透明化される被害者と見過ごされる加害性
「女の人生はイージーモード」
「幸せそうな女を見ると殺したい」男が小田急線の車内で刃物を振り回した事件、一報が目に入った瞬間「ああ、また起こってしまった」と思った。《無差別》と表現されるものの、実は主として女性をターゲットとする殺人未遂事件が。今回の事件では、殴られるなどの被害も含めて男女10名が被害に遭っていることを受けて「女性だけを狙っていない」と主張するひともいるようだが、動機の部分が「万引きを注意してきた女性店員を殺そうと思ったが、閉店後だったので諦めて、帰路の車内で勝ち組っぽい女(とその周囲のできるだけ多くのひと)を殺そうとした」なので、男性はいわば「巻き添え」であり、彼の最大のターゲットは女性であったと言ってよいと思う(その後出てきた報道で「最初の女性を刺したあとのことはよく覚えていない」と供述していると読んだ)。
ベランダの植木鉢の雑草を引っこ抜いていて、うっかり雑草ではない草もむしってしまったとして、それは「無差別に引っこ抜いた」ことにはならない。あくまで草むしりのターゲットは雑草である。それと同じで、"実際に被害に遭ったひと全員の属性"で《無差別》と言ってしまうことは、この事件が浮き彫りにする日本社会に蔓延する「女性蔑視」に目を向けることを阻害してしまう。"犯行のターゲットにされた属性"は「幸せそうな女性」なのだから。
では、ここで「幸せそうな」と言われている「女」とは何者なのか?と言えば、そこらへんにいる「女」である。パッと見た目が小綺麗な、化粧をしてきちんと洗濯された服を着ている女。中でも「若い女」は「若いというだけでチヤホヤされているに違いない」と見なされる。しかし、もし、「若い女」が化粧をせずにヨレヨレの服を着ていたら、それはそれで世間様は許さないので、「若い女」は勝ち組などではなくとも、化粧をし洗濯をした服を小綺麗に着て外出をする。それはマナーとされており、当人が幸せであるかないかとは何も関係がない。そして、おそらく「幸せそうな女」に憎悪を燃やす男性にとっても、そんなことはどうでもいいのだ。
彼らは「女の人生はイージー」だと信じているので、「若い女は大した努力をしなくともチヤホヤされているのだから、イージー中のイージーに決まっている」と思い込んでいる。だから、女性が疲れた顔をしたり悲しそうな顔をしていても「イージーモードのくせに被害者ぶりやがって」と殺意を滾らせるし、楽しそうな顔をしていたらしていたで「俺のことを馬鹿にして笑っているに違いない」などとトンデモ解釈をしかねない。化粧をしていない女性に対しては「俺のことを異性と見なしていない=馬鹿にしている」という謎の怒りを向ける。かといって、若くない女性なら問題ないかというとそうではない。小綺麗にしている中高年女性は「BBAのくせに気取りやがって」「きっと旦那の稼ぎにたかっている専業主婦に決まっている」と思い込み、身だしなみが雑な女性のことは「見た目の悪い閉経BBAには生きている価値がない」と判断する。女性に対して憎悪を抱いている男にとっては、女性がどんな様子であろうと関係ないのだ。その男にとって、女性は女性であるだけで気に入らない存在でしかなく、その男が殺意と凶器を持っていたら逃げ切れるかどうかは運だけだ。
冷静で論理的な男たちの知らない現実
ある人間が犯罪者になってしまう過程において、そのひとの生い立ちや置かれた社会環境は確かに無視できないだろう。しかし、日本の報道は「犯罪者」にフォーカスしすぎている面もある。詳しくは「犯罪機会論」でググってほしいのだが、まずは、犯行を実行しにくい環境を作っていくというのも大事なことだと思う。同じように怒りや鬱憤を抱えていても、それを犯行に結びつけやすい環境とそうでない環境がある。今回のケースでも「閉店していた」という環境が当初の目的を阻んだ。これが、閉店後もひとが自由に出入りできるような場所だったらどうだったろうか。
実際に犯行が行なわれた電車に防犯カメラが設置されていたらどうだったろうか。それでも犯行に及ぶ人間は間違いなくいるだろうが、場合によってはカメラ1つで防げたかもしれない。家から牛刀を持って出て電車に乗って店に戻っていく間に冷静に戻ることもなく、おそらくむしろ怒りを増幅させていたであろう彼がカメラ1つで諦めたかどうか、確かめる術はない。しかし、今後起こり得る様々な加害行為を防ぐ可能性はあるのではないか、と思う。
