SNSフェミニズムの終焉の兆し

世界に開かれながらも視野を狭めるタイムライン
この春は天気がおかしい。まぁ、例年、異常な暑さですでにおかしいのだが、今年は寒暖差や気圧の変動が大きくて、慢性上咽頭炎を持つ者にとっては大変厳しいものがある。持病があるというのは本当に不便なもので、調子が完全に悪くならないように調整しつつ、なんとか出勤して仕事をこなしているうちに4月は終わり、5月も終わろうとしている。
昨年の後半くらいからだと思うが、いわゆるリベラルな媒体においても、SNSやオンラインメディアを中心に興隆したフェミニズム(「ミレニアル・フェミニズム」)の功罪について、むしろ「罪」の側面をきちんと分析するような記事が増えてきたように思う。最近もクーリエ・ジャポンに転載されていた米国アトランティック誌の「ミレニアル・フェミニズムの栄光と終焉」という記事を読んだところだが、頷くところが多かった。
2000年代(特に2010年代後半)以降の「フェミニズム」には、学者が象牙の塔の中でこねくり回す理論ではなく、共感を中心に広がるフェミニズムだからこその利点があった(ある)ことは間違いないし、実体験や個人の感覚からしか語り得ないこともあるだろう。
しかし、共感の輪は簡単に相互監視と異論排斥に繋がってしまったように見える。しかも、それを主導しているのは、むしろ象牙の塔の住人たちなので捻れている。市井の一般女性たちの声が集まって大きな波を起こすかに見えた流れはいつの間にか切断され、「権威ある学者」たちによって「正しい声」と「間違った声」に峻別されるようになり、同時にかなりの女性たち(そして多くのリベラル男性たち)がそれを模倣するようになった。意見のグラデーションは認められず、何か一点でも意見が一致しない相手とは関係を切るべきだとされる。
異論は場合によっては「差別」あるいは「家父長制への加担」として徹底的に糾弾されるべきものと扱われ、「この人はヘイター」などとレッテルを貼られてしまえば、当の発言そのものの正当性や主張の妥当性は全く顧みられることがなく、拡散することもファボすることも許されない。そんな状況が日本語言論空間では今もまだ続いている。
それは「女性差別」をなくす上で全く何の役にも立っていないどころか、私には、むしろ女性差別解消に向けた議論をすることを妨げているように見えている。早くこうした「狭量なフェミニズム」が終焉を迎えてくれることを心から願わずにはいられない。
すべてにおいて意見が完全一致する人だけで集まろうとしたら私たちはどんどん分断されてしまうだろう。そして、私はSNSの収益化がこうした分断の流れを加速化したのではないかと感じている。
Twitterで認証バッジをつけている人の中にも有益な発信をしているアカウントは少なくはないし、それが収益になることは悪いことではないのだろうが、炎上がまさに文字通りの「炎上商法」として機能してしまうプラットフォームで、認証を受けたアカウントが優先的に表示されるシステムの中で、ただ耳目を集めるためだけにフェイクニュースを流したり、不必要に極端な物言いをしたりするアカウントも増加してはいないだろうか。
noteもAI執筆モードが搭載されて以来、「発信したいことがあるクリエイター」ではなく、「収益を得るために発信している人」が増えている。LINEにもAIに返信を提案させたり、話題を提案させたりする機能がついて、ますますSNS空間における「人間の不在」 ー 要するに「思考の不在」ー が加速していきそうに思える。人間がAI同士のコミュニケーションのハブになっているようなこの状況は、笑ったらいいのか怖がったらいいのか、変な気持ちである。文字ベースのSNSでの発信もそろそろ潮時かなぁ、と思う。
まぁ、それだけではなくて、私自身がやはりSNSのスピードに釣られて熟考をサボっているところが大いにあると思ったので、4月の初め頃から緩やかにSNS断ちを始めた。最初の頃は、日常の中でちょっとした失敗をした時などに「以前ならこれを速攻で投稿してしまっただろうな」と思ったし、隙間時間などに頭に浮かんだことをポンとSNSに投げ込んでみるというのを“我慢する”必要があった。
他でつながりがない人もいるのでアカウントは削除しないつもりだし、たまには戻ることもあるが、ちょっと離れてみた結果、これといった不便はないし、むしろ「自分はフィルターバブルの中にいたんだな」と感じることも多い。デモや政権批判の投稿を目にしないでいたからと言って、別に社会が良くなっているわけではないのだが、変に「何かしなくちゃ!」と焦燥感や不安を掻き立てられることがないし、新聞や雑誌の記事などをネットで拾い読みする機会は増えた(いくつか課金している媒体もある)。
