すね毛を3ヶ月伸ばしてみて思うことなど

高市政権発足から1年が経ち、相変わらず世界はそっちこっちで戦争だし、ネットは情報漏洩だらけだし、物価は着々と上がっているのに給与は上がらないままで、毎日なんだか生きているだけで大変なので、今回は比較的気楽に読める内容でお届け。すね毛育成記録、ドラマの感想、本の感想の3本立てです。
珈音 2026.10.31
誰でも

加速するすね毛処理の低年齢化

 先日、旧Twitter上で、幼稚園児の娘さんに除毛剤を買ってあげたという話をしている方を見かけた。園のお友達にすでに除毛剤を使っている子がいるらしく、自分もつるつるすべすべになりたいとお願いされたらしいのだ。ついに未就学児にまで「美肌」信仰が広まっているということが分かるエピソードだ。もうコロナ前だったと思うのだが、小学生を対象にした脱毛をメニューに載せているエステの写真を見たことがあり、「小学生に脱毛かぁ〜」と思ったものだが、「脱毛・除毛という女性の身だしなみ」の低年齢化はその後も進んだらしい。私自身が体毛が濃い方だから、めちゃくちゃわかる!と思う部分もあるし、一方で「いや、そもそもつるつるが当たり前という方がおかしいだろ?」という気持ちもある。自分が「ムダ毛」を気にしてきたからこそ、そんなに体毛が濃くない子はそのままでいいじゃんか、と思うのだ。
 「本人がつるつるになりたいのだから」と言われてしまうと、それはそうかなとも思うのだが、つるつるにしているのが当たり前の身だしなみという事になってしまうと、「つるつるにしていない女性」の方が「ズボラ」とか「女を捨ててる」とか言われるのが怠い。「つるつるにしている女性」ではなく、「つるつるにしていない女性」が有徴化され、理由を問われ、評価を下げられることになる。
 この夏は「男もすね毛を剃れ」みたいな話もちょっと盛り上がっていたが、男がすね毛を剃ったところで別に何もいいことはないので、個人的には割とどうでも良い。むしろ、「男の伸び放題のすね毛が気持ち悪い」といった意見を聞いて、世の人たちは意外に他人のすね毛を見てるらしきことを知ったし、そのことによって「私のすね毛も"女のくせにあんなに伸びてる"とか思われるんだろうな」と意識しなければならなくなったことが鬱陶しいという気持ちの方が強い。

 実は、私は8月からすね毛を育てている。要するに剃らずに伸ばしているということなのだが、10月末現在2,5cmほどに成長しており、自分でも「ここまで伸びる?女のすね毛が?」とびっくりしている。というのも、3ヶ月もすね毛を剃らずに過ごしたのは成人してからは初めてな上に、子どもの頃と毛質が変わっているからだ。
 すでに書いた通り、私は元々体毛が薄い方ではなく、自分の姉や母と比べても体毛が濃いのが嫌だった。小学校高学年くらいの頃、脱色剤というものがあることを知り、使っていたことがある。その頃は1cm程度のすね毛が多かったので脱色して金髪にしてしまうとほとんど目立たなくなった。太陽光に照らされるとキラキラしてちょっと綺麗だなーとさえ思うくらいに。

 ところが、今回、すね毛を伸ばし始めてみて、どうも一本一本が太くなっているらしきことに気づいた。毛穴の数は減っているのだが、「その分、各毛に養分をいっぱい回せます!」と言わんばかりに、なかなかしっかりした毛が伸び始めた。それでも少し我慢して1cmくらいに育ったところで一度脱色をした。ところが、剛毛すぎて肌の上に乗せた脱色剤に毛が埋まってくれない。バリカンで刈った髪の毛がジョリジョリするのを思い浮かべてもらうといいと思うのだが、そんな感じにすね毛が起立しようとしてしまうのだ。
 仕方がないので厚塗りをしてなんとかすね毛を寝かせて待つことおそらく30分以上(使用方法のところで15分以上置くなと書いてあるし、脱色剤の刺激で肌がちょっと赤くなったのでおすすめはしません)、脱色剤を流して確認すると、茶色くはなっているが金には程遠い。仕方がないので、翌日(連日使うなと箱に書いてあるが、それは無視)再度挑戦して多少は金髪になったが、子どもの頃の記憶にあるキラキラには遠く及ばない結果だった。それでも、まぁ、目立たなくはなったのでひとまずは満足してそのまま伸ばして、限界まで伸びたらもう一度脱色することにして、1,5cmほどになったところで予定通りに脱色をかけた。やっぱり剛毛すぎて(以下略)ではあったものの、それなりに納得しておくことにできる程度にはなった。これでこの秋(9月〜10月)はいけるだろう、と。