私は左翼なので、監視社会には反対してきたし、今でも警戒心を持ち続けているが、それでももうそこら中に監視カメラをつけてくれと思うことがあるほどに、女性に対する理不尽な憎悪に基づく男性の暴力への不安がある。刃物を振り回すような暴力は滅多にないが、男性による女性に対する嫌がらせや威嚇のような行動は日常茶飯事である。しかし、そういう攻撃に出る男性は、男性の前では腰が低く無礼を働かないことも多いため、男性は体感的にその恐怖を知る機会もない。知る機会もなければ知る必要性さえも感じないので、女性の話を大袈裟だと決めつけ、なんなら「女性の方が非常識な行動を取った結果ではないか(邪魔なところで立ち止まったからぶつかられただけ、など)と決めつける男性もいる。監視カメラだけで防げるとも思わないが、まずはこうした「小さな加害行為」の現場が記録される必要がある。そして、社会がこれを「女性を狙った攻撃」であると認識するようにならなければ、おそらく解決しない。
「頭のおかしいヤツが起こした異常な事件であって女性差別と関係ない」という意見も「女が調子に乗ってきたからだ、ざまぁみろ」という意見も見た。どちらも男性だった。「非モテのツラさは命に関わるんだ!」と涙ながらの熱弁調の意見もみたが、犯人がナンパ師だったらしいという情報が出た途端「女がすぐに股を開くようなヤリチン男の方が女を憎んでいるんだ(それと比べて俺たち非モテオタクは優しいのに)」みたいな意見も出てきた。
「彼は出会い系を使ってまで女性と仲良くなりたかったのだから女性嫌悪なんてないと思います」と言いながら次のツイートで「女性に冷たくされたせいだと言ってますよ」と聞いてきた立憲民主党支持者、お前はまず落ち着いて、自分の見解をまとめろ。
男性の考える「モテ」は女性蔑視の上にしか成り立たない
ちょうど姫野カオルコの『彼女は頭が悪いから』を読んだばかりだったのだが、この小説のメインキャラの一人である「つーくん」は、「"彼女"なんてマメに連絡したりしなきゃいけなくて面倒くさい」と考えている男子だ。絶えず女性から好意をちらつかせる手紙やメールをもらっていて、それぞれの女の子の名前もろくに覚えようとしないようなヤツだが、ちょっと優しげな言葉をかけたりして籠絡するのは上手で、数はこなしてる。物語の背景でしかない、小説では名指されることもない「東大だってだけで下心を出す女」をつーくんや仲間は心底軽蔑しており、写真や動画で稼ぐ道具かセックスの道具だと思っているのだが、そのことに彼ら自身はおそらく自覚的ではない。「向こうもその気だった」から、同意の上で脱いでもらった(写真や動画を売ってるのは内緒だが)としか思っていないし、自分たちが女性を馬鹿にしている意識はあまりない。なぜなら、「普通のことだから」。だから、彼らは驚くほど無邪気に「強制わいせつ」事件を起こす。そして、「わいせつ」な意図などないのに、なぜ自分が逮捕されるのか?と理解に苦しむ。
この小説の嫌なところは、強制わいせつ事件の犯人たち側のこうした女性蔑視だけでなく、被害者側になる女性たちにも「男に性的な対象として評価されてこそ」という価値観がどうしようもなく浸透してしまっていることや日本社会において「東大」という記号の持つ意味を、彼らの親や周囲の大人たちの反応なども含めて見事に描いていることだと思う。
だから、この小説を読んでも、女が憎いひとたちは「やっぱり女は"東大"になら股を開くんだから女が悪い」としか思わないかもしれない。しかし、つーくんの兄のようなエリートコースに乗り切れずにドロップアウトする人も同時に描かれている。そして、つーくんの兄の選択を最後まで理解できない父親も。誰か一人を悪者にすれば解決するわけではないからこそ、社会の空気というものは厄介なのだ。まずはどこから手をつけていいのか途方に暮れるが、やはり現状を認識することから始めるしかない。
犯行の動機というのは、実は犯人にさえ明確ではないこともあるだろうと思う。直接的な動機として語られるものは、実行に移す最後の後押しのようなもので、その手前に多くの小さな動機が積み上がっているのではないか、と。本人が語ることが必ずしもすべてではないし、状況から素人考えで勝手なことを言い過ぎるのも良くないとも思う。
