性的なことに消極的である権利

女性の性的主体性という話になったときに、「性的な話はSNSなどのオープンな場ではしたくない」「セックスが嫌いである」という女性の性的主体性は「主体性」だと認めない男性っているよね、っていう話。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2023.08.30
誰でも

#フェミニストが脱いじゃダメですか

 どんな格好をしていても、どこにいても、どんな時間帯であっても、他人がそのひとの身体(特にプライベートパーツ)に勝手に触れていい理由にはならない。残念ながら、たったそれだけのことさえ認めたくない人たちが少なくない。それは、痴漢を含む性暴力被害者に浴びせられる「そんな格好をしているから」「そんな場所に行ったから」「そんな時間に出歩いたから」という非難の声を見れば明らかだ。なんなら、「男性と二人きりで会った」というだけで、「被害女性の落ち度」扱いされるレベルなのだから、正直、女性に生まれただけで無理ゲーである。

 しかし、個人的に「闇が深いな」と思うのは、上記のような分かりやすい二次加害発言だけでなく、「二次加害はやめろ!」と言っている人たち(特に左翼の男性)による"性嫌悪(セックスフォビア)"認定と"性嫌悪フェミ"批判に見え隠れする、主体的に脱がない(←「性的なことに消極的な」という比喩的な意味も込みで)女性に対する無自覚の見下しのようなものだ。自分の方が”女性の性的主体性の尊重"についてよく考えているつもりになって、「性的なことをタブー視するのはパターナリズムだ」「女性が性産業に従事する権利を守れ」と唱えて、"性嫌悪フェミ"を"叱る"のは楽しくて仕方がないのだろうが、ぐるっと回って、単なるアンチフェミみたいなこと言っちゃってる人もいて、もう少し首の上に乗ってるものをきちんと使った方がいいよ、と思う。

 SNSで目に入ってきた言説をそのまま今度は自分が垂れ流して、それを内輪のサークルでぐるぐるとリツイート(リポスト)し合っているうちに、いつの間にか、自分はいろいろと分かっているという気になってしまって、批判的に言及する人たちの主張を正しく読み取ることも、その批判にきちんと反論することもできていないということに無自覚になる。
 こうしたことは、誰にでも起こり得るので、SNSでは意見が異なるひともフォローしておくとか、SNSに入り浸りにならないように気をつけるとか、意識的な対策が必要なんだろうと思う。(ほぼ)無料のSNSでさえ自分と異なる意見に耳を傾けることができないひとは、当然、わざわざ本を買ったり借りたりしてまで様々な意見に触れようとしない。自分の意見を裏付けてくれそうな本を読んで「ほらね」と安心したり、時には自分と違う意見でさえ自分の思い込みに寄せて解釈して「そうそう」と誤読したままで納得する。
 時間は有限だし、日本社会は忙しない。自分が賛同できないと思っている意見についてよく学ぶためにお金や時間、労力を使おうと思えないことは、そこまで責められないことかもしれない、と思う。しかし、それならば、他人を簡単に"性嫌悪"だのなんのと決めつけて罵るのもやめておけばいいのに。

 もうだいぶ前になるが、#フェミニストが脱いじゃダメですか、というハッシュタグをつけて、自分の水着姿や下着姿の写真を投稿するというのがごく一部で一瞬流行ったことがある。フェミニストのことを、"眼鏡で出っ歯のザマス口調のPTA的道徳観のおばさん"として描くのは、もはや伝統と言っていいレベルで定着していることもあってか、「フェミニストが脱ぐ」というのは、ある種の意外な組み合わせと考えた女性たちがいたのだろうと思う。しかし、以前から、フェミニストは「私の体は私のもの」という主張と共に、女性(の身体)を社会(男性)のもの扱いする風潮に、脱いで抗議してもいるはずだ。それに加えて、ネット上に一度上がってしまった画像(動画)は完全に消し去ることが難しい。「デジタル・タトゥー」という言葉も最近はよく使われるようになっているが、フェイク動画などのクオリティも上がっていることから、そうした写真が悪用される危険もある。「脱いじゃダメですか」ハッシュタグがごく一部で一瞬しか流行らなかった理由はその辺りだと思うが、フェミニストを自認する女性たちの中にさえ戯画化されたフェミニスト像を内面化している人も一部いるんだなぁ〜と思わされる出来事だった。

