日本語と「つぶやき」とコミュニケーションの不可能性
母語とは異なる視点で考えること
Mastodonを始めてみて(正確には再開して…なのだが、何年も放置していて旧アカウントのログイン情報を完全に忘却してしまったレベルなので)、Twitter特有の面白さとそれゆえの中毒性の高さがよく分かった気がする。そして、TwitterというSNSが(他の文化圏で以上に)日本語文化圏で流行ったのは、やはり日本語という言語と関係があるのではないか、という思いが確信に近くなってきた。
前回のニュースレターでは、日本語には「相手との関係性によって一人称の形が変わる」という特徴があること、それゆえに「社会の側から規定される」形で自己が形成されやすいのではないか、ということを書いたところだが、先日、大薗正彦『総合学習・異文化理解のドイツ語 改訂版』(朝日出版社)というドイツ語の教科書に載っている日独の言語比較をしたコラムを読んでいたら、「日本語は自己中心的な視点」で「ドイツ語は自己を対象化する視点」の言語であること、日本語コミュニケーションがモノローグ的である一方で、ドイツ語がダイアローグ(対話)を基本としていることなどが書かれていた。自分がふわっと感覚的に思っていたこと+気付いていなかった視点がきちんと言語化されていて感動したし、やはり外国語を学ぶことの大きな意義のひとつは「母語とは異なる視点を得ること」であって、言語を「単なるコミュニケーションツール」としてしか捉えない人が多いことはとても残念なことだと思った。
言語はそれぞれ独自の思考体系と結びついている。前回触れた「再帰代名詞」を例にとっても、ドイツ語には「思い出す」という動詞がないので、「自分自身に思い出させる」と再帰表現が必要になる。日本語が「思い出す」ことをある種「自然に起こること」のように表現するのに対して、ドイツ語ではもう少し能動的にというか使役っぽく「自分が自分に思い出させる」と表現する。このことは「思い出す」という行為ひとつとっても、日本語で思考する場合とドイツ語で思考する場合で実は同じではない可能性を示唆している、と私は考える。日本語文化圏で生まれ育ち、日本語を母語として、基本的には日本語で思考する私にとって、「思い出す」ことは必ずしも能動的なものではなく、何かをキッカケに勝手に思い出しちゃう場合も含むのだが、ドイツ語では後者の場合はそのキッカケを主語にして「○○が私に…を思い出させる」になるわけで、それって完全にイコールではないよね?と思う。その違いが面白いし、その違いは物事の捉え方の違いになるように思うのだ。
言語で異なる「視点」
日本語とドイツ語の視点の違いの話をもう少し詳しく紹介しておこう。著者の大薗はゲームを例えとして挙げて、プレイヤーが登場人物のひとりと視点を共有するタイプのゲームは日本語の視点に近く、プレイヤーが自分のアバターを見ながらプレイするタイプのゲームがドイツ語の視点に近い、と説明していた。
「彼は箱を開けました。すると、そこには素晴らしいものが入っていました。」という日本語は、第三者のことを描写しているのだが、2番目の文は最初の文で登場した「彼」の視点での語りになっている。日本語は他者の視点に没入して、視点を共有した表現をした方が自然に響くことがあるのだ。これを、そのまま文法的に正しいドイツ語にすることは可能だが、自然なドイツ語にしようとすると「彼は箱を開けました。そして、彼はそこに素晴らしいものを見つけました。」のような表現になる。ドイツ語ではどちらの文も行為の主体である「彼」が主語になり、私たちは「彼」と視点を共有することなく、彼のいる世界を外側から把握する形になる、というわけ。
この説明は非常に簡潔だと思った。ドイツ語は基本的に外側から世界を俯瞰するため、自分自身をも観察の対象とすることが可能なのだ。逆に、日本語は自分自身や誰かの視点から、つまり世界の中から世界を見渡すような形になるため、主観的になりやすく、自分自身を対象化しにくい(できないわけではないが、言語体系&それに支えられた言語圏の社会においては元々は想定されていないことかもしれない)。思想系・哲学系の文章が難解である、という話は夏頃から繰り返ししてきたが、それは元々は日本語の思考体系には含まれていなかった、世界を外から俯瞰する視点が持ち込まれているからなのかもしれない。
これに関連して思うのは、日本社会における「共感できる/共感できない」の重視だ。私などもしばしば「日本人は議論が苦手である」「日本人は言動への批判を人格への批判と勘違いしたり、言動への批判が人格への批判にすり替わったりしやすい」と言ってきた人間なのだが、これは日本語が過度に「視点の共有」をしてしまう言語だから、とも言えるのかもしれない。