 しかし、私の見立ては甘かった。その後もすね毛はぐんぐんと伸び続けたのである。もうこうなったら、どこまで伸びるのか見届けるしかない、と私は腹を括った。毛量は少ないので毛抜きで引っこ抜いてしまいたい衝動に駆られることもあったし、この剛毛に対しては脱色よりも脱毛(or剃毛)の方がコスパもタイパもいいことは間違いなかったし、なんだかんだで剛毛を晒して歩けるほどには吹っ切れていないので、常にマキシ丈のスカートかパンツスタイルで外出する生活が続いた。そして、ようやく寒くなってタイツを履いても暑くない気温に突入した!私の勝ちである。なんの勝負なのかわからないが、とにかく「ここですね毛を剃ったら負けだ」という気持ちで頑張った夏〜秋であった。

 例年、冬場にはすね毛を剃らないで放置していたのだが、タイツなどで擦れるせいか、ここまで立派に伸びたことはなかったので、今回のこの「夏毛」は見るたびに「すごいな」と感心する成長っぷりである。そして、静電気なのかなんなのか2,5cmがハリネズミのように起立したがる。これを剃らずにいられる女性はあまりいないだろうな、と改めて思う。ついでに腕や膝上の体毛も放置しているのだが、こちらは1cmちょっとくらいで細いので脱色が効きそうだ。まだ脱色していないのでフッサフサなのがちょっと目立つのが気にはなっているが、少し前に見た日本在住外国人座談会のような動画で、フランス人女性が「(体毛が生えるのは)人間ですからね」と当たり前のことを当たり前にあっさり言っていたのを思い出して、「そうそう、人間ですからね」と思うようにしている(でも、白人は体毛も黒じゃない人が多いから目立たないんだよな…)。韓国の脱コル実践者の女性たちが剃っていない体毛の写真をupしたりしていたけど、やっぱりこれってアジア人だからこそなんじゃないかなぁと思うし、私レベルの剛毛の女性はあまり見たことないので、「人間ですから」と思いつつも人前に晒すのは憚られる。

 なお、私がこんな長期に渡って「すね毛チャレンジ」をできたのは、非常勤の語学教員という仕事で職場の夏休みが長いから、というのは大きい。夏休み期間は特に出かける用がなければ電車にも乗らないし、人に会うこともない。近所の買い物程度であれば「それ、パジャマでは?」みたいな格好でうろついている人もいる下町なので、すね毛くらいどうってことはない。
 しかし、職場で「私は教員です」というそれらしい顔をする際にすね毛がボーボーしているのを見られることには抵抗がある。だからこそ、夏休みを利用して伸ばして、授業開始直前に脱色をしようと考えていたのだ。実際には、すでに書いたように伸びるのに手間取った上に脱色に失敗しているので、脛を隠す方向でなんとか乗り切ったわけだ。

 たかがすね毛、そう思ってはいても、結構振り回されている自分がいる。これが幼稚園の頃から始まるとなると大変だなと、今の子どもたちが気の毒になる。すね毛処理は一度始めたらなかなか止めるタイミングがない。美容業界からすると、子どもの頃から「顧客」にしてしまえば都合がいいだろう。除毛クリームに始まって、ある程度の年齢で永久脱毛に通い、そこで脛以外の部位の「ムダ毛」も気にさせればさらに儲かる。「体毛の処理くらいなら当たり前」になってしまえば、ちょっとした整形や痩身手術への抵抗も弱まるだろう。そうやって、女性たちは子どもの頃から「美容依存症」のようにされていくんではないだろうか。
 しかし、そう分かってはいても、自分が、冒頭で書いた母親の立場だったら、娘の願いを退けて「除毛なんてしなくていい」とは言えないような気もする。頭では「この年齢でそんなことを気にするように仕向ける世の中でいいわけがない」と思っていたとしても、すね毛のせいで娘が虐められたり、馬鹿にされて傷ついたりしたら?と考えたら、除毛剤を買い与えるかもなと思う。

