女だから背負わされるもの

天皇制への複雑な気持ち
もはや存在を忘れられていそうなホルガ村カエル通信であるが、続ける意志はあるのでそろそろ月一配信を再開できるように頑張ってみようと思う。この数ヶ月、心身ともに忙しかった(忙しい)ので、なかなかまとまった文章を書いてまとめる時間と気力がなかった。今もまだ十分とは言えないのだが、まずは書き始めなければとPCの前に座っている。
今年の初めに高市自民党が圧勝してしまったことで嫌な予感はしていたが、国民の大半が望んでいない法案だけはぽんぽんと通ってしまった。「フェミニズム」周辺の話題を中心とする当ニュースレターとしては、今回は、やはり「皇室典範改正」について取り上げたい。
私は、天皇制については、いずれは廃止するべきだと考えている。理由は大きく2つある。まず第一に、日本の「イエ」制度は「国家」という言葉にも表れているように、国が「イエ」であり、天皇は「父(家父長)」の役割を担ってきたからだ。戦後になっても、この「国という大きなイエに国民が所属している」という考え方は、おそらく日本社会の慣習の中に残っており、天皇制とも強く結びついている。つまり、皇室は日本の家父長制の象徴でもある。だからこそ、「家父長制の解体」を目指す過程で、天皇制の廃止は必須だと思う。
そして、もう一つの理由は、人権侵害を許容すべきではないからだ。皇室に生まれることは「選べない」。子どもが親を選べないという点では、誕生というものは平等に理不尽なものだ。皇族であれば、衣食住に困ることはないのは確かだが、皇族であることで一般人にはない義務や責務もある上に、何よりも政治に参加する権利がない。今回の皇室典範の改正のように、自分たちの存続・あり方に関わる問題であっても、直接的に意見を表明することも難しい。「日本国の象徴・日本国民統合の象徴」として活動する一方で、その国の在り方には関与できないのが皇族だ。職業選択の自由にも制限がかかる。それは人権という観点から見て正しいと思えない。
その一方で、私は現在の天皇も皇后も一人の人間として尊敬できる人物だと思っているし、彼らが国賓を迎えることの安心感を手放しがたくも感じてしまう。すでに散々批判されているが、高市首相の若干距離感のバグった対応を見ていると、余計に皇室の面々の上品で洗練された立ち居振る舞いや皇后の多言語運用能力の高さにありがたさを感じてしまう。
女性天皇の意義
女性天皇は天皇制の維持と存続に手を貸すことになるから反対である、というフェミニストの意見がある(例えば上野千鶴子氏のこの記事など)。そのことは理解できるのだが、しかし、天皇制を廃止するというならば、どのような手順を踏んで皇族を一般人にしていくのか、皇居や皇室関係の土地や建物をどうしていくのか、憲法の第1条をどうするのか(そもそも天皇制反対と護憲をセットで主張している一部の左翼は矛盾してるよね…)、そういった具体的なロードマップもないまま、「男系男子に限る」を堅持することは、皇族の女性に「男児を産め」という重圧を課すばかりだ。実際に、女性天皇や女系天皇を意地でも認めないために無理やりな「改正」が行われたのが今国会であった。それは、「一時的には天皇制の延命につながる女性天皇を認める」ことよりも良い結果だろうか。
実際のところ、皇室の国民人気は高い。政策的には左翼的なものを支持している層にも皇室ファンはいるし、ノンポリ層の多くは「愛子天皇」を望んでもいる。私も自分の生きている間に女性天皇を見たい気持ちはある。皇太子(当時)の長子として生まれた、というだけの理由で、彼女に勝手な期待をし、重荷を背負わせることに申し訳なさも感じるが、最近の彼女を見ていると、そうした重圧も全て理解した上で自分の責務を果たす覚悟のようなものを感じる。
秋篠宮家に男児が誕生したのは、私が大学院生の頃だったと思う。当時、存命だった祖父は大喜びでそれを報じる新聞の一面をデジタルカメラで写真に撮っていた(新聞を撮るの、地味に面白いよね)。祖父は中国に出兵した世代だ。天皇家に対して私とは違う感覚だったんだなぁと実感した出来事だった。また、大学院関係の友人とは、「こうなったら愛子(敬称略ですみません)をフェミニストにして世界で活躍させるしかない」などと言い合ったものだ。しかし、社会一般においては、この男児の誕生は概ね好意的に受け止められていたように思う。そして、それこそが、皇室をめぐる議論を停滞させ、今回の結果を招いたと言うこともできるだろう。