ドイツの友人とは、まぁ、あれこれの問題を巡って意見が対立したり、こちらの言動を批判されたりしたことが何度もあるのだが、散々「お前はわかってない!間違っている!」みたいに言われまくった直後に「じゃ、ケーキ食べに行こう〜💓」と誘われて、最初はちょっと狼狽してしまう自分がいた。つまり、私も自分の言動・見解への批判と私自身への批判を切り分けられていなかったのである。
共有される視点と曖昧になる自他境界線
Twitterでも頻繁に見てきたし、経験もしてきたが、たった一度何かで意見が異なっただけで「敵認定」して、それ以降は二度とリツイートしない!とか、一度言動を批判されたことを根に持って別の機会に仕返しをしようとしたり…という人は少なくない。確かに、批判されることは堪える。その相手を嫌いになってしまうことがあるのは仕方がない。それにしても、あまりにもそういったものが多すぎるし、自分の気に入らない意見を述べる女性は「共感できないフェミニスト」などとカテゴライズして憚らない男性までいる。別に「共感できな」くてもそれはそれで構わないと思うのだが、「共感できない=間違っている」と思いたがる人が多そうなのが問題である。共感ベースで社会正義について語り始めたら、マジョリティにとってメリットのないマイノリティの権利回復など完全に不可能である。統治する側(マジョリティ側)からすれば、被差別者が存在する方が統治しやすいのだから(『ジェンダーからみた世界史』という本を夏に読んだが、だいたいの社会では統治機構が複雑化するに連れて女性差別が制度化されていくという傾向があるそうだ)。
映画や漫画、小説などについても「感情移入できる」「共感できる」かどうかを知りたがるひとは多いように思う。しかし、共感できるかどうかとその作品が素晴らしいかどうかは全く関係がない。感情移入できる作品の良さもあれば、全く感情移入できない作品の良さもあるのだ。たとえば私はエミリー・ブロンテの『嵐が丘』が大好きなのだが、登場人物の誰一人として共感も感情移入もできない。しかし、それがあの小説の魅力を削いでしまうことはないし、むしろそれこそがあの作品を読む楽しみでもある。
自分の好きなものや自分の国に対する否定的な評価にムキになってしまう、自分の好きなものや国家という存在と自分の境界が曖昧になってしまう人が比較的多いのも、この日本語の視点ともしかすると関係があるかもしれない。日本語による思考は、世界を外側から俯瞰していない分、自他の境界線が曖昧になりやすい。「日本人」とか「オタク」といったカテゴリーと己の境界線が消えてしまうからこそ、自分が関係しているコミュニティーや好むカテゴリーを批判されると自分自身が批判されたような気持ちになってしまいやすいという傾向はあるように思う。
共同体や仲間としての意識というものは、常に必ずしも悪いものではないが、それが「自分たち」と「他者」の選別なしには存在し得ないこと、その意識にこだわり過ぎて「耳を傾けるべき言葉をかけられること」を「叩かれた」としか認識できなくなってしまう危険性には自覚的であるべきだ。そして、物事はいつだって白黒のどちらかではなく、グレーなことも多い。どちらにつくのか旗色を鮮明にしろ!と他者に迫ることも、また、自分の視野を狭めてしまうことになりかねないのだと意識していたい。
などと言っている私自身がかなり他者に簡単に「共感」してしまうタイプなので、他人の意見に流されてしまうところがある。相手に共感したり、相手の感情の動きに強く心を寄せながらも異なる意見を持つことは可能ではあるが、そう簡単ではない。「確かに相手の言うことにも一理あるかも」などと割と簡単に翻意させられがちだし、そうやって感情に流されずに自分の意見を持ち続けることは時には大変でもある。しかし、やっぱり譲れない線はあるので、気持ちに流された意見は、後で落ち着いて考えてみると最終的には自分の思想や心情と相反するものであるという結論に達する。その一方で、どうしても相手に同調できないにしても、その気持ちや思考回路は理解したいとは強く思う。ただ、それは相手ときちんとコミュニケーションをできる環境でないと難しい。
Twitterのように、ひとつのツイートが単体で切り取られて文脈を離れて行ってしまうSNSで、引用ツイートのような形でも自分の意見を拡散できてしまうと、たぶん、そういった人間同士の個別具体的な関係性というものはなくなってしまう。対面でコミュニケーションしているなら、たとえ意見が真っ向から対立してもとらないであろう態度が取れてしまう。そして、あのSNSではそのようなツイートの方がバズるのだ。
