女性の身体は記号の集積ではない
描かれた女性たち
昔から美術館にあるヌードのイラストや街中にときどきある裸婦の彫刻があまり好きではなかった。子ども心になんとなく見ると気まずい感覚があったのだ。しかし、学校の美術の教科書にもそれは載っているし、「これは猥褻なものではない、芸術なのである」と言われると、「ふーん、そうなのか」という感じで納得しようとしてきたし、大学生くらいのときには見慣れてしまって特にどうとも思わなくなっていた。裸婦を描いた美しいと思う絵画もある。それでも、やはりどこかで「なんとなく嫌だな」という気持ちはあった。それは、多くの裸婦像が実際にはポルノとして描かれていたからなのではないか、女性の身体が無防備に男性の視線に晒されることが目的で描かれていたからなのではないか、と思うようになったのは比較的最近になってからだ。
巨匠による傑作絵画とされているものの中には聖書や神話の物語を描いたものも多く、女性が裸体でいることに物語的な意味がある場合も多い。しかし、肢体が不自然なまでに鑑賞者の方に向けられて描かれるのに対して、女性の視線は鑑賞者の方を見ていないことが圧倒的に多いのだ。女性は見られていることに気付かずに身体を晒しており、鑑賞する私は図らずも覗き見をしているような状態に置かれる。
こうしたことは、フェミニズム美術批評で1970年代以降に繰り返し指摘されてきている。美術館に飾られている絵画の大部分が男性画家によるものであり、一方の女性はというと描かれる客体として美術館に納められている。しかも、かなりの割り合いで服を着ていない状態で。
現在の日本に溢れている中高生くらいの女の子のキャラクターを見ていると、似たような嫌な感じを覚えることがある。
多くの場合、女の子たちは服を着ているのだが、しかし、同時に"服を脱がされて"もいる。重力も布の質感・質量も無視して描かれ、身体に貼り付くようになった衣服は、着衣のままで裸体を想像させるように描く手法として編み出されたものだと言って差し支えないだろう。
「お約束」は「お約束」である
個人的な趣味の話をすると、すでに述べているように、私はそのような表現が好きではない。しかし、好む人がいることは否定できないし、描く自由もあるので、ゲームや作品の中でそれを楽しむ分には私がどうこう言うことはできないと思っている。しかし、問題は、その手の「着衣でありながら裸体を想像させるための技法」が「オタク」を自称する男性たちの間であまりにも当たり前のありふれたものになってしまった結果、彼らの多くがそれが「着衣でありながら裸体を想像させるための技法」であることがわからなくなっているらしいことだ。
人体の骨格を無視したポーズも、重力や重心を無視したポーズも、「"エロい""かわいい"を示す記号をできるだけ多く盛り込むため」だと了解してやっているのであれば、"エロくてかわいい女の子"を鑑賞するという目的のひとたちが集う場であれば、それは「イラストだからありだよね!」で構わないのだろう。個人的には自分が可愛いと思うキャラが骨折・脱臼してそうなイラストは可哀想で見ていられないので全然共感はできないものの、「"エロい""可愛い”記号の大盤振る舞い!さすが神絵師!!!」というのは、まぁ、それでいいと思う。しかし、困ったことに、彼らはどうもそれが「記号を盛るための無理やりポーズ」であるということがわからなくなっているらしいのだ。その結果、本来は「記号盛り盛り大サービス」を楽しむ文脈で内輪で愛でておくべきイラスト表現が、広告などに使われて街中に出てくるようになってしまっている。
広告表現などを見た(そうした記号を共有しない)女性たちから、「乳袋」といわれる胸の表現やスカートがやたら身体に貼り付いて股間や尻のラインが影として描き込まれている表現を、「普通はこんな風にならないよ」と指摘されたときに、「現実と創作物の区別がつかないんですかーw」と言ってくるひとはそれがTPOを考えなければいけない表現であることを忘れていて問題だが、それ以上にヤバいのは、「実際に乳袋はできる!乳袋をつくるための服が売られている!(名指されたメーカーさんから「そのような服ではない」と完全否定のコメントあり)」「静電気が起きてスカートがまとわりついているんだ!リアルな表現なんだ!」などのトンデモ発言をしてしまうひとたちである。
後者に関して言えば、本来は"イラストのルール"を理解した上で楽しむべき表現(非リアルな自分たちの好むイラスト表現)を現実の女性(人間)に投影して「女の身体はこうなっている」と思い込み始めている。彼らは道行く女性を見ても、脳内で乳袋や貼り付きスカートに変換して理解しているのではないか、というか、現実の女性をイラスト化すると乳袋や貼り付きスカートになる、と思っているのではないか、と思う。
いや、ならないよ…
それだけでもだいぶ問題だと思うが、さらに厄介なのは、オタク自認男性に限らず、多くの男性は女性のことを記号の集積として理解している面があるということだ。
「美人」という記号
私は男子のような髪形で化粧なしで過ごしていた期間がとても長いので、基本的に初見で男から【なし】枠に分類されることが多く、よくありがちなことに「私は普通の女の子じゃないから」とむしろ男子のような振る舞いをわざとしてみていた黒歴史もあるのだが、20代後半から30代になって、突如【あり】扱いを受ける機会が増えた。それは、私がスカートも履くようになり、口紅を塗るようになった時期である。しかし、私は実際には基本的には変わってないのだ。化粧で鼻立てをしたわけでも、一重から二重になったわけでも、眉毛の形を変えたわけでもない。口紅をひいただけだ。変わったのは、髪の長さくらいだ。