私は、社会を少しでもよくするためには、不完全であっても、ベターな方を選ぶべきだと思っている。皇室は、いずれは無くすべきだと思うが、まずは女性天皇・女系天皇を認める形で皇室典範を改正するのがベターなのは間違いない。その上で、徐々に皇族の公務を減らし、関連施設を文化財として一般に公開するなどして少しずつ整理していき、国民が納得できる形で天皇制を廃止するには、300年くらいかかるんじゃないかなぁーと。自分が見届けられない未来の話を無責任にしている自覚はあるが、逆に「皇室の延命につながるから女性天皇に反対!」は責任ある大人の態度なのか?と問いたい。
おそらく、「愛子天皇」は、皇室人気を今以上に押し上げることになるし、天皇制廃止の議論など誰もしなくなるような気はする(今でもごくごく一部でしか話題になってないけど)。しかし、男児を産めという重圧から皇室の女性たちが解放されることは、女性全体の人権を考える上でも前進には違いないと思う。皇室に限らず、「後継息子」を望む「家」はまだあるのだ。天皇でさえ女性が継げるとなれば、後継として男児を産むことを期待(強要)される一般女性も減るだろう。国の象徴が女性で良くて、家を継ぐのが女性ではダメな理由があるか?と言えるようになる。その波及効果を甘く見ない方がいいんじゃないかなぁと思う。(まぁ、それはそれで「家」制度の延命ではあるんだけど)
「犠牲」になるのが男だとバグる男たち
そして、私が個人的にちょっとキレたのは、職場の同僚A(左翼の50代〜60代の男性)が「(愛子の)結婚相手が見つからないんじゃないですかね」などと言ったことだった。
Aは普段から微妙なことを言うので、面倒くさいからだいたいは無視している。しかし、今の皇后が外交官から皇太子妃になり、キャリアと自由を奪われて適応障害に苦しみ、その苦しみさえも「無責任」「公人の自覚が足りない」などと心無い批判に晒されていたのをリアルタイムで見てきた女性として、「結婚相手になりたい男性はいないんじゃないか」発言は看過できなかった。「なんでです?これまで皇室に嫁いだ女性も同じですよね?女性だったら、婚姻によって収入やキャリアを捨てさせられても仕方がないけれども、男性が同じことをさせられると問題だと思うなら女性蔑視だと思いますけど?」と、言い返す私にちょっと相手が引いたことがわかった。
ついでに「女性の皇族と結婚しても、その男性は皇族にならないそうだから、公務もできないからヒモですよね」だそうだ。「公務」ができないことは、「仕事」をしないことを意味しないと思うのだが、どうも本人的には「皇族の夫をヒモ呼ばわりしちゃう不謹慎ジョーク」くらいのつもりっぽくて救い難い(あと、左翼の男性たち、口では「多様性」を唱えている割に賃労働をしない男性を「ヒモ」認定することに躊躇がないのがすごいな、といつも思ってる)。
そもそもだ、別の同僚Bが、女性である私に「女性天皇についてどう思いますか」と尋ねてきたので、すでにここに書いたように「いずれは皇室そのものをなくすべきだが、現時点では女性天皇を認める方が良い」的なことを答えていたところだったのだ。普段から「教えてあげよう」が若干鬱陶しいAは、横から勝手に口を挟んできて、「僕もそう思います」などと聞かれてもいない自分の見解を私の返答に被せてきた挙句、「相手が見つからない」発言をしたのだ。いつもなら適当に笑ってスルーする私に言い返されるとは夢にも思っていなかったみたいだが、今後は舐めたことを言ったら、「これだから左翼の男は…」とか言ってわざとらしいため息でもついていこうかな…。
まぁ、それはそれとして、実際のところ、彼女に見合うだけの男性が日本国内にいるかどうか、という話であれば、そりゃあ難しいよねーとは思う。しかし、それは今の天皇の「お妃探し」が難しかったのと同じことであって、これまでだって別に簡単ではなかったのだ。
ところで、女性天皇が天皇制の延命につながるから反対だと言う上野千鶴子氏は、自身も相続のために婚姻制度を利用しているものの、元々は婚姻制度廃止派のはずだ。しかし、彼女は「初の女性総理を喜べない理由」として、高市が選択的夫婦別姓に反対していることを挙げていた。選択的夫婦別姓は婚姻制度の延命に繋がるのに、それはOKで女性天皇はNGな理由を知りたい。