それで、改めて思うのは、右も左も「自分たちの意に沿わない報道」(あるいは「自分たちに100%賛同しない報道」)をするメディアを敵視しすぎなのではないかなぁ、ということだ。確かに大手メディアは「ぬるい」ところはあるが、一部の記事や記者個人の発言などを切り抜いて「〇〇新聞は××を全然報じない」だとか、「〇〇新聞は政府に忖度している」と断言するアカウントを、ファクトチェックもなしに拡散する人たちも多い。
前から言っているのだが、みんな懐事情が寂しいとはいえ、ネット時代になって情報は「無料」だと思い込んでいる人たちが多すぎる。きちんとした取材には金がかかるし、記者には仕事に見合う給料が支払われるべきだ。それを支えるのは「情報を買う」人たちなのだ。1ヶ月購読しても飲み会1回分よりも安いので、もう少しみんな課金した方がいいのではないだろうか。
まぁ、お金の話は置いておくとして、「新聞がデモを報じない」問題について陰謀論めいたことを言っている人も結構いるようなんだが、人口1億2千万人の国家の首都で数万人(主催者発表:ちなみに主催者発表は基本的に「述べ人数」なので、多少は「盛ってる」と理解していいと思う)が集まってもそこまでニュースバリューがないと見なされるのは、残念だが仕方のないことでもある。私もデモの主催者側にいたことがある人間なので、この日本社会において万単位の人がデモに集まることが珍しいことも、現場にいる人たちにとっては「ものすごく盛り上がっているデモ」に感じられることもよーく分かるのだが、とはいえ、その中でいわゆる「アカ分け」をしている人たちなどは承知しているんじゃないだろうか?実は盛り上がっているのはとても狭い界隈の中だけだということを。
最近の「戦争反対」「改憲反対」のデモ情報は「左翼アカ」「フェミアカ」じゃないアカウントにも流れてくるかもしれないが、そこでバズっているか?と言うとそこまでじゃないだろう。フェミニストたちが散々話題にしてきたことについて「フェミさんだんまり」と言い出すアンチフェミ男が時々観測されるが、あれと似たような現象が自分のTLでも起こっているということは意識しておきたい。
左派・リベラルの女性蔑視も相変わらず深刻である
先日、職場の同僚男性が高市早苗首相のことをトランプに媚びていると評した上で「顔も犬っぽいですしね」と言ってきた。その場ですぐに言い返さない私もどうかと思うが、正直、左翼男性のミソジニーにはうんざりしているので会話をする気が起きないのだ。そして、ああいった余計な一言がノンポリ民にどう聞こえるか、それが分からない人が多いことに危機感を覚える。
確かに高市は「媚びている」のかもしれないが、過去にアメリカ大統領に媚びなかった日本の首相がいただろうか。ずっと日本の首相は「アメリカのポチ」ではなかったのか。それでも、左翼男性が彼らの容姿を(アメリカに媚びていることを理由に)貶すことはなかったように思う。高市が「女性ならではの」媚び方をしているように見えることが影響している面もあるだろうが、やはり根底には女性蔑視があるとしか思えない。
同じように「媚び」ていても、韓国の大統領がトランプに文字通りの王冠を“献上“していることを日本の左翼男性が批判するのはほとんど見なかったし、第一期トランプ政権発足前(大統領選出前)にフライングで挨拶に行った故安倍晋三首相についても、トランプへの媚びを理由に容姿をあげつらう物言いはなかったと記憶している。
政策や外交のマズさが批判されているのであって、高市が女性だからではない、と言う人が多いのだろうが、それは本当だろうか?と私はずっと疑問に感じている。高市が女性だからこそ、“女性首相なのに”フェミニストではないことが批判され、“女性首相なのに”リベラルではないことが批判されている側面は絶対にある(それ「だけ」ではないのは承知の上で)。男性がフェミニストでなくても、リベラルでなくても、今の高市ほどは批判されないだろう。
私は、高市政権を支持していないし、率直に言って、高市早苗という人は、思っていた以上に「国民生活に関わる問題」に関心がない政治家だと判断している。しかし、それは「無能」なのとも少し違うようにも見えて、なんというか左翼・リベラルのボリューム層で共有されている「高市早苗像」がピンと来ないのだ。というか、どうしてもさまざまな場で見かける高市批判に女性蔑視を嗅ぎ取ってしまって、「女として生きること」の現実を突きつけられた気がしてキツい。私がネットなどで目にする範囲でもそうなのだから、もっと目も当てられないような女性差別的な言葉で高市批判をしている人もいるのだろうと想像に難くない。
