「みんなのもの」から脱却して

国際女性デーは「みんなのもの」にすべきではない
もう3月も終わろうとしている今頃になって振り返るのもちょっと遅い気もするが、今年(2026年)の国際女性デーは「ホルガ村カエルラジオ」という音声配信をしてみた。色々不手際なところもあったものの、他所様の「女性に感謝の気持ちを込めてミモザを飾りましょう💐」的なものとは別の小さなイベントができたかな、とは思っている。(当日&後日聞いてくれたみなさま、ありがとうございました!録音はまだ聞けるのでよろしければどうぞ。と勧めるほどちゃんと喋れたか自信がないですが)
「国際女性デー」がそれなりに注目されて盛り上がるようになったのは、2017年くらいからだったと思う。日本で初めてのWomen’s Marchが行われて、私も参加しに行っている。原発事故の後、頻繁にデモや街宣に出かけていた私からすると、初回のウィメンズ・マーチは、「不慣れな人たちがやっているデモ」という印象だったが、それもまた好ましく思えた。デモ慣れした、いわゆる「左翼」の人や政党関係者ではない女性たちが試行錯誤しながらやっていることが感じられたからだ。見知った顔もちらほらあったが、自分の行き慣れたデモとは集まっている層も少し違っていて、それも楽しかった。
しかし、国際女性デーが「みんなのもの」になるのは早かった。過去にも書いていることの繰り返しになってしまうが、「女性に限らず、誰もが生きやすい社会を目指す」、原則として、そのことに異論はない。しかし、わざわざ1年にたった1日だけの国際“女性“デーに「女性以外の人たちも…」という話をすることのマイナス面をよく考えて欲しい。女性はそうでなくても「わきまえろ」と言われがちなのだ。せめて国際女性デーくらいはジェンダー平等とか誰もが暮らしやすい社会へとかではなく、「女性差別反対」ときっちり言わせてもらいたい。
そして、「女性差別の解消」と「誰もが生きやすい社会」というのは、両立するのか、ちょっと立ち止まって考える必要もあるだろう。前から言っているのだが、女性差別の解消が難しいのは、「女性を差別すること」が社会を維持・発展させる上での前提条件になってきたからだ。女性差別を解消するということは、その前提条件を変えることであり、女性差別によって支えられていた利便性を手放さなければならないという結果に結びつく。
家事・育児を無償で提供してくれる存在、低賃金労働で社会を支える存在、その恩恵を全く受けていない人はいない。特に、男性はその恩恵にあずかっているおかげで、仕事に専念して成果を出すことができている。その利便性を手放すことは、「誰か(主に男性)の生きやすさ」をマイナスにするとも言える。だから、「誰もが生きやすい」と「女性差別撤廃」は完全には両立しにくい。それを事実・現実として認識することなしに、差別を無くすことなど不可能ではないだろうか。
そう考えてみれば、「女性差別に反対」と明確に表明する場はまだまだ足りていない。国際女性デーは数少ないその機会にこそするべきであり、「フェミニズムはみんなのもの」という話は、せめて別の機会に譲るべきだと強く主張したい。
これは、そんなに「極端な主張」だろうか?「女性だけでなく…」という前置きをせずに、女性の被っている差別とそれに付随する被害について訴えることを躊躇させる言説が広まりすぎたせいで、この当たり前の主張が、まるで「自己中で視野の狭い不見識な妄言」のように扱われていることに強い怒りと同時に深い哀しみを覚える。女として生きること、女として社会に何事かを主張すること、その困難さを改めて思い知らされるからだ。それも、1年にたった1日しかない「国際女性デー」に、だ。
まぁ、普段から女性が何かを主張すると、それだけで男性中心社会はパニックを起こして、「言い方がキツい」とか「男性を悪者にしすぎだ」とか言い出すし、男性に媚びない女性のことは「怖い」と思い込む。実に感情的な反応だと言わざるを得ないが、彼らは自分が感情的だとは夢にも思わないので、困ったものである。当ニュースレターでは言葉遣いには気をつけているし、丁寧に論理的に書くように心がけているのだが、「言葉がキツい」とか「感情的だ」とかいうリアクションをもらったこともある。
少々脇道に逸れたが、せっかく国際女性デーがあるのだから、もっと「女性の権利」「女性差別解消」ということを真っ直ぐに訴えるイベントが増えるように、そういったイベントがあった場合はできる限り参加したり応援したりしていくのがいいのではないかと思っている。私は、来年も自分で何かやるか、応援したいイベントに参加するつもりでいるので、読者の皆さんもぜひそれぞれに国際女性デーを「女性差別反対」のために盛り上げていきましょう!