私の知るフェミニスト女性の中には、婚姻制度そのものに反対だから夫婦別姓にも賛成はできないが、同姓を強要する今の制度のままよりはマシだから消極的には支持するけど…という温度感の人もいる。現に生きている人間が関わっている以上、なんでも白黒はっきりさせればいいものではなく、ベストではないが、ベターな方を消去法で支持するということはある。「女性天皇を支持する」のだって、諸手を挙げて「わーい!これで男女平等!フェミニズムの勝利!」だと信じているからだとは限らないのだ。アカデミアのフェミニストの言動を見ていると、市井の女性って馬鹿にされてんだろうなぁ〜という気がしてくるね。
昨年、イギリスのドラマ『ザ・クラウン』を全部見通した感想が「王族なんかに生まれるもんじゃないね」だった私なので、今回の皇室典範の改正で女性皇族は皇籍を抜けることは出来ないけど、相変わらず皇位継承権はないということになって、女性皇族はこれまで以上に「男児を産む器」と「公務で都合よく使える駒」の役割を押し付けられる形になったことはツラい。しかし、人間が作ったルールは人間が変えることができるのだ。
次の選挙で超保守派(彼らは「保守」というより「極右改革派」かなぁと思ったりもするが)を弱体化させるには、戦争反対や憲法守れよりも「愛子天皇を実現させよう」の方が効果があるのではないか?と思うと同時に、「あああぁぁぁ、皇室に生まれてしまっただけの何の罪もない女性に、私はどこまで重荷を背負わせる気なんだぁぁ〜」と自己嫌悪にも陥る。しかし、矛盾を抱え、葛藤をしながらでも、0か100かではなく、10でも20でもマシな方に進むための議論をしなければいけないと思う。
「母と娘」というテーマ
皇族の「男児を産め」という重圧の話もしたので、改めて、「子どもを産まないという選択」に関わる話を少ししておこうと思う。翻訳家で批評家でもある鴻巣友季子さんによると、2020年代になって、母と娘の物語というテーマが世界的に盛り上がっているらしい。あの村上春樹の新作も初の女性主人公で母との関係が描かれているという。私は村上春樹作品に通底するそこはかとないミソジニーが苦手で短編をいくつかしか読んだことがないレベルなのだが、熱烈なファンを持つ大作家が取り組んでみたいと思うほどに「母と娘」というテーマが「熱い」のだな、と理解した。
一般的に、母と娘の関係というのは難しいとされている。母親にとって、同性であるが故に、娘は息子以上に自分自身と重ね合わせて見てしまう存在で、「自分と同じ失敗をさせないように」干渉したくなる存在なのだろうし、その一方で「自分の生き方を否定されたくない」という気持ちが娘への干渉に繋がる場合もあるのだろうと思う。
私個人の話をすると、母は私のことを「娘」というよりも「友達」として育てたので、一般的な「母からの干渉」のようなものはかなり少なかったようには思う。ただ、子どもを子どもとして扱わないことも、また、それはそれで問題なんじゃないか、と自分が大人になった今だからこそ感じてもいる。
とはいえ、自分が歳を重ねながら、その都度、「母はこの歳で私を産んだのか」とか「この歳の頃には中学生の娘がいたわけか」などと考えると、そりゃあ、大変だったろうなーという想像もつく。夫(私の父親)は、家事育児にはほぼノータッチの「働くお父さん」で、世間体や常識を気にはするけれど、目の前の自分の娘のことはあまり見えていない人間だったし、母の母親(私の祖母)は早くに亡くなっていたので、子育てについて身近に相談できる人もいなかったのだ。その中で必死だったことも理解できる。それでも、今になって、「なんであんなことを私に言ったの(したの)?」と恨み言を言ってしまうことはあるし、今だからこそ何が嫌だったのかを言語化して認識できることもある。そして、それは「私はあなたではない別の人間である」ことの確認でもあると思う。つまり、母がどういうつもりで言った(やった)のかを説明されるのではなく、「嫌だった」という「私の感覚(気持ち)」を尊重されたいのだろう、と。
母親から「子どもを産むべき」と言われることの重さ
まぁ、色々言っても、私は母に、「女らしくしろ」と言わずに育ててくれたことや「女の子だから」という理由で何かを制限しないでいてくれたことを感謝している。その影響もあってか、私は世間一般の「女性なら誰でも身につけている常識」に欠けているところがあり、そのことで少々苦労してきたのも事実なのだけどね。