女であるというだけで、常に容姿をジャッジされ、能力を疑われ、笑顔であれば「媚びている」と言われ、笑顔がなければ「愛想がない」とか言われるという女性たちを様々な場面で目にしてきたし、自分も経験してきたから、もしかしたら私が過剰反応しているのかもしれないが、それでも高市の外交を批判するのに「顔が犬っぽい」とかいう必要はない(それはそうと、犬は可愛いので、悪口として犬っぽいっていうのもどうなんだ?)。
なお、高市自身が他国の代表などと会う際に(褒めるつもりで)よく容姿に言及してしまっていることを「失礼だし品がないからやめるべきだ」と批判している人がいて、それは本当にその通りだと思う。しかし、同時に、容姿への言及はタブーだという国際常識を高市が身につけられないまま首相になってしまったのは何故か、という日本社会(あるいは政界?)の側の問題も考えないといけないのではないか、と思う。
あと、高市を麻生の傀儡だと言う人もいるが、衆院の解散は高市の独断だったということを考えても、彼女のことを年配政治家の言いなりになる駒に過ぎないと見なすのは、古典的な女性蔑視ではないだろうか。本当に彼女が傀儡に過ぎないのであれば、台湾有事をめぐる例の問題発言はなかっただろう、と私は思う。これまで何十年もの間、自民党政権が「うまくやってきた」問題で中国との間に摩擦を生じさせるような発言を麻生が歓迎するとは思えない。いや、私も歓迎してないけどね。
あと、この件に関して左派は「中国の内政問題だ」と言明してしまうことのマズさに自覚が足りないんではないかと思う。だって、内政問題だと言うなら、中国が台湾を併合しても問題ないことにならない?それは台湾の人々に歓迎される発言だろうか。そして、台湾で安倍晋三や高市早苗が人気者なのも事実なので、そこから目を背けてはいけないと思う。
イラク戦争の時に、政治家らしい玉虫色の表現をせずに「アメリカを支持します」と言い切った小泉純一郎に清々しさを感じてしまったかつての自分(ノンポリ民だったので)を思い出すと、あの高市の発言を「カッコいい」と思う日本の有権者たちがいるのも当然だろうと想像はつく。高市は国民人気が高いというのは事実だと思う。外交も内政も全然よろしくないけれど、国民も多分そこに満足はしていないけれど、それでもこれまで男性政治家たちが曖昧にしてきたことから「逃げなかった」女性首相がカッコよく見えるという人間の感情は馬鹿にできないし、高市がその国民人気を盾にする強かさを持っているのも事実だと思う。左派・リベラルが対峙しているのは、「男性政治家の操り人形に過ぎないくせに調子に乗っているだけの愚かな女政治家」ではない。敵を侮るなかれ。
左翼の人たちとこういった話題が共有できないとなると、どこの誰と話せばいいのか、途方にくれる。そして、私もそうだが、左翼は左翼の人の言説にばかり触れてしまいがちなので、保守・右翼が実際に何を主張しているのか、実は自分で思っているほどは分かってないことがある。相手の主張がわからなければ、建設的な議論をすることもできないし(“そもそも議論すべきではない=ノーディベート”を適用すべきでない場でも議論をしないのも左翼の悪い癖だと思う)、相手を翻意させる説得力のある主張もできないので、自分たちの「善」だけで凝り固まった状態で理論武装するのではなく、敵を知ることも大事だろうし、何よりも大多数のノンポリの人たちはマイルドに保守な部分もかなりあるので、そういう人たちに届く言葉を左翼は獲得しないといけないのだと思う。
この話ももうずっとしているけれど、私自身もまだまだ何もできていないに等しい。それでも、職場のノンポリ〜やや右寄りの人たちの話を聞くともなしに聞いて「はぁ〜ん、世間はそんな空気なのか」と思ったり、よく話をする同僚から左派・リベラル周りの人からは絶対に言われないことを言われて、驚いたりしながら、少しずつ世の中のマジョリティと会話することを心がけている。ちなみに、最近言われて面食らったのは、マイナカードを作っていないことについて、「あなたみたいな抵抗勢力がいるから物事が先に進まないんでしょう!」というものだ。自分の周りは左翼が多いのでマイナカードを作ってない率が圧倒的に高い&マイナ保険証はほぼ誰も使ってないので、大変新鮮な経験であった。
議論に乗らないままで勝てるのか?