しかし、それはTwitter民がみんな共感能力に欠けているからではない。むしろ、共感しているからこそリツイートするのだけれど、それは個々のツイートが「具体的な一個人とのプライベートなやりとり」ではないからこそ、共感しやすいという構造があると思う。たとえば、私がAさんと二人でお互いをきちんと認識した上でやりとりしている場合、それは「個人の会話」なのであまり拡散するのもどうか、と躊躇が生まれることもあると思う。逆に、そのような会話で意見が対立してる際に「自分が共感する方の意見だけをひたすらリツイートする」ということをする人もいるが、たいていのひとは「他人同士の会話」を拡散するよりは、「他人の呟き」を拡散する方がハードルが低いと感じるだろう。私自身もあくまで自分の見解としてツイートする方が相手に会話の労力を要求しなくて済むから気楽に引用してしまうところはあるし、「晒し」目的で引用することもあるので、すっかりTwitterのマナーに馴染んでしまったなと反省してしまう。
また、ドイツ語がダイアローグを基本としている一方で日本語がモノローグ的である、という話についても少し触れておく。まず、ドイツ語は基本的に主語が省略されない言語である。仮に主語を省略しても動詞が主語に応じた語尾変化(人称変化)をするので、潜在的にであっても主語がなければ文を作ることが出来ない。そんな言語で独り言を言う時、私たちは自分自身に「お前は…」と語りかける形になることがある。自分の中で「私」と「お前」が分裂して会話するような形というか…。日本語で思考している場合、こうしたことは起こりにくいように思う。それは視点が自分と共にあることで、「私」は「視界に入らない=対象化されない」ままで意識されないからであり、日本語が他者との関係性によって一人称が変わる(「私は」「僕は」「俺は」)言語なため、他者がいない場面で自分自身を規定する必要がない仕組みを持っているからではないか。
そして、このモノローグ的な日本語という言語に「つぶやき」は非常にフィットしているのである。実のところtweetは呟きというより「さえずり」であって、日本語の「つぶやき」よりは他者に聞かせることを含意しているのだが、これが「つぶやき」と訳されたことも手伝って、Twitterは流行ったのだろうという気がする。「これは私の勝手な独り言(つぶやき)であって、あなたがそれを見るのも見ないのも自由ですよ」というものとして理解された、と思う。Twitter上で「公共空間にエロを開陳すること」を批判するツイートをすると、かなりの勢いで「見たくなければ見なければいいだけ」というクソリプが飛んでくることからも、日本語文化圏の人びとは、ゾーニングされていない空間における広告でさえも「見たくないなら見るな」などと言って「論破」(笑)したつもりになってしまうのだから、ブロックもミュートもできるTwitterなど、余計に「自己責任」という話にされてしまうわけだ。そして、Twitter社の運営側もそのような方針であったように見える(その割に「ジジイ」は凍結対象だが「ババア」は全く問題にならなかったりするんだけどね)。
Mastodonに移住して「ここはコミュニケーションを重視しているSNSだ」といったことを述べているアカウントが割と多い印象を受けているし、私が現時点でフォローや講読をしているアカウントはみんな割と他のひとと会話をしているように思える。Twitterでも、もちろん会話が盛り上がることはあるが、Mastodonの方が長文投稿ができることもあって、お互いの投稿をしっかり読んだ上で意見交換をする雰囲気があるし、Twitterの場合より「投稿をしっかり読みたいアカウント」をフォローするという意識が働きやすいのか、フォロー数などもTwitterほどは多くしないひとも多い印象である。他にもいろいろ違いがあるし、新しいSNSでまた一からスタートするのは少々面倒くさくもあるためか、思ったほどは移住してこないひとも多い。私もまだMastodonの使い方に慣れていないし、今後どうやって使っていくのか、まだ方針が固まっていないのだが、自分もなんだかんだでモノローグが好きなのだと思う。
なお、Twitterが日本語話者にフィットした理由は、日本語が「モノローグ的」な言語であるということ以外にも、140字という制限がある中では、日本語が部分的に表意文字を用いる言語であることや略語が多いし作られやすい言語であることも有利に働いたからだろうとは思う。要するに、日本語という言語は様々な意味でTwitterの仕様と相性がとても良かったのである。
ディスコミュニケーションを越えて
最後に「コミュニケーションの不可能性」という畳めるのかわからない大風呂敷を広げてみたい。私たちは、当たり前のようにコミュニケーションは可能だと思っているし、実際に、このニュースレターも一種のコミュニケーションとして、受け手である読者のみなさんに向けて書かれている。しかし、同時に、私は常に疑ってもいる。私の言葉は、私の意図したのとは別の意味で受け取られていくのではないか、ということを。というのも、人間は自分以外の人間の脳内を把握することはできないからだ。同じ言語を用いてはいても、同じ単語を同じ意味で理解できているかどうか、同じ意味として認識しているのかどうか、は究極のところわからないのである。ましてや、別の言語を介した場合、それがどの程度自分に理解できているのかはなかなか怪しいものがある。それだけではない。元々日本語には無かった語彙の数々(定訳があるものもカタカナ語のままで定着したものも含めて)については、それを新しい日本語として本当に理解できているのか、だいぶ怪しい気がする。
