言二言多いし、相手に訝しがられる言動を取る傾向があるので、桐野夏生はわざと読者にそう思わせるように誘導していると私は思っている。なんという意地悪な!(作家としての技量がとんでもなく高い)

 ということで、『日没』、おすすめです!2023年には文庫にもなっているので手に取りやすいかと。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 自分がもっとSNSを常時開いていた頃、自分のタイムラインには、たとえば「原発の怖さ」「原発事故の深刻さ」「ドイツのエネルギーシフト」などの話題が並び、世間の関心はそこにあるように見えていたことを思いだしています。選挙の時も、「投票に行こう」という投稿が並び、みんなが政権交替を望んでいるように見えていました。しかし、それは「自分が作った自分の関心と好みで構成されたタイムライン」に過ぎず、タイムラインの外では、原発事故はあっという間に「過去の出来事」になり、投票率はずっと低いままです。

 情報が取捨選択できるネット時代の人間は、自分が晒されている情報の偏りに気付きにくく、自分が「扇動されている」可能性や「扇動している」可能性にも気付きにくいものなのだろうと思います。己の才能の無さを言い訳にせずに、自ら考えて言葉にすることを続けていくしかないのだな、と。国家権力による弾圧に利用されない為にも、我が身かわいさのために誰かを生け贄にしないためにも、やはり常日ごろから「自分の弱さ」も「権力の狡猾さ」も忘れずにいたいものです。

 ちなみに、『刑務所の中』で好きな表現は「それじゃ様」と「願いますの壁」です。

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