 ちなみに、除毛剤は留学していた時に現地で買って使ってみたことがあるのだが、どうせ肌に良いものではない上にちくちくするなら、除毛より脱色の方が長持ちしていいと個人的には思う。すべすべがいいってなると除毛なんだろうけど、幼い子のつるつるの肌ってなんかとってもロリペド需要が高そうで、防犯上も良くない気がしてしまう(念のために言っておくが、「そんなつるつるにしているから被害に遭うんだ」とか言いたいわけではなく、喜ぶロリペド野郎がいそうだと思うだけでそいつらが気持ち悪いなって話です)。やっぱりみんなでフサフサ伸ばす方が平和なんじゃないかな?とゴアゴアのすね毛を撫でながら思うのであった。

強制と自由意志の狭間のグレーゾーン(『侍女の物語』と代理母出産)

 さて、今回もちょっとおすすめのコンテンツの話もしておきたい。ずっとHuluでしか配信されていなかったドラマ、『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』(2017〜2025)がアマプラに入っていることに気が付いたので見始めたところなのだ。まだ、シーズン3までしか見ていないのだが(シーズン6まである)、原作とは大きく変わっているところや原作にはなかったシーンもたくさんあって、先が読めないのでドキドキしながら見ている。
 マーガレット・アトウッドの同名の小説が書かれたのは1985年だが、現在の社会はそこで描かれたディストピアをなぞるかのようにも見えるということで、再び注目を集めるようになっている作品だ。ドラマ版はそういった世相を映し出す鏡の役割も持っているので、原作の「オブフレッド一人の視点に閉じ込められた語り」とは別の形で進んでいく。
 個人的な趣味の話をしてしまうと、私は原作の方が物語としては良くできていると感じるのだが、「今のアメリカ」の視点で描き直すドラマ版にも大きな意味があると思う。ただ、少し暴力描写というか身体毀損の描写が長いところは苦手だ。あえてやっていることはわかるのだが、性的描写もややしつこい感じがある。直接的に描かなければ伝わらないことも確かにあるし、私の「苦手だ」という感覚も制作者側の狙った効果かもなぁとは思うのだけれど。

 このドラマを見たり、小説を読んだりすれば、大抵の人は「なんてひどい!」と思うと同時に「女性が置かれている(置かれてきた)状況」が描かれていることが理解できるはずだ。フェミニズム界隈での評価が高い理由もそれだろう。ところが、なぜか現実世界では「代理母出産で子どもを得た人たち」は"古い"家族観に縛られない先進的な人たちとして祝福されている。実際に自分で産んだわけでもないのに、ベッドに横たわって代理母に産ませた子どもを腕に抱く写真を投稿するセレブたちと、自分が産むわけではないのにベッドに横たわって侍女の陣痛に合わせて息んだり叫んだりするギレアデの「司令官の妻」との間にどれほどの違いがあるだろうか。後者は映像で見ると恐ろしいと同時に滑稽でさえあるのに、前者は心温まる素晴らしいものであるかのように讃えられる。

 現実の代理母は「自由意志」だから、強制的に「侍女」にされてレイプされた上で身籠るのとは違う、と言われるのだろうが、ギレアデ国内で「侍女」にインタビューすることができたとして、彼女は本当のことを言えるだろうか?と考えるべきだろう。社会的状況であったり、経済的状況であったり、精神的な状況であったり、それらが複雑に絡み合った上で、「自分の意思でやりました」と言わざるを得ない、それを選ばざるを得ないことを想像しないのであれば、一体何のためにフィクションを見たり読んだりしているのだろうか。原作者のアトウッドは「歴史上にも現状にも起きたことのない事柄は一度も書いたことがない」と語っている。そのアトウッドも関わっているドラマ版で、侍女がメキシコから来た通商団から聞き取り調査を受ける場面がある。そこでの彼女の言葉が表していることは明確であるように見える。