 いわゆる「フェミ・アカウント」の発信を追っていると、萌え絵・萌えキャラを使った公共空間の広告表現、コンビニなどにカジュアルに売られているポルノ雑誌、アニメや漫画におけるラッキースケベ表現などを批判する声が頻繁に目に入ることになる。それを見て、「フェミニストは、性的なものを撲滅しようとしている」と勘違いする人もかなりいるようだが、たいていのフェミニストは「ゾーニング」を求めているのであって、性表現そのものを全部根こそぎ無くそうというのは少数派だ。ちなみに、私はどちらかと言えば、表現そのものを(少なくとも一部は)規制すべきだと思っている少数派だ。というのも、フィクションが現実に与える影響を考えれば、単にゾーニングすれば良いという話でもないからだ。ただ、ゾーニングが必要な表現である(ところ構わず開陳して良いものではない)、ということが常識になるだけでもかなりマシではあるとも思っている。いずれにしても、この辺りはもっと丁寧に、しかし、早急に議論される必要があるだろう。

セックスポジティブと家父長制

 さて、フェミニストであろうとなかろうと脱ぐことに許可は必要ないし、どれだけ露出の多い格好をしていても、たとえ裸であったとしても、それを理由に同意のない性的な行為(セクハラ発言を含む)をして良い理由にはならない。それは大前提である。その上で、私が主張したいのは、脱ぐこと(性的に積極的であること)を過度に「女性の主体性」と結びつけるのも逆に抑圧的なのではないか、ということだ。

 左翼・リベラルの人たち(特に男性)の間では、性に積極的な女性の方が進歩的でリベラルで己の性的主体性に自覚的であると評価される傾向があるように思う。実際に、性的主体としての自らのヌードや下着姿を撮って公開している女性の人気アカウントもあるし、そういった自己表現をしたいひとは自由にする権利がある。それについては、私がどうこう口を挟むものではないと、それはわかる。
 しかし、性に積極的であるかどうかをSNSでオープンにしない(したくない)女性も当たり前に存在する、ということが無視されてしまうことは問題だ。さらに、「性に消極的である」という形の性的主体性というものも尊重されてしかるべきではないか。それは、性に積極的な女性たちの「主体性」に比べると、見えにくいし分かりにくいかもしれないけれど、とても大事なことだと思う。
 というのも、昔から家父長制において(家庭内の)女性に求められてきた性的な役割を言語化すると「性的に奔放では(性的快楽を求め)ないけれど、家父長の遺伝子を受け継ぐ子どもを持ちたいという欲求はある程度持っていて、家父長の性欲には喜んで応えること」になるからだ。
 左翼男性の考える「女性の性的主体性」は最初の「性的に奔放であってはいけない」という規範に抗うものではあるけれど、後半の2つについてはどうだろうか?「子どもを産みたくない」という女性の意志を尊重しようという掛け声は、「女性が性的に積極的である権利」と比べると見かける頻度が低いし、「男の性欲に喜んで応えるべき」という規範については、「女性にも性欲がある」を認めようとするあまり、男女の身体的な違いに無頓着になっていないだろうか?「性欲がある」=「挿入と射精したい(裏返して、女性は挿入と射精をされたがっている)」という短略思考になっていないだろうか?その辺りを自己点検してみて欲しいと思う。

「本音のSNS」と「建前の実社会」というまやかし

 SNSに絶えず「〜なう(←これももう死語になったよね)」と現在進行形で自分のことを公開していくのが普通の時代に、SNSに投稿されないことは「ないこと」として扱われがち。特に、SNSで繋がって連帯している界隈においては、この傾向が強まるように思う。  
 日常の対面コミュニケーションにおいては、お互いに何でもかんでも話しているわけではないし、それなりに相手の「知らない側面」があるのが当たり前のはずだ。毎日職場で顔を合わせていても、そのひとのことを何でも知っていると勘違いしてしまうことは少ないはずだ。
 「本音ベースで発信し合っているSNSと違って、日常生活は建前で暮らしているんだから、比べるのがおかしい」と言われるかもしれないが、その「SNS上の本音」というのは、いくらでも創作できるものでもある。内心では「女の権利がーとか、セクハラだーとか面倒くさいなぁ」と思っていても、左翼・リベラル界隈にいたら、それはSNSでは言わないでおく。その程度の経験さえ全くないと言い切れる男性は、いたとしてもごくごくごく少数のはずだ。そうでなければ、"男性の問題"を指摘されて「男で括るなー」とキレたり、自分自身のマチズモを指摘されて「俺はこんなに"理解ある男性"なのにぃぃぃ」と泣き言を言い出す男性が、こうも頻繁に観測されるはずがないだろう。