良心的で無責任な男たち
今回は「フェミニズムに関心を持った男性」に対して思うことなどを少し書いてみたい。
先日、とあるフェミニズム系の勉強会に参加した時、一人の男性参加者が「自分は日本の女性差別に気づいて、驚いて、この勉強会に参加しました。今後もこういった勉強会をぜひやってください。ぜひまた参加したい」といった発言をした。素直に受け止めれば、問題意識を持って勉強会に参加しようと考えるのだから、まぁ、それなりに良心的な男性だと言えるのだが、私はなんだか釈然としないものを感じた。それでも、その場ではみんな「はぁそうですか」という反応だったのだが、その少し後に、若い女性参加者が「男性は自分の責任に無自覚である。先ほど発言していた男性も、問題に気づいたなら、自分が行動して変えなければと思うべきなのに、自分にはまるで責任がないかのような態度でいる。そういうことに怒っている」という発言をした。その女性の、あの場でそれをきちんと言語化した勇気にも拍手を送りたいし、「ああ、そうか、怒るところだったか」と気付かされた。
そうなのだ、フェミニズム(女性差別解消)に関心を持った男性にありがちなのだが、彼らは問題の元凶である男性に「女性差別は問題だと思います」と注意しに行くのではなく、真っ先に女性に向かって「問題に気づいた僕」アピールをしに来てしまう。問題を起こしている男性(社会)に立ち向かうのではなく、差別されている女性の横に勝手に並んできて「僕は味方ですよ」と握手を求めてくるのだ。
これに関連した話は、当ニュースレターの第一回(今から考えると超絶短い文章)でも扱っているのだが、大抵の場合、その男性は女性たちから「感謝」される。一般的に、日本の男性たちは女性差別問題に無関心だし、むしろ「男の方が大変なんだぞ」と対抗し始めることも多いので、男性が「女性差別は問題だと思います」と当たり前のことを表明しただけで、「男性なのに理解してくれている」「男性なのに関心を持ってくれている」とありがたく思われることが多い。
旧ツイッターにおいても、数年に一度くらい突然の新規参入フェミ発信男性アカウントが現れる。その男性の発信は、これまでに女性たちがそれぞれに発信してきたことを周回遅れでまとめている程度の内容であっても、大量にRTされ、引用されて私のTLにも流れ着く。「あー、今はこの人がバズってんのかぁ」と思うのだが、同じことを女性が言った場合よりも「感謝されている」率が高い。
男性の方が絡まれにくいのでRTしやすい面もあるし、マシなことを言っている男性がいる方がいいに決まっている。男性は男性の言うことなら聞く場合も多いので、男性が発言することの意義は否定しないのだが、やっぱり、なんか釈然としないものはある。女性の代わりに「拡声器」になってくれる存在も必要だと頭では理解しているが、しかし、拡声器の役割だけでは満足できずに、そのうち旗振り役をしようとする男性、女性からマイクを奪う男性も出てくる。それに対する警戒も捨てきれない。
そして、女性差別の撤廃に関心を持っている人たち=フェミニスト界隈には、圧倒的に女性が多い。身体的にも社会的にも強者である男性にとって、そこで「女性を優先する」ことは、相当に気を遣わなければ難しいことなのではないかと思う。
女性の口を塞がずに、男性に向かって発信しろ
フェミニズムに関心のある男性は、おそらく「男女は平等です。私は女性を対等に扱っています」という認識しているのだろうが、残念ながら日本の男尊女卑は根深い。「対等に扱う」くらいの意識だと、「対等だから自分の意見の方が正しいことがある」「対等だから女性相手でも間違っていれば批判していい」という「原則」を「言い訳」に、議論の主導権を自分が握ったり、女性の意思や意見を抑圧したりしてしまいかねない。そのくらいに、男尊女卑社会で生まれ育った人間(特に男性)にとって、「女性を対等な存在とみなす」ことは難しいのだ。まずはそのことを自覚してほしい。