彼らは口々に「綺麗になった」と言ってきたが、(むしろ歳をとり、白髪が増えたけれど)基本的に変わっていない。その証拠に、もともと私を外見でジャッジしてなかった男性(恩師のひとり)はいつ会っても「ケロは変わらないなぁ〜、オレはおじいちゃんになってしまったよ」と言う。
外見だけでなく、言動も特に変えた覚えがない。飲み会でお酌をしてまわることもしないし、男性をおだてるようなことも言わないし、どちらかと言えばコミュ障ぎみであるのも変わらないが、男たちは勝手に私を褒めにきた。
「なんて馬鹿なんだろう!」と感嘆し、同時にある意味で「愉快」でもあった。だって、何も変わってないのに、髪が伸びてスカートはいて口紅ひいただけで、それまで「男みたい」と思っていた相手を突然「異性愛の対象」と見なすって…。
私が【なし】扱いと【あり】扱いの両方を受けたことで思うのは、男性は女性の容姿の違いを記号的に理解しているのではないか、彼らは女性のことはそのいい加減なフィルターを通した外見でしか見ていないのではないか、ということだ。もし、私がもともと美人なのであれば、彼らは髪が短くてジーンズを履いているだけで相手が美人だとわからない程度の外見認識しかしていないということだし、私が不美人であるのなら、髪を長くして口紅をひいただけで不美人が美人に見えてしまうほどいい加減な外見認識しかしてないということになる。
知人からも、眼鏡からコンタクトにしたら突然態度が変わって言い寄ってくる男がいた、という話を聞いたことがある。まぁ、たしかにファッション1つで雰囲気が変わることもあるけれども、それにしても認識が雑だし、その雑な外見認識だけで相手の考え方や趣味などはどうでもいいというのが本当に意味がわからない。「イケメン無罪」と言いたがる男性の多さは、やはり「美人無罪」な自分たちの投影なんだろうなぁと思ってしまう。
表現の自由のために
全ての男性がオタクなわけではない。しかし、男性の大部分は女性を記号の集積として認識している。それがなぜ問題なのかと言うと、女性とは記号の集積ではなくて、意志と個性をもった人間だからである。
イラストなどは自分の好みの記号(パーツ)を組み合わせて好きに描けば良いし、自分の好みの記号が盛り込まれたキャラクターを推せばいいと思う。それがいかに非現実的であったとしても、都合のよい設定であったとしても、その都度、それ相応のゾーニングをした上でなら自由だ。ただし、絶対に忘れてはいけないことは、それは「男性である自分(たち)の好みで作った女性像」であるという事実だ。実際にそのような女性がいる確率は低いと思っておいてほしい。そして、衣服や身体の表現も「男性である自分(たち)の見たいものが描かれている」ということは何度でも再確認しておいてほしい。それは、場合によっては、公共空間に出すのに適さないものであり、自分たちは公共空間に出すべきではない表現をそういう表現だとわかった上で楽しんでいるのだ、という認識を持ってほしい。
現実の女性を、「前髪パッツン」「おっぱい」「まんこ」「ミニスカート」のような記号の集積として見る習慣が身に付いてしまっている男性は、目の前にいるのが人格を持ったひとりの人間であることを忘れてしまうように見える。そこに、上記のような"エロい""かわいい"表現への麻痺が加わると、簡単に現実の女の子を「エロい記号の集積」として認識してしまいかねないし、それが性加害を性加害と認識しない感覚に繋がっていくように思える。
日本においては「性犯罪」とされない「性加害」「性暴力」も多い。迷惑防止条例違反扱いであったり、そもそも加害行為とさえ認められていないこともある。法律が現実を作る面もあるので、これも早急になんとかしてもらいたい問題だが、男性たちはまずは自分が女性を記号として認識していないか自省してみてほしいし、オタク自認男性は自分たちが好んでいるのが「女体フェチ」表現であって、フェチ同士で内輪で楽しむものであることをきちんと認識すべきだと思う。それこそが、表現の自由を守るためにも必要なことであり、表現の自由とは「俺の好きな女体フェチ表現をいついかなるときも好き勝手に開陳する権利」ではないのである。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
個人的な経験で言うと、Twitterでクソリプ率が高い話題は「萌え絵」と「女性専用車両」なんですが、みなさんの経験ではどんな感じでしょう?
現実の女性は、誰かの好みに合わせてパーツを寄せ集めた肉塊ではないし、現時点では、本人の好みでパーツを簡単に取り換えることもできない。人間は肉体を離れて自由に生きることはできないので、たまたま持って生まれてしまった身体と様々な形で折り合いをつけながら生きているのに、勝手に記号としてパーツに切り分けられてエロい肉塊扱いされたり、そういう男性を批判していると「男に相手にされずに2次元に嫉妬している」などとわけのわからないことを言われるのでゲンナリします。もう男オタクは自分たちとVR少女だけの町でも作ってその中で暮らしててくれたらいいんですけどね。
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