 「女性が露出の多い服を着たり、脱いだりする自由はもちろんあるけど、自分の彼女(妻)や娘にはやってほしくない」「AVに出たり、風俗で働くことを女性自らが選ぶことには反対しないけど、(以下略)」と内心は思いつつ、「女性が性に積極的になる権利を!」「Sexwork ist work!」と言っている男性は、絶対に少なくないと思う。彼らは、自分の身内女性の身体は自分のものだと無自覚に思っていることも少なくないから。そして、「脱ぐ女」が、他の男性からどんな目で消費され、どんな扱いを受けるかを知っているから。
 それでもなお、「自分の身内女性であっても、やりたいというなら止めない」というのは、主張としては一貫していると思うが、いずれにしても女性の身体であるからこそ受けやすい被害やその被害による身体的・心理的ダメージについての認識が甘いし、結局のところ「他人事」のラインをどこに引くのかの違いでしかないように見えてしまう。身内女性までは「自分事」になる人間と自分以外(あるいは女性)のことは「自分事」にはならない人間、どちらも五十歩百歩だろう。

 すでに少し述べたように、「性に積極的」というのがどういうことなのか、その認識が一致していないのではないか、と感じることも多い。性に積極的であるからと言って、誰とでも性的な関係になりたいとは限らない。むしろ、積極的であるからこそ相手は選びたいという女性はけっこういるように思う。もちろん、そうでない女性もいるだろうが、それは場合によっては「トラウマの再演」と呼ばれる、ある種の自傷行為の可能性もあると思う。性行為においてオーガズムを感じていない女性は男性が信じているよりもずっと多いことは、様々な(フェミニズムや性に関する)書籍で触れられているし、身体構造上の傷つきやすさ、妊娠や子宮がんのリスクなどを考えても、「性に積極的」であっても、相手は慎重に選びたいと考える方が理にかなっている。
 一方の男性は、ナンパ師界隈などを観察していても、「性に積極的=数こなす」だと思っていることが多いように見える。というか、もともと「男性は性に積極的であるべき」という規範が存在している。性的な経験をすることを「男になる」と表現するのも、それが男であることに必要不可欠な要素とされているからだろう。しかし、彼らは、自分たちが「異性愛者男性のみで構成されたサークル(ホモソーシャル)」にいることに無自覚だ。そのため、"性に積極的な男性"の特徴を、そのまま"性に積極的な女性"にも当てはめてしまうのではないか。その結果として、「性的な格好をしているんだから」「性的な職業に就いているのだから」「性的魅力を売りにしているのだから」、不特定多数の男性から性的な対象と見なされたがっている(性的関係を持ってもいいと思っている)と思い込んで、セクハラが許されると勘違いし、性暴力を「相手が望んだこと」だと信じ込み、正当化しようとする。

 そのような男性が多い社会で、性に積極的な女性である、ということを不特定多数に向けて分かりやすく発信したり、性的主体性の表現として脱ぐことは、抵抗になるのだろうか?ということを前から考えている。
 「女性は全身を覆え」「女性は身内以外の男性に顔を見せるな」というような社会であれば、脱ぐことは「抵抗」になるだろうと思う。ただ、そういった社会においては、女性の規範を守らない女性は(性的)暴行を受けた上で「男性を惑わせた」等の罪を負わされて見せしめに死刑にされたりするので、「命をかけてでも抵抗するべきだ」などと安全圏にいる人間が言う権利はない。抵抗するという選択肢や意志を奪い取るほどの差別がまかり通ってしまう理由に、女性身体が男性身体に対して不利にできているという事実も無視できないだろう。さらに、妊娠している女性や出産した女性は、自分自身以外に「子ども」も守らなければならいという足かせをつけられる。(しかし、そういう女性たちから生まれてきた息子たちが抑圧者に成長していくっていうのが、なんていうか…ツラいもんがあるよね)

日本に蔓延する女体消費表現と「脱ぐ」プロテストの関係

 日本社会には、未成年者も読むような漫画雑誌の表紙が水着グラビアだったりもするし、萌え絵はじめ、漫画やアニメやゲームにおいても、露出の多い服装の女性や「女性が着衣のまま服を脱がされたような表現」が溢れている。そのような社会において、抵抗として「脱ぐ」ことに、私個人はあまり意味を見出せない。
 私は、いわゆる「女性らしい」格好もするし、身体のラインが出る服を着ることもある。そして、私が痴漢被害に遭ったときというのは、むしろどちらかと言えばボーイッシュな格好を好んでいた頃で、自分(の身体)に自信がありそうな格好の方が、かえって痴漢避けになるというのもなくはないと思う。しかし、それは、社会規範への抵抗ではなく、ある種の自衛行為であり、現状への対症療法だ。そして、私は肌を出していても痴漢などの性被害に遭わずに済んできたものの、もし、被害に遭っていたら、そのときは「そんな格好をしているから」と言われていただろうと思う。