件の勉強会参加の男性にしても、勉強会の内容に関して質問や意見などを募ったタイミングで、わざわざ手を挙げて誰にも求められていない「自己紹介」をしてしまうのは、「女性差別に関心を持つ感心な僕」にばかり注目してしまっている心理と無関係だとは思えない。「感謝されて当然」という意識はなかったかもしれないが、彼は褒められることはあっても、まさか「自分の責任に無自覚だ」と批判されるとは思っていなかったのではないかと思うし、自分が何を批判されたのかきちんと理解したのかもよくわからなかった。
最悪なのは、「感心な僕に感謝しない女は単なるミサンドリーだ!」「ペニスフォビア(←なんじゃそりゃ)は良くない!」などと逆ギレするパターンだが、数年に一度くらいはSNS上でそういう男性を見ているので、みんな、あんまり男に感謝しない方がいいと思うよ、と個人的には思っている。
しかし、では「男は黙れ」でいいのか?と言うと、それはそれで違うと私は思う。すでに書いた通り、「男性の言うこと」でないと耳に入らないポンコツ仕様の男性というのはまだまだ多い。「最近はちょっとしたことで差別って言われちゃうからなぁ〜」くらいの認識で「女性差別に気をつけて」いる程度の男性は、表向きにはっきりわかるような女性差別発言はしないが、内心では「女は感情的で男より劣っている」と思っているものだから、それが無意識に行動に出てしまうのだ。
そういう男性の耳に「女性差別をやめろ」を届けるには、残念ながら男性の発信が必要だ。そのこと自体がすでに腹立たしい気もするが、それが現実なので仕方がない。ただ、だからこそ、男性には、仮に一部の女性の発信に不備を見つけたり、多少の不服を感じたとしても、それはある程度はスルーしてもらいたい。それは女性同士で議論する方がいい。そちらよりも、無関心に女性蔑視を垂れ流している男性に向けての発信に力を入れてもらった方が「男性が発信すること」の意味がある。
しかし、残念なことに、現実には、フェミニズムに関心を持った男性は、ちょっと聞き齧った程度の術語を振り回して女性に説教を始めてしまうことの方が多いし、フェミニスト鑑定士デビューしがちだ。そりゃあ、自分よりも弱い相手になら強気に出られて楽しいでしょうねぇ、と言いたくなる。彼らは、「(「女性」というカテゴリにおいて)より弱い立場の女性」の味方のつもりでいるので、自分が目の前の女性よりは強い立場だということを忘れてしまうのだ(そもそもあまり考えてなさそうにも見えるが)。
結局は、「男性である自分」ときちんと向き合う男性の方が発信を控えがちになり、「男性なのにフェミってる俺、すごい」系の男性の方が無駄に雄弁になるという傾向があって、ちょっとため息が出てしまうし、ミサンドリーが捗るね!
「女子スポーツ」と身体的性差の関係
この原稿を書いているときに、オリンピックにおける「女子スポーツ」の出場資格についての新しい方針について報道されたので、最後はその話をしておきたい。今回の決定を簡単に要約すると、SRY遺伝子という男性を特徴づける遺伝子の有無を調べて、これが陰性であれば女子カテゴリーに参加する資格が与えられる、ということだ。私は、この決定を支持する立場だし、女子スポーツの安全性と公平性を守るためにも必要な判断がやっと下されたと思っている。
「性別」をどう定義するべきか、という問題は場合によっては難しい。しかし、特に医療とスポーツに関しては、「生物学的性差」を重視せざるを得ないと私は考えてきた。それは、性別違和のある当事者にとってはつらい現実であろうと思う。しかし、医療関係者にとっても、身体的な性差は患者の命に関わるものだ。今世紀に入って「性差医療」の重要性が改めて認識され始めているが、同じ薬でも男性と女性では効果が異なることもあれば、同じ病気でも男性と女性で症状の現れ方が異なることもある。それは、身体的な現実であり、身体が物質であるが故の逃れられないものだ。