このニュースレターはあくまで「フェミニズム周辺の話」メインなので、読者の中には、改憲派の人もいるかもしれないし、そもそも「左翼」的なものがあまり好きではない人もいるかもしれない。私は、そういった人たちの意見も一つの意見として尊重されるべきだと考えているし、「フェミニストなら改憲に反対すべき」とも別に思っていない。実のところ、私自身も今となっては「護憲派である」とまでは断言できない。ただ、自民党の改憲案に賛成できるフェミニストはいないとは思う。あれは「家族」「国家」という単位を「個人」よりも重視する作りになっているので。
一方で、自民党の改憲案とは関係なく、「自衛隊をきちんと軍と定義するくらい良いのでは?」「自衛隊が“違憲“というのは災害救助などでも活躍してくれている自衛官たちが気の毒だ」という感覚は、今の日本社会では割と一般的なものなのかもしれない、と感じている。これからの護憲派は「憲法の何を守りたいのか」をより具体的に主張すること、自民党案の「9条以外のヤバいところ」の周知が大事になるように思うし、むしろ保守派が「いや、それなら改憲しない方がいい」と思うくらいに、リベラルで先進的な改憲案を出していくことも必要なんじゃないかと思い始めている。
「議論に乗ることが罠」であったとしても、いざ、議論になったときに何も準備ができていないのでは勝ち目がなさすぎる。平和憲法の理念は引き継いだ上で、例えば同性婚や環境権なども盛り込んだリベラルな改憲案を提示することは、世界平和に反することだろうか。ノンポリな一般市民からは、既存政党はみんな「保守的な老害」のように見なされてしまっている中で、「ま〜た左翼がいつもの“憲法守れ”だよ」と思われない工夫はした方がいいんではないか、と考えるようになった。
全国各地で様々な人たちがデモをしていること、「オタクによる反戦デモ」のような特色のあるものも出てきたことは良いことだと思っているが、「頭数になるしかない一般市民」ではない学者・言論人・政治家には、一歩先に進んで「自民党の改憲案」を実現させないための準備をしてほしいと思う。
映画『嵐が丘』(2026)の感想
今年の3月8日(国際女性デー)には、旧Twitterで音声配信を行ったのだが、「X」のアプリを使わずにブラウザを使うと音声が30日で削除されてしまうということを、削除の7日前に知った。とりあえず音声ファイルはDLしたのだが、ファイル形式がnoteなどにそのままupできるものではないので、そのままになっている。
わざわざ音声ファイルを変換してupするほどのものではないが、その中でも話をした、エメラルド・フェネル監督の映画『嵐が丘』について、ここに書いておこうと思うので、映画の情報に一切触れたくないという人はここから先は読まないでください。
まず、私は『嵐が丘』という小説がとても好きである。最初に読んだときは、「恋愛小説」として読んだが、次に読んだ時は「枠物語」としての面白さに、再読した際には「女性の小説」としての面白さに気付かされ、今回の映画化に当たっては訳者の一人である鴻巣友季子さんの記事などで「不動産小説」としての側面を意識して読んだ。
その上で、今回の映画化は「恋愛小説」の部分と「枠構造」の部分はそれなりにうまく翻案されていたと言えるけれど、それ以外の部分が大きく改変されていたんじゃないかと思う。
まず、登場人物が大幅に削られているので、本来であれば2人の人物の役割を一人が担うことになっているし、子供たち世代の話が全てカットされているので、セリフで「ヒースクリフはひどい奴だ」とキャサリンが言ったところで、実際にヒースクリフが「酷いこと」をする場面はほぼゼロになってしまっている。これでは、ヒースクリフは単にイケメン(若干「暴力的」)でしかなくて、「“酷いやつ”ではあってもキャサリンの“魂の片割れ(ソウルメイト)”である」という原作とは別物だ。
映画やドラマなどの映像化は、原作の忠実な再現ではないし、そもそも「忠実な再現」など不可能だし、むしろ「映像だからこそできること」をやるべきだと私は思っているが、恋愛小説としての『嵐が丘』の部分で私が一番好きなのは、2人の関係が宿命的であって罵り合ったり憎み合ったりしつつも「二人で一人」だというところなので、そこが崩されてしまうと「こんなの嵐が丘じゃないよー」と思ってしまう。