 日常生活におけるファッションとフェミニズム的なアピールを行なう際(スラットウォーク的なものなど)のファッションはまた別ものだ、と言われるかもしれない。確かにその通りだと思う。アピール行動として、脱ぐパフォーマスをしているからといって、日常生活で突然電車の中で服を脱いだりはしない。それ相応の文脈の中に置かれてこそ意味をなす行動というものはある。SNS上での発信もそうだ。
 しかし、当の本人の意図とは無関係に、「脱いでる女がいる」ことだけを切り取って消費する層も必ずいる。海外のフェミニスト団体のトップレスの抗議などを「これぞ、本物のフェミニスト!日本のツイフェミはアニメや漫画にばかり文句をつけていないで見習うべきw」などと言っているアンチフェミを見たことがあるひとも多いはずだ。トップレスになって抗議している女性たちが、何を訴えているのか、彼女たちの訴えと「萌え絵やAVの氾濫への批判」は本当に無関係なことなのか、ということを彼らは全く考えない。なぜなら、考える必要がないからだ。そこに消費できる女体があることだけが大事であり、自分たちが自由に消費できる女体(フィクションを含む)を批判する女を貶めるために使える材料があることが大事だから(実際は「貶める材料になる」というのが勘違いなんだが)。そんな連中から、「本物のフェミニスト」認定されたところで、女性の権利の向上には何一つ寄与しないのは明白だ。

 私の身体は私のものだ!自由に好きな格好をしていいんだ!女性の性的自己決定権を尊重しろ!というメッセージは、エンパワメントになる。しかし、そこで出てくる「好きな格好」が露出度が高めのファッションばかりだったり、「性的自己決定権」が「セックスをする権利」だの「セックスワークをする権利」だのばかりになっているなら、それは、女性の性の管理の仕方が変わっただけで、「女性には性欲がない」「女性は性的客体である」というこれまでの社会と同じくらい抑圧的なのではないかと思ってしまう。

 また、日本において、フェミニズム的な運動には、欧米から輸入した概念や方法の影響が非常に強いし、標語もそのままの和訳であったり、英語のままで掲げられることも多い。ウーマン・リブの時代のように、主婦や一般の女性たちも入り交じって、生活実感の中から言葉や行動が出てくる運動とは、地続きの部分もあるだろうが、根本的には質が変わってきているんじゃないかと思う。欧米の文化には、キリスト教的な道徳観というものが深く根付いているので、表面的な部分を借りてきても、日本の状況にはうまく合わないところや文脈が理解されにくいところもあるように思う。
 そして、繰り返しになるが、日本はポルノ的な表現が氾濫している国でもある。そこでは、「脱がない権利」ももっときちんと擁護されるべきではないかと思うわけである。ついでに、「性嫌悪」の原因は何なのか?「性嫌悪」で何がいけないのか?ということについて、きちんと考えてみれば、女性を責めたところで全く意味がないことくらい理解できるはずだ。

何者でもない女たちが語る言葉を聞かないのは誰なのか

 最後に、サラ・ポーリー監督の『ウーマン・トーキング 私たちの選択』(原題:Women Talking)という映画について触れておきたい。2022年製作の実話ベースの小説を映画化した作品で、第95回アカデミー脚色賞を受賞していることもあり、タイトルを知っている人も多いのではないかと思う。ネタバレ多少はOKな人は是非以下のリンクの記事も読んでみて欲しい。
(私がここから先で書くことも、若干「ネタバレ」感はあるので、ネタバレ絶対許せない!という人は読み飛ばしてください)

 ある宗教保守的なコミュニティにおいて連続レイプ事件が起る。それは「悪魔の仕業」などとされていたのだが、コミュニティの男たちが犯人であることが判明する。逮捕された強姦魔たちの保釈金を払うために、コミュニティの男たちが総出で町に出かけて留守になった2日間の間、女性たちは初めて「投票」を行い、今後どうするのか話し合いをする…。というのが、物語の始まりだが、あまり多くを言葉で説明しない作品で、見る側のリテラシーも求められるように感じた。そして、言葉で説明しない理由は、ナレーションが被害者のひとりである少女によるものであり、このコミュニティにおいては女性は読み書きを教えてもらえない存在だからではないかと思う。つまり、彼女たちは言葉を奪われている存在なのだ。