スポーツに関しても、男女の平均値に大きな差があることは事実である。これは「女性を弱いもの扱いする」ことではない。実際に「男女で身体に差がある」という事実に基づいて、可能な限り公平に、そして安全に、女性がスポーツに参加するためには、男女で分ける必要があるというだけの話だ。たったそれだけのことを主張することが(特にここ10年ほど)難しかったのは、ちょっと異常だったと思っている。
パリ五輪をめぐって
そして、この件に関連して、私には気になっていることがもう一つある。それは、パリ五輪でメダルを獲得したDSD(性分化疾患:Disorder of Sex DevelopmentもしくはDifferences in Sex Developmentの略)の選手に対する批判の仕方だ。
2024年のパリ五輪の女子ボクシングでは、その前年2023年に開催されたボクシング世界選手権において、性に関する検査で「失格」となっていた2人の選手が、66キロ級と57キロ級でそれぞれ金メダルを獲得した(国際ボクシング協会の「性に関する検査」とは、今後IOCで導入されるものと同様のSRY遺伝子の検査であった可能性が高い)。
私は、DSDの「男性の身体的優位性」のある選手が「女子スポーツ」に参加することには反対である。当事者の選手には気の毒ではあるが、競技の安全性と公平性という観点から反対せざるを得ない。しかし、SNS上で彼女たちを「男」だと決めつけたり、「トランス女性」と呼ぶような声があったこと、これはあまりにデリカシーに欠ける行為であり、きちんと批判されるべきだと思う。
確かに、彼女たちは、ある時点で自分がDSD当事者であることは知っていたはずで、その身体的優位性を知った上で競技に出続けていたことは、他の選手に対してフェアではないと思う。その点を批判するのはわかる。しかし、「女性として社会化された」人であるのは事実だし、「女性としてスポーツに活路を見出した」人であるのも事実だ。彼女たちは、出生時に「女児」と見なされ、女性として育てられた人なのだ。その過程で女性差別も受けてきたはずだし、スポーツの才能を見出されてからも「女のくせに」と蔑まれたり、「男女(おとこおんな)」呼ばわりされたりもしたのではないか、と想像してしまう。それを全て無視して、「“男“が女子スポーツに出ていた」問題のように語るのは、あまりに雑だと思う。
さらに、五輪開催中から気になっていたことは、アルジェリア代表のイマネ・へリフ選手ばかりが名指しで批判されることがあまりにも多かったことだ。おそらく同じ身体的優位性を持っている台湾代表のリン・ユーティン選手も金メダルを獲得しているが、彼女への言及は非常に少なかった。SNS上などに出回った動画の数などにも、おそらく大きな違いがあっただろうと思う。
私は、ここには(フェミニスト女性を含む)欧米のイスラモフォビアとアジア人の透明化という差別問題が深く関わっているように思う。欧米の(主に白人のキリスト教徒の)人たちの「差別」の傾向として、黒人やイスラム教徒に対しては攻撃的になり(本人たちはある種の自己防衛のつもりなのだろうが)、アジア人のことは空気か何かのように無視する、というのがある。ヘリフ選手への言及の多さとリン選手への言及の少なさが、まさにその傾向をそのままに反映しているように私には見えた。そして、その欧米中心の海外の議論をそのまま輸入することで、日本の女性たちも(アジア人差別を含む)その偏りをそのままになぞってしまってはいなかったか。
誰もが安全にスポーツに参加するために
自身が男性の身体で生まれたことを知っているトランス女性の場合とは異なり、彼女たちは「女性として生まれた」と思っていたはずだし、今もこれからも「女性として生きていく」可能性の方が高い。エリートスポーツへの参加ができなくとも、何らかの形でスポーツを続けたり、スポーツで生活していく方法というのは、社会全体で考えていかなければならないと思う。そして、誰よりも責められるべきは、「女子スポーツ」というカテゴリーの意味・意義を正しく理解せず、その安全性・公平性を守ることを考えてこなかった、IOCなどの「出場資格を与える側にいる人たち」ではないだろうか?