そして、再会後の二人がやたらセックスしまくるのが本当に嫌でゲンナリしてしまった。ついでに言っておくと、多分、過去の映画化でも二人が性的な関係を持っているのかどうかは監督によって見解が分かれていたのだろうが、Twitterで「性的なシーンはありましたか?」と(試写を見てきたことを投稿した)鴻巣さんにしつこく尋ねているアカウントがいて気持ち悪かった。
私は二人はセックスしていない(する必要がない)と思うので、そもそもセックスさせるのがどうかと思うんだが、それがまたしつこい上に、「そこでする?」みたいな場所でやりまくるので、普通に周囲に筒抜けでもおかしくないんだが、どうもエドガー(キャサリンの夫)含め、誰もしばらく気づいていない。流石に鈍感すぎんだろ〜!
キャサリンの兄(ヒンドリー)がカットされたことで、キャサリンの父は人格破綻者になっているし、ヒースクリフがヒンドリーの息子の役割も負ったことで「いい奴」になってしまっているし、エドガーの被後見人(原作では妹)のイザベラは「性的妄想を拗らせたオールドミス」のようなキャラにされていて、そのせいでヒースクリフが全然まともに見えてしまう。子供時代のヒースクリフもいい子だし。
映画を高く評価する人の中には、映像の美しさを挙げる人も多い。確かに景色は美しかったし、夕陽をバックに佇む馬上のヒースクリフとか「そのまま絵画として飾れそう」と思ったけれども、屋敷(特にエドガーの方)の過剰な装飾や現代アート的な過剰な演出も、やたら性的なメタファーを散りばめるのも、なんだかひと昔前の「尖った演出」を見せられているようで、趣味じゃないなと思った。
そして、ホン・チャオが演じたコンパニオン(貴婦人の話し相手兼教育係のような女性)のネリー(原作では家政婦)も話題になった。今回の映画はネリーの視点では語られていないが、ネリーが主人公の運命を左右するような言動をとる。その言動は、ネリーの人生を思えば当然にも見えるし、一方で「意地悪」にも見えなくもない。これは原作におけるネリーが「信頼できない語り手」であるという解釈の反映だろう。映画が話題になったことで、「原作を読んでネリーはキャサリンを憎んでいると思っていた」と言う人がいることも知って興味深かった。私はあまりそうは思っていなかったので、同じ小説を読んでいても色々な感想があり、色々な解釈があるのだな、と。
フェネル監督は、おそらくネリーは信頼できないし、キャサリンを憎んでいる可能性もあると考えたのではないか、と考えると映画版ネリーの言動には納得がいく。しかし、そうなると、わざわざその役をアジア人女性にやらせるの?というのもね、ちょっとモヤっとしたところ。
最後にキャサリンについてだが、マーゴット・ロビーのビジュアルは「キャサリン」としての説得力はあった。原作とは違うけれど、これはこれでキャサリンだなと思わされた。しかし、エドガーとの出会いや結婚というのは、キャサリンがまだ未熟な子どもでもあったからこその出来事であり選択であってほしい(そうじゃないと、本当にキャサリンがただただ酷いだけの女に見えなくもないし)と思ってしまうので、結婚の段階でのキャサリンをマーゴット・ロビーが演じている時点で無理があったと思うし、“私の『嵐が丘』”とは別物にならざるを得ない。そして、別物だと分かった上で見ても、やっぱり後半のセックスシーンが本当にしつこくて(ただし、ポルノにならないように撮ることはかなり意識してはいると思った)、そのせいで「まぁ、相思相愛だって確認できてセックスもやりまくってよかったんじゃないですか」みたいな冷めた気分になっちゃって、一人取り残されたヒースクリフの台詞もなんか虚しいし、むしろエドガーが可哀想だった。
いずれにしても、『嵐が丘』は映画の尺では難しい小説なのだろうなと思ったし、それでも映像化したくなっちゃう気持ちもわかるので、みんな原作小説を読みましょう。