そんな意識があるので、ちょっと母と娘の関係について書いている本でも読んでみよう、と図書館で目についた『逃げたい娘 諦めない母』を借りてみた。朝倉真弓さんによる「母の支配に苦しむ娘」の物語(フィクション)と信田さよ子さんのコラムから成る本で、とても読みやすかったので、母親との関係に悩んでいる女性に(そのことに罪悪感を抱いている女性にも)おすすめしたいのだが(以下のリンク先の幻冬舎plusで部分的に読めます)、私自身はこの物語の主人公と「結婚や恋愛に対する親の干渉」という部分でほとんど共通項を持っていない。言い方を変えると、この物語の「母親」は私の母親とはあまり似ていなかった。
私は、子どもの頃は「私もいつかは結婚してお母さんになるんだろうな」と漠然と思っていたけれど、それは世間から吸収したイメージで、自分の母親からは「子どもを産む」ことを推奨されたことは、ただの一度もなかった。むしろ、いかに、出産がつらかったか、生まれた赤子の命が自分にかかっていることが怖かったか、という話を聞かされていた。異性の友達を作るなとも作れとも言われたことはなかったし、結婚しろとも「子どもを産まなければ半人前である」のようなことを言われたこともない。
本を読みながら、「世のたいていの女性たちは、こんな風に親から言われるものなのだろうか?」と少し不思議にさえなった。一方で、知人や友人から「子どもを産むなら早い方がいい」とか「(結婚したから)次は早くお母さんにお孫さんを抱かせてあげないと〜」とか言われた経験はあるので、家族ではない人にさえそんなことを言う人たちが、自分の娘に言わないはずはないだろうなぁとも思う。
前に「産まない生を生きる選択」という記事でも書いたのだが、私が明確に「自分は子どもを産まない」と決意したのは30歳過ぎてからで、私にとっては、それはさほど「難しい一大決心」ではなく、自分の身体や経済的状況や性格などを考えた結果、たまたま決意したのがその頃だったという程度のことだ。そして、「その程度のこと」だと言えるのは、多分、母親からの「子どもを産むべき」というプレッシャーがゼロだったことと大いに関係があることを、本を読んだことで理解した。
ちなみに、母からのプレッシャーは、むしろ「面白い人生を生きること」で、なんか普通のこととか平凡なことを選ぶのはいけない気がしていた。そのおかげで(そのせいで?)、無謀にも奨学金という名の借金をしまくって大学院へ行き、普通の就職をせずに非正規雇用でピーピー言っているという面は絶対にある。面白く生きているが、もう少し普通に、新卒一括採用で就職する道を選んでいたら…と思うこともある。
母は私の人生に大きな影響を与えているが、しかし、私が30過ぎても実家暮らしで「結婚を前提にお付き合い」している男性がいなかった時も、突然結婚すると決めた時も、そのことには特に何も言われなかった。多分、それは珍しいことなのだろうとなんとなくは思っていたが、今回たまたま手に取った「誰もに当てはまる普遍性があります」とされる女性の物語に、この点でほとんど共感するポイントがなかったことで、それは確信に近いものになった。
母親が抱えるプレッシャー
せっかくなので、母親側の視点から書かれたものも読もうと思って手に取ったのは、前から気になっていた、オルナ・ドーナトの『母親になって後悔してる』だ。イスラエルの社会学者であるドーナトのこの研究は2022年に翻訳された時にも話題になったと記憶しているが、「母親になったこと」を後悔しているイスラエルの女性たち23人へのインタビューを元にした研究をまとめたものだ。
「産まないと後々後悔するよ」という言葉は非常にしばしば耳にする(私も見ず知らずの他人からSNSでリプライされたこともある)が、「子どもを産んで後悔している」という発言は表にはほとんど出てこない。「母になった後悔」は、その結果、存在している子どもの否定とも受け取られかねないため、語られにくい。しかし、何事にも「やって後悔」の可能性はあり、「出産」だけが例外的に「後悔とは無縁」であるはずがない。ただ、それを語る言葉や場所がほとんどないだけなのだ、ということがよくわかる本だった。