 また、ギレアデになる前のアメリカで代理母を引き受ける友達という原作にない描写も出てくるが、その「自由意志」はどのくらい「自由意志」と呼ぶべきものなのか、線引きは難しいように思う。ドラマは「自由意志」の代理母出産を完全に否定的に描いているわけではない。ギレアデの強制的代理母出産(侍女という階級の存在)との対比のために入れたシーンだと考えると、むしろ肯定的に描いているようにも見えなくもない。しかし、「出生率が劇的に低下している社会」において、妊娠・出産能力は「高く売れる商品」になる。そのことは、お金が欲しい女性に「選択肢」を与えているのか、それとも、女性を「決断」に追い込んでいるのか。私たちの意思や選択、決定は環境的な要因に影響を受ける。それは紛れもない事実だろう。こういった「選択肢の罠」について話していると、「女性に意思決定の能力がないとする差別だ」と反発する人たちがいるのだが、外からの影響を受けるのは女性だけに限ったことではない。そんなことは当たり前だから、代理母出産の話をする際にいちいち「女性だけに限りませんが」と言わないだけである。

 ギレアデにも「良心的な男性」はいる。むしろ大半の男性はそれなりに善良であろうし、少なくともオブフレッドに対しては彼女の意思を尊重したいと考える男性もいる。しかし、彼らにできることにも限界がある。リスクを冒して行動する人たちもいるが、そこまではできない人たちの方が多いだろう。意思があっても、選択することができないからだ。そして、「最悪」よりは「マシ」な方を選ぶことは、確かに意思決定ではあるけれど、「選択」や「自由意志」と呼ぶべきものなのか。人間の意思や選択を、完全に人間の内側から生じる自律的なものだと信じ込むのは危険だ。
 スタンフォードの監獄実験の例を挙げるまでもなく、人間は環境に影響を受けるものだということを、私たちは経験としても知っているのではないだろうか?同調圧力の強い日本社会に生きていれば、結構想像できるんじゃないかと思うのだが、なぜか代理母出産とか性売買とか、女性の身体が資源化されて市場に並べられる話になると突如として、自律的自由意志絶対信奉マンみたいになる人たちがいる。多分、それも「女性差別」の結果だと思うんだけど、「自由意志」を疑うこちらの方が「女性を子ども扱いしている差別主義者」ということにされるのである。アーメン。

 ドラマの話に戻ると、私は、オブフレッドが原作よりも軽率な行動を取るところが少し気になってしまうことがある。例えば、こっそり託されたとあるものをバスルームで広げてそのまま寝落ちしたりとか。「そんなことしてたら見つかっちゃうよ!」とハラハラしてしまう。しかし、小説が書かれた当時の、スマホもネットもなかった時代の女性ではなく、現代のアメリカからギレアデになった(=今のアメリカ女性である)ことやその後の彼女の行動(力)を考えると、「このくらい肝が座ってなきゃ無理だよね」とシーズン3までくるとだいぶ納得感が出てきた。
 サイドキャラクターの描き込みも丁寧で、それぞれにきちんと生きてきた背景があり、ギレアデ建国に関わった側の過去も描かれている。それは、彼らをそこに追い込んだ社会的状況を今のアメリカと重ね合わせて考えると、放置してはいけない問題も多少は見えてくるかもしれない。実際には、ドラマの中で「ノーディベート(議論の拒否)」を主張し、発言を遮る人たちと同様のことを繰り返しているリベラルがたくさんいるのだけれど。

 なお、原作小説『侍女の物語』の続編、『誓願』(2019)のドラマ版も配信が始まっているが、こちらの方もドラマ版独自の設定が色々あって面白い。ドラマ版でめちゃくちゃ好きなのがシュナマイトなんだけど、カナダから来た女の子からセックスのやり方を聞いて「私が何も知らないからって嘘を教えて馬鹿にしてる!」と怒るところがなかなか良い。そりゃ、あの環境で育てられてきたら、そう思うよな(特にシュナマイトなら)と。
 原作本を現在貸出中なので手元で確認できない状態で書いているのだが、意外なキャラに意外なところで好きになれる部分を見つけてしまう率はドラマ版の方が高い。ドラマ版を最後まで見通したらまた感想が変わるかもしれないが、次々と絶望的な状況が押し寄せる中、それでも踏ん張り続けるオブフレッドの姿を見て、自分ももう少し頑張ろうと思う。
註:ドラマ版では第一話でもうオブフレッドの本名が出てくるのだが、小説版では出てこないので、この記事ではあえて言及していません。