ところで、『嵐が丘』って「女の読む小説」扱いされてた気がするんだけど(映画の公式サイトにも「いまなお世界中の女性たちの心を掴んで離さない世紀の大ベストセラー『嵐が丘』を、いま最も勢いのあるクリエイターが集結し映画化!」とあるし)、公開初日に観に行ったところ、一人で見にきている「文学好き」っぽい中高年男性が結構いた(二人組もいたけど)ので意外に思っていたところ、fecebookで繋がっている同僚男性も観に行ってることが判明。
これは、私の勝手な想像(妄想)だが、文学おじさん達の中には、「女性はね、『嵐が丘』って激しい恋愛の物語だと思っているでしょう?でもね、これはね、小説の構造として新しいことをやっているところがすごいんだよね。女性たちはヒースクリフに憧れて、そういう大事なところを見落としがちなんだよね」とか思ってるタイプがいそう。
ヒースクリフはクソ野郎です。
そこをはっきりさせなかったフェネル監督の映画は、そういう男性たちの勘違いを助長させそうな気がする。
男性たちの中では、いつでも「本物」がわかるのは男性で、女性は紛い物にキャーキャー言ってるという設定だ。文学でも映画でも漫画でも音楽でも。でも、実際は、紛い物の「男らしさ」に拘泥して自縄自縛になっている男性が多いよなぁと思うし、女性の方が先に良さに気づいた作品であっても、いつの間にか「男が認めた男のためのもの」みたいに事実が捻じ曲げられてきたことを私たちは知っている。そうやって嘘と誤魔化しで支えなければいけない砂上の楼閣が「男らしさ」なんだから、さっさと壊してしまえばいいのにね。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
自分がもはや護憲派ではないかも…という話はウケないだろうと分かっているので書くか迷いました。意見が違う人と対話をする努力を諦めないためにも、これが自分にとっての一歩になればいいなと思います。
「(高市政権を批判することよりも)左翼を腐すことの方が大事なんですね」と言われたこともありますが、敵を腐すだけで勝てるなら誰も苦労をしないわけで、自分たち側のやり方の改善点を考えることは単なる「腐し」ではないと考えています。共通の敵を批判するのは士気を上げる上で必要な場合もありますが、それは「内輪では了解済み」のことなので、境界線を超えていくためにはさらにひと工夫が必要だと思っています。
私がこの問題を考える際に、影響を受けたものの一つに、4月の初めに朝日新聞の連載「この国のゆくえ」に載った、映画監督・松井久子さんへのインタビュー記事がありました。松井さんはフェミニスト女性たちの証言を集めたドキュメンタリー映画『何を怖れる』の監督でもあり、左翼でフェミニストの立場から「立憲的改憲」を唱えています。新聞の記事自体は有料会員向けなので、松井さんが撮った憲法をめぐるドキュメンタリー映画の公式サイトへのリンクを貼っておきます。
以前にも書いているように、私の夫はもう20年以上「改憲派左翼」なので、そのことの影響も大きいとは思いますが、10年以上彼と一緒に暮らして時々議論して考えてきたことに、フェミニストの立場から一つの道を示してくれたのが松井さんの言葉でした(上記の映画は観ていないのですが)。松井さんと同様に、私も憲法改正の議論が広がることを望みます。
なお、映画『嵐が丘』については鴻巣友季子さんの記事へのリンクを貼っておきますので、関心のある方は是非。
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あ、そうそう。Duolingo(仏語)は150日を超えましたが、部分冠詞が出てきて「ぎょえー」ってなっています。どうやら「個数」ではなく、「量」で数えるものにつくのが部分冠詞ということらしいですが、勇気とか愛とかって「量」なの?「個数」ではないのはわかるけどさ…って思います。外国語学習って面白いですね。
では、また次回の配信でお会いしましょう。
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