なぜ、こんなことが起こるのか?と言えば、「女子スポーツ」が「男子スポーツ」と比べて「二流」扱いを受けてきたからだ。サッカーなどを例にとっても、男子サッカー選手の年俸と女子サッカー選手の年俸には雲泥の差があるし、試合の中継や公式サイトでの扱いなども全く異なる。女子スポーツという「二流のカテゴリー」、そこで真剣にスポーツに取り組んでいる女性たちのことよりも、「先進的でリベラルな組織」という自分達の看板の方が大事だった(主に)男性たちが、女子スポーツの出場資格をいい加減に決めていた、その結果がわかりやすく可視化されたのが、パリ五輪の女子ボクシングだったのではないか。ルールを決定した彼らよりも「ルールに従って出場した選手」の方が激しい批判に晒されているのであれば、それも女性差別の結果なのではないかと思ってしまう。
最後に、IOCの新ルールの話にもう一度戻るが、「トランス女性やDSDの女性のスポーツをする権利を奪うのか?」という方向から、今回のIOCの決定を批判する声もある。しかし、考えてもみてほしい。ここ最近の身体的優位性を不問とする出場ルールは、「身体的優位性を持たない女性」がスポーツをする権利を奪っていた側面がある。オリンピックに限定して言えば、限られた出場枠を身体的に不利な条件で競わされ、出場を逃した選手の権利はどうでもよかったのだろうか。身体的なハンデを克服できなかった女性の努力不足だとでも言うのだろうか。そもそも身体的なハンデがあるという事実の指摘が「女性を弱者扱いする差別」だと断じる人たちは、参加の機会を奪われた女性たちの視点で考えたことがあるのだろうか。結局のところ、「女性」の権利が奪われる分には気にならないというのが、見慣れた女性差別だなぁと思う。女が譲れば万事解決、というわけだ。
「誰もが安全にスポーツに参加する権利」を考える場合、身体別のカテゴリー分け(ボクシングなどには、それに加えて体重別のカテゴリー分け)は必要だし、その分け方で取りこぼされる人たちに関しては、新たなカテゴリーを増設していく方が建設的だと私は思う。男女で分ける根拠がない分野もあるが、スポーツはそうではないのだから。
今回のIOCの決定は、遡及的に適応されるものではないし、世界中の全スポーツに適応されるものでもない。過去に機会を奪われた女性たちの権利は回復されていない。そういう意味で不十分な点はあるかもしれない。しかし、「フェミニズムはみんなもの」と唱える声が大きすぎて、女性の権利が後回しになっていく昨今の情勢の中で、今回の決定は小さな一歩ではあるが前進だと私は評価している。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
IOCの決定やオリンピックの選手に対する批判に関しては、私とは意見の違う人もいることだろうと思います。SNSに投稿してもよかったのですが、丁寧な議論が必要なデリケートな話でもあるので、切り取りや誤解で意図しない方向に捻じ曲げられると困るのと、スピード感に呑まれて自分の考えが見えなくなってしまう気もしたので、ニュースレターで書くことにしました。今回、自分にそれが出来ているとは思っていないのですが、この件に限らず、日本は、欧米や韓国のようなキリスト教文化圏ではないので、そのことを強みにした視点で問題を捉えることを意識していくのも大事かもしれないと感じているところです。
他にも、戦争のことやデモのこと、色々と書きたいと思ったことはあったのですが、どうもうまく文章にならず、不安ばかりが増幅して時間が経ってしまいました。SNSのスピードは不安を煽るし、情報も偏るので、意識的に距離をとっているつもりでも、やっぱり気にもなってしまって落ち着かないです。それでも、「女性差別」についても言葉にし続けていかなければ…という使命感もあるので、できる限り頑張りたいです。
ところで、今月46歳になりました。図々しいと思いつつも、Amazonの欲しいものリストを公開しております。物価の高騰や生活不安もあるので、可能であれば、無理のない範囲で何か贈って応援していただけると励みになります。よろしくお願いします。
ホルガ村カエル通信は、私(珈音)が気になる「フェミニズム周辺の話題」を拾ってお届けする不定期配信の個人ニュースレターです。配信後の記事は全て無料でweb公開しているので、「購読登録」をしなくても読めますが、無料購読の登録(メアド登録)をしていただくと、「購読者限定パラグラフ」付きのニュースレターがあなたのメールボックスに届きます。よろしければ、登録してみてください。
では、また次回の配信でお会いしましょう。
あ、Duolingoの仏語学習はいよいよ100日目が近づいていますが、めちゃくちゃ手探り感があります。私には日本式の「文法詰め込み」型学習の方が向いているみたいです!
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