あと、イスラエル社会には「女性は子どもを3人(以上)産むべき」という圧力があるらしく、日本社会以上に女性たちは「子どもを産む」という「選択をすること」を迫られるのだろうと思った。イスラエルと言えば、まずはパレスチナに対する残虐行為を思い浮かべてしまうが、イスラエル国内に目を向けると、想像以上に女性への抑圧が強いことを知り、少し意外にさえ思った。イスラエルは女性にも徴兵制がある国だが、それは男女の性別役割分担の解消とはあまり関係がないようだ。「母親」に期待されること、「父親」に許されていることは日本社会と変わらず、日本以上に「大家族」を望むことが普通とされている。「女性兵士」や「徴兵制」に関しては、このニュースレターでも、いつか詳しく考えてみたいと思っているのだが、「軍事への女性の進出」は扱いが難しいと改めて思った。
自由意志で選んだように見えること、形式的には「同意」していることが、実際には本人の意志に反する妥協や諦念の結果であることについて、私はこれまでにも、特に性売買や性暴力に関連して書いてきたが、女性の人生において、「出産」もそうした強制力によって選ばされるものの代表かもしれない。
母性神話の解体を目指して
もちろん、すべての母親が意志に反して母親になったわけではないことは言うまでもない。私の友人にも「妊娠を経験したい」とずっと言っていて母親になった女性もいるし、子どもを持ちたくて婚活をした知人もいる。しかし、私の母などは「女性は結婚と出産をしなければならない」と思っていたから、見合い結婚をして子どもを産んだのであって、積極的に「選んだ」わけではない。で、その結果、私は存在している。
補足しておくと、私は、自分が「望んだタイミングで出来た子どもではなかった」ことを知っているが、それが「母が私の存在を望んでいない」ことを意味するわけではないことも知っている。ドーナトの本でもこの点については様々な形で丁寧に分析されているが、「母親であることの後悔」と「子どもが存在することの否定」は一致しない。私はそのことを理解はしている。ただ、ふと感情的になる時、「ちゃんと避妊してくれていたら生まれてなかったのになぁ」と思うことはある。母が二人目を産んだとしても、あのタイミングでなければ、それは「私」ではなかったのだから。それが良かったのか悪かったのか、時々わからなくなるが、存在してしまっている以上、私は生きていくために考え、考えたことを文字にしている。私は昔から書くことだけは比較的得意だったので、これが誰かの気持ちの整理や言語化に役立つことを願いながら。
AIに文章を書かせる人がどんどん増えて、そのうち人間の書く文章の方がAIの文章の影響を受けていくのかなぁ〜などと思う昨今なのだが、言葉にできない後悔に言葉を与えたり、「母親であることは後悔しているけれども子どもの存在は愛している」というような複雑な感情を理解したりすることはAIにできるのだろうか。というか、そういう気持ちを人間が自分で言葉にする努力を怠っていると、やがてその複雑な感情を抱くことさえできなくなってしまうのではないか。私たちは言葉で世界を描写し、言葉で感情を腑分けしているのだから。時間がかかっても表現しにくくても、言葉を探してなんとか伝える努力をしなければならないんじゃないか、と思う。
そして、このテーマに関連して、もう一つ、非常に重要だと思うことは、「母親であることを後悔している」と同時に「子どもを愛せない」ということだってある、と社会が認めることだろう。「子どものことは愛しているけれど」という前置きがなければ「後悔」を語れないということ、その背景に何があるのか。母性神話の解体のためにも、「子どもを愛せない母親」への支援、そして何よりも「その子ども」への支援はどうしたらいいのか、それを具体的に考えるためにも、「母親とは無条件に子どもを愛するものだ」=「子どもを愛せない母親はおかしい」という思い込みから、この社会が自由になる必要があると思う。そして、「父親の不在」についても、もっと議論されるべきだろう。
だんだん母と娘の関係というテーマから離れてしまった気もするが、この夏は「母と娘」をテーマにした小説も読めたらいいな、と思っている。
見解を表明しない自由
前回の配信でも書いた通り、私は現在、脱SNSを試みている。ただ、SNSでしか繋がっていない人たちもいるし、多少の息抜きや情報収集的には続けている。先日、久しぶりに旧Twitterの通知の来ない(フォロー外の)リプライなどをチラッと確認したところ、「あなたはフェミニストなのに、〇〇については何も言わないんですか?」というアンチフェミらしき人物からのコメントが来ていた。それで、「あー、これだよ、これ。もうSNSをやりたくない理由の一つが」と思い出した。