それでも、女性はたいていある程度知っていると思う。わざわざ進路を変えてまで自分にぶつかりにくる男性がいることを。女性にだけ大声で文句を言う男性客がいることを。女性のことを無知で馬鹿だと決めつけてくる男性が少なくないことを。女性が自分が期待したほど無知でも馬鹿でもなかった場合に逆上する男性がいることを。
そういうことの積み重ねが「男性の万引きを注意したら殺そうと思われるかもしれない」ことを容易に想像させるし、電車に座っているだけで「幸せそうな女だから殺そうと男性から思われるかもしれない」不安を抱かせる。
存在しないことにされる女性差別
データがないために「存在しないことになっている」女性差別はたくさんある。そのことを明らかにしてくれるのが、キャロライン・クリアド=ペレス『存在しない女たち』である。女性たちが感じている不便や理不尽が、単なる気のせいではないことがデータとともに示されている本なので、女性差別などないと思っている男性にこそ読んでほしい一冊だ。
この本を読むように言われて、「日本の社会問題の話をしているのに外国の本を読んでどうするんだw」と言っている男性を見たことがあるのだが、クリアド=ペレスは英国のジャーナリストではあるものの、この本で扱われているデータは英国のものに限らない。男女平等の浸透度で言えば「先進国」と見なされている北欧のデータも、日本のデータも、ブラジルのデータも…様々なケースが紹介されており、それらすべてに共通していることとは、「成人男性(とくに白人の)を基準に作られた」制度設計が、それ以外の属性のひとにとっては制度として問題が多いということ。それは場合によっては命に関わるものもあるということ、だ。なんなら福祉先進国とされている国でも、「女性に特化したデータ」がないことによって女性が不利益を被り、それが社会全体のマイナスになっていることが示される、最初の「雪かき」のエピソードを読んで、それでも「女性に特化したデータ」を取ることの意味がないと思うのなら、その理由を説明してほしいと思う。
「女性差別はある」という、ただそれだけのことを絶対に認めたがらない男性は少なくない。左翼の男性にもとても多い。しかも、彼らは自分たちが先進的であると信じているがゆえに自分の女性差別と向き合うのがとても苦手だ。多少の自覚があるひとでさえ、「左翼の男性は、そうは言っても比較的マシなんだから、せっかく理解のある男性たちをわざわざ敵に回さない方が良い」と、女性差別に怒る女性に説教をしてくる。
非正規雇用の問題にしても、かつては女性が補助的に行なう賃労働と見なしていたから、問題にさえならなかったものが、男性に関わるようになると「社会の問題」として扱われるようになる。女性差別を放置していると、結局、その不利益は男性にも及ぶということをよく表していると思うのだが、今でも非正規雇用の問題が語られるとき、それは主に「男性にとっての問題」として語られる。「格差社会」にしてもそうだ。この社会には、常に歴然とした「男女格差」があったのに、それは問題だと思われてこなかった。
なぜ問題だと思われてこなかったのか。女性は「いざとなれば」結婚すればいいから(夜職をやればいいから)、と言う人がいるが、「いざとなり」たくないんですよ、そもそも。なぜ、女性だけが「いざとなれば」と言われるのか?
それは女性差別があるからだよ。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
13日の金曜日配信だし、ホラー映画の話でもするか?とか言ってみたものの、ぶっちゃけ現実の方がホラーですね。今の日本はブラックコメディみたいに頭の悪い政府がのらりくらりと対策を先延ばしにしている世界的パンデミックの最中に、首都で世界中の選手集めてオリンピックやってしまうという愚行をやらかして医療崩壊。こんなの、フィクションだったら、「さすがにそこまで馬鹿な国あるわけないでしょう、脚本家やりすぎ」って言われると思いますが…現実に2021年の地球上に存在してます!というかんじで。
「コロナが落ち着いたら…」と言い続けて1年半、世界的にも女性への暴力が増加しているということで、キラキラ✨しない地を這うフェミニズムがもっと必要なんだろうと思っています。
では、また次回の配信で。
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