第三者にできることを考えるために(風間暁『「回復」という毒』の感想)

 最近はそれなりに読書もしているのだが、その中でとても心を揺さぶられたものの一つが、風間暁『「回復」という毒―支援に組み込まれた構造的暴力』(日本評論社)だ。この秋に出た新しい本で、SNSで相互フォローの人が勧めていたので、早速図書館にリクエストしてみたところ思ったよりも早く順番が回ってきた(「買えよ」というツッコミは甘んじて受けます)。

 処方薬から始まり薬物依存症になった(されてしまった)著者が語る言葉は非常に重い。そもそもの生育歴があまりにも過酷で、それに対して矯正施設や病院が行った「支援」はあまりにも暴力的で機械的で画一的だ。そして、そういった現実を私のような「普通の人」は知らないまま日々を過ごしている。その断絶に心が冷えるが、彼女がこうして言葉にする力があり、考えることをやめない強さがあったことで、私たちはその一端を知ることができる。知らなければ改善のためにできることもない。だから、まずは知ることが大事だと本当に思う。

 私は昔から身近にメンタルの不調を抱えた人がいる機会が多かったので、私自身にも身に覚えのある「親切心からのクソバイス」だったり、「善意」からの「心無い声掛け」だったりをしてしまっていた自覚が多少なりともある。それを改めて反省させられた。
 私自身が精神科にも通うようになって、医者から「その後、どうですか?」と聞かれる度に、「患者らしい回答」をそれなりにしているから、著者の言うことに「わっかる〜!」と思う部分もある。そう、医者と患者という立場になると、私たちは無意識に「患者らしさ」を演じてしまうのだ。一度、「気がかりなこと」「今一番心に引っかかっていること」を思い切って話したことがあるのだが、医者は「眠れていますか」「食欲はありますか」「仕事はどうですか」などといつも通りの質問をいくつかしただけで、私の話を「聞いて」いなかった。音として聞こえてはいたはずだが、私の訴えに耳を貸そうという能動的な意思は全く感じられなかった。あの時、私の中で「あぁ、そうですか、あなたは私を助ける気がないんですね、わかりました」(ガラガラガラ〜)とシャッターが閉まった感じがある。
 精神科の診療はカウンセリングではない。カウンセリングは保険適用されない10割負担で別メニューだ。医者に対して患者の数も多いし、一人一人にそこまで構っていられないのも理解はしている。それでも、やっぱりガッカリはしたし、絶望的な気持ちにもなった。自分を助けるのは自分しかいない、ということを覚悟しなければいけなかったから。
 私はもう四捨五入すれば50歳だし、十分に大人で、ここ15年ほどの経験から人間に対してあまり多くを期待をしていない。ガッカリしたところで、「そんなもんだ」と割り切ってしまえる。しかし、私がまだ中学生くらいの頃に、大人に絶望していたらどうなっていたかはわからない。

 若者の市販薬の乱用というのが社会問題として扱われるようになっているが、それが「快楽」目的というよりも「苦痛の除去」のためだということは、もっと一般にも周知されるべきだと思った。そして、「それ以外に頼るものがない」(大人や行政は頼れない)と思わせている社会の方ではなく、「非行少年・非行少女」の方が「更生」すべきなのだという捉え方が「誰のため」なのか、という問題についても関心を払うことが重要だと思う。
 私は「専門家」でも「当事者」でもない。私が語ることになど意味があるのか、さっぱりわからないし、自信もない。しかし、当事者だけに丸投げすることはできないし、この本を読んでしまったからには「専門家に任せておけばいい」とも絶対に言えない。やはり第三者も、社会の一員として、この問題に関心を持ち、他にできることがないにしても、せめて知ったことを少しでも周囲に広める必要がある、と私は考える。