 公式サイトには「自らの尊厳を守るために語り合った女性たちの感動の物語」と書かれているし、確かにその通りとも言えるのだが、その「語り合い」は共感に満ちた穏やかものではないし、むしろ、言葉を奪われたままで生きてきた女性たちが「尊厳」を獲得するために語り合う物語と言ってもいいのではないか、と思う。
 彼女たちは「選択肢を奪われ」て生きている。登場人物のひとりが「私に選択肢があったと思うのか?」と怒りと悲しみを露にする場面があるのだが、自分には選択肢がなかったんだと言葉にできたこと、それが彼女の尊厳を取り戻すことに繋がったように私には見えた。私のような信仰を持たない人間からすると、「それでも、なお、なぜ神を信じられるの?」と感じてしまう部分もあるのだが、彼女たちは自らの信仰を裏切らずに、それでいて自分たちの安全を確保するためにはどうすればいいのか、消去法で答えを出していくのだ。
 「女性が意見を持つこと」が認められないコミュニティで生きてきた女性たちが、必死で言葉を紡ごうとして、途中で諦めにぶつかったり、互いに反発し合ったりしながら、それでもなんとか助け合って出す「結論」は、フェミニズムの土台となるものだ。つまり、この映画は、教育を受けたわけでも「フェミニズムを学んだ」わけでもない女性たちが、生活の中から、その抑圧された経験から、フェミニズム的な思考に辿り着く物語なのだ。個人的には、そこが一番感動的なポイントだと思う。
 「結論」は決して単純なハッピーエンドではない。しかし、希望もある。なによりも彼女たちが、自分たちの権利や尊厳を語る「言葉を獲得した」こと、それは必ず次の世代に受け継がれる。だからこそ、ナレーションは「これはあなたが生まれる前に終わる物語」で始まるのだ。

 「保守的で父権的な社会で抑圧される女性たち」という分かりやすい構図に落とし込まれていることで、この映画を見る「良識的な」男性たちは、彼女たちに同情し、共感し、その決断にエールを贈るだろう。暴力的な夫たち、強姦魔、それを見逃す男たちに怒りを覚えるだろう。しかし、「何者でもない女性たちの語る言葉」に耳を傾けないのは、性暴力加害を見て見ぬフリをするのは、なにも狭い宗教コミュニティの保守的な男たちだけではない。自分がオーガストだと勘違いする前に、オーガストが女性達から怒られたときに自分だったら彼のように振る舞えるか?己の胸に手を置いて、よぉ〜く考えてみたらいいのにね。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 「女性が露出の多いファッションを楽しむ権利」と「どんな格好をしていても性加害していい理由にはならない」が両立するのと同じように、「女性が性的に積極的になる権利」と「女性が性的に消極的である権利」も両立するはずです。という、それだけの話をするのに9000文字も使っているのもどうなのか?と自分でも思いますが、こういうことを考えている人間がいるということも定期的に記録しておいた方がいいだろうということで…。
 2015年末に左翼・リベラル男性たちの多くをSexwork ist work派に引き入れた「おっぱい募金」騒動の際にそれなりの影響力を持った某ライターの方が、2022年末以降、熱心に暇アノン活動をされていたのを見て、あまりにも「性に積極的になる権利」一辺倒だとこういう方向に行っちゃうんじゃないかな〜と思っています。そのライターの方が音楽雑誌に(音楽とは全く関係ない)連載を持っていた頃、楽しく読んでいた読者のひとりだったので、当時の自分のナイーブさというか、露悪的なエログロトークを面白がってしまうサブカル拗らせ女子っぷりを思い出して、「いやぁ〜若かったね!」と少々恥ずかしい気持ちになります。
 今回は、「他人の裸を見ない権利」の話はあまりしなかったので、次に"性嫌悪"関連のことを書く時は、そちらにフォーカスしてみようかなと思っているところです。

 ホルガ村カエル通信は、主にフェミニズム周辺の話題を扱う個人ニュースレターです。配信後はweb公開もしているので、購読者登録をしなくても読めますが、登録をしている方には「限定パラグラフ」付きのカエル通信が届きます🐸

ここに配置されたボタンは、ニュースレター上でのみ押すことができます。

 では、また次回の配信でお会いしましょう。

無料で「ホルガ村カエル通信」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
カエルのおすすめ:桐野夏生『日没』
誰でも
カエルのおすすめ:『透明人間』(2020)
誰でも
カエルのおすすめ:『パメラ・アンダーソン、ラブ・ストーリー』
誰でも
性と生殖は分けて語りたい〜リプロダクティブ・ヘルス&ライツの重要性〜
誰でも
映画『哀れなるものたち』〜女性の性の自己決定をめぐって〜(仮)
誰でも
カエルのおすすめ:『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』
誰でも
カエルのおすすめ:『メンヘラ製造機だった私が鼻にフォークを刺された話』...
誰でも
存在の耐えられない重さ