前回のニュースレターでは「アイデンティティ」という語について、私自身にはよく分からない部分があると述べたが、「アイデンティティはアイデンティティであって自明のことだ」と感じているひともいるだろうと思う。そう感じるひとにとってのアイデンティティを、たぶん、私は理解できていない。しかし、単語としては他にないので、私たちはこの単語を使って会話を試みる。しかし、理解できているか怪しい単語を使っている時、コミュニケーションは本当に可能なのだろうか?カタカナ語である分、「理解できているか怪しい」と自分で気付きやすい外来語だけではなく、もっと長いこと日本語として馴染んでいる漢字熟語などについても、実は各自で微妙に理解がズレていることもあるのではないか。そんなことを考え始めてしまうと、やっぱり、そもそも他者と意思疎通することは可能なのか?みたいな疑問が湧いてくるわけである。
人間の対面のコミュニケーションにおいて、言語が占めている役割は6%程度で、イントネーションや表情や発話のリズムなどによってメッセージを伝えている、という話を聞いたことがある。6%?!とその時は思ったのだが、考えてみると「そうかもな」と納得もできる。音声があれば誤解されなかったことでも、文字だけだったために誤解された経験はあるし、表情があれば違ったかもしれないけれど電話でだったことで誤解されたらしい経験もある。基本的に人見知りで対面でのコミュニケーションも別に得意ではないので、「誤解された」という私の認識の方が間違っていて、単に相手を不快にさせたり礼を失してしまっただけの可能性もゼロではないが、それでも、対面のコミュニケーションであれば、そこまで拗れなかっただろうという経験はそれなりにある。
書くことが好きで、電話は苦手な私にとって、文字でのコミュニケーションが手軽に(ほぼ無料で)できるインターネットはとてもありがたい存在だ。しかし、Twitterも十年ほどやってきて、改めて「文字情報だけで伝えることの難しさ」も感じる。そう言いながらも、ニュースレターを書き続ける理由は、140字のツイートを拾い読みするのとは別の労力を必要とされてでも、能動的に「読む」ことをしてくれる相手にであれば、文字だけでも伝えられることもまだあるだろうと信じているからだと思う。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
11月半ばくらいまではコロナ後遺症も順調に快方に向かっているようで気持ちも晴れ晴れとしていたのですが、12月が近づくにつれて、気圧のせいなのか、寒さのせいなのか、はたまた調子がよくなってきたことで食生活などが適当になったせいなのか、後遺症が再度悪化してしまいました。夏は主に胃腸の不調として現れていた上咽頭炎の症状は、いまは頭痛やリンパの腫れなどメインですが、久々に猛烈な怠さを感じたりもしています。治療に通っている医院の医者によると、12月前後から低気圧のせいで上咽頭炎が悪化するひとは増えているそうです。コロナに罹る前までは、気圧の影響はほとんど受けないタイプの人間だったというのに…。罹患したときの症状が軽くても、コロナ前とは別に体質になってしまうのであれば、やはり感染しないに越したことはないと思います。数ヶ月もすれば「治った」と言える時が来るかと思っていましたが、いまは「これは一生治らないのかもな」という覚悟が必要な気がしてきています。
仕事もそれなりに忙しい時期になっているのですが、体調が悪いと頭痛や目の痛みもあって、なかなかPCに向かうことができず、今後も「月2回」のペースにはなかなか戻せないかもしれませんが、細々と続けていきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。
ホルガ村カエル通信は、フェミニズム周辺の話題を中心に月2回ほど配信している個人ニュースレターです。配信後はweb上でも公開しているので、講読の登録をしなくても読むことができますが、無料講読の登録をしていただくと、あなたのメールボックスに「購読者限定パラグラフつき」のニュースレターが届きます。よろしければメアドを入力してポチっと登録をお願いします。
では、また次回の配信でお会いしましょう〜!
匿名でのご意見・ご感想などはマシュマロへどうぞ。
マシュマロへのリンクです
すでに登録済みの方は こちら