 支援がやるべきなのは、本人の意思を「正しい方向」へ矯正することではない。
 本人の意思が、たとえ揺れていても、たどたどしくても、社会的に評価されにくいものであっても、それを意思として成立させる条件を守ることの方だ。
 その条件がなければ、「自己決定」はすぐに空語になる。選択肢のないところで「本人が選んだ」と言うことも、説明のないところで「同意した」と言うことも、拒否すれば切られる関係の中で「自由意志だった」と言うこともできてしまう。

風間暁『「回復」という毒』から

 当事者の語った言葉の中で、自分が言いたいことを補強してくれる部分だけを切り抜いて引用するのは不誠実だと自分で思う。それは当事者が命をかけて形にしている言葉の簒奪にもなりかねないし、搾取だとの誹りを受けることも覚悟しなければならないと理解している。それでも、私はこの風間さんの言葉を引用したかった。
 風間さんは、支援する側が「自分が無力であるという事実から逃げるために」当事者に足枷を嵌めようとすることを戒め、支援者が「自分が安心するために」当事者に約束を要求することを批判している。現在、支援する側である風間さん自身が、その難しさを十分に理解しながらも。

 最近もまたSNS上では、性売買廃絶を訴える女性たちが「パターナリズム」だとか「差別主義者」だとか色々言われているようなのだが、性売買廃絶の議論における、「脱性売買支援」について考える際にも、そこに支援者側の都合が紛れ込んでいないか、という視点は必要になると思う。そういうこともあって、いわゆる「フェミニズム」の本ではないけれど、フェミニズムに関心のある人にはぜひ読んでほしい一冊だ。
 私も手元に置いておきたいと思っているので、借りて読んだのだけれども、購入もする予定でいる。なんでまだ買っていないのかというと、今月のお小遣いを使い切ってしまったからです!

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 マジで滑り込みセーフで10月中に配信した感じですが、来月も頑張りたいです。

 色々書きたいテーマはあるにはあるんですが、形にする時間が圧倒的に足りていません。健康診断で心電図の結果が悪く、色々心労も重なったせいか、動悸がすることも多かったので、循環器科を受診したんですが、「動悸ってすごく広い概念なので、どういう動悸です?脈は自分で測ってみました?」などとめちゃくちゃ高圧的に言われて、「健康を心配して医者に来て怒られるの、意味わからねぇ」と思った10月でした。しかも、家に帰ってから領収書をよく見たら、なーぜーか、私費(10割負担)になっていて、念のために問い合わせてみたら、「ミスだったので返金します」(なんでミスが起こったのか説明はなし)とのことで、マジでこの病院大丈夫?と不安になりました。一応、11月にエコー撮ったりもう少し詳しい検査をするんですけど、内科なんかと違って頻繁に行かないタイプの病院ってわからないことが多くて患者も不安なんだわ。医者は患者の要領を得ない訴えにいちいちイラつかないでくれ、と言いたいです。
 今回、ちょっと校正の時間があまり取れていないので、いつも以上に誤字脱字やらがあるかもしれませんが、個人がやっているものなので仕方がないと目を瞑っていただけると助かります。web公開版は後日多少修正するかもしれません。

 急に寒くなりましたが、風邪などひかないように気をつけていきましょう!感想つきのSNSシェア、コメント、マシュマロなどリアクションいただけると嬉しいです。
 そうそうDuolingoは…実は仏語からブラジルポルトガル語に浮気してます。ポルトガル語のすごく不思議なところは「私の」「あなたの」は前からかかるのに、「彼の」「彼女の」は後ろから、「あなたたちの」は英語で言うところのofのついた表現になるところです。これを普通に喋ってんのかーい!って、めちゃくちゃ面白いです。ブラジルだけにやたらサンバを踊る例文が多いです。

 ホルガ村カエル通信は、私(カイン)が気になる話題(主にフェミニズム周辺の話題)を拾ってお届けする個人ニュースレターです。配信後の記事は全てweb公開もしているので、購読登録をしなくても読めますが、メアドを登録していただくと、あなたのメールボックスに「登録者限定パラグラフ」付きのニュースレターが届きます。(短めの「おすすめコンテンツ紹介記事には限定パラグラフはつきません)。よろしければ、登録をしてみてください。

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