まぁ、そのリプライについては、「はー?なんで"フェミニスト"が意見するべきだと思ったの?」という案件だったし、"フェミニスト"と思しきアカウントに絡みに来ているだけのクソリパーなので、どうってこともない。それよりも、大枠で見れば同じサイドにいるはずの人たちから「意見を表明すること」を強いられることに疲れているのだ。
フェミニズムが流行り始めて以来、つまりここ10年くらいで、意見の表明を(しかも、"彼ら"の気に入る文言ですることを)要求されることが増え、SNSが「個人の発信」から「集団への帰属表明」の場に変えられてしまったことが、私がSNSでの発信にあまり意味を見出せなくなった理由だ。まったく残念で仕方がない。
いわゆる「フェミアカ」をやっていて、「フェミニストなのに〇〇に言及しない人は信用できない」とか「フェミニストなら〇〇に関して発信するべき」とか、そういう系統の投稿を一度も見たことがない人はいないだろうし、私もよくTLを見ていた頃は週一くらいで見かけていた印象がある。みんな、相互監視と密告が好きだよね、そういう社会を批判しているはずの人たちも。
もちろんね、「何か発信してほしい」と思うこともそれを表明することも自由なのだが、相手が自分の思い通りに行動しなかったからといって、突然縁を切ったりDMを晒したり攻撃したりする人がいるので疲れるのだ。割とマイペースな私でも、「何か言わなければいけない」という重圧に負けて、今から思えば自分の心情とは必ずしも一致していない文言を投稿してしまったことがある。それが嫌なのだ。
最後に、久々の配信なので映画の話もちょっとだけしておこう。最近になってやっと『私がビーバーになる時』を視聴した。カエルの造形がイマイチ(腕の動き方が変)なところが気になったものの(面倒くさいカエル好きクラスタですみません)、映画全体としてはとても可愛くてコミカルで、それでいてメッセージ性もあって、ポジティブで超よかったので、割とみんなにおすすめしているのだが、改めて、ピクサーは「男社会」なんだろうな、と思った。というのも、ピクサーの映画は父と子の関係は割とテーマになっているのに、母と娘の関係を描かないから。今回の映画の主人公のメイベルには母親もいるのだが、ほとんど出てこないし、全く印象に残らない。メイベルを育てて見守るのは祖母なのだ。
日本のアニメでも感じるけど、「女性は少女か老婆」ということが、男性の作るアニメーション映画(に限らないけど)には結構あると思う。中年の女性が描けない、いてもリアルじゃない(聖母か娼婦、みたいな)。あれは、なんなんだろうね?
まぁ、しかし、母と娘の関係は難しい。ときに、女性自身の手にも余るテーマを男性が描くのはだいぶ無理なので、無理なことをやって悲惨な結果を出したりしないという意味ではピクサーは手堅いとも言える。
あ、そうそう、『私がビーバーになる時』は、『鳥』とか『ジョーズ』のような古典ホラー映画へのオマージュもあって、そこも良かったとこ。英語オリジナル音声でしか見ていないので、吹き替えはよくわからないのだけれど、声優(俳優)陣も豪華で、しかも「これ、絶対すごく楽しんでやったろうな」みたいな感じがあってハッピーな気持ちになれるところもおすすめポイント。
ピクサーと言えば、実は『トイストーリー』を一作目しか見ていないので、この夏に5が公開されているタイミングで一気見した方がいいかな…などと思ってもいるところだ。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
めちゃくちゃ久しぶりになってしまって、自分でも吃驚なんですけど、このまま自然消滅させてしまうのは悔しいので、少しずつでもまた配信できるようにしていきたいと思います。本を読んだり映画を見たりしているので、ニュースレターの冒頭で「時間と気力がない」とか言っていた割に、時間あるじゃねーか!と思われそうですが、動画をスマホで細切れ再生したり、隙間時間に本を読むことはできても、他人に読んでもらうことを前提とした長文を書くには、ちょっと足りない感じなのです。とりあえず仕事の繁忙期は乗り切ったので、来月も配信することを目標に頑張りたいです。
ニュースレターは読んでくれている人のリアクションが見えにくいので、感想付きのSNSシェア、マシュマロ投げ、コメントなどしていただけると大変励みになりますので、よろしくお願いします。
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