わきまえている女にだけ与えられるそれは「人権」ではない
"マシ"な生活を選ぶ自由しかない不自由
これまでにも何度も繰り返されてきた気がするが、リベラル左翼界隈である出来事や言動への批判が高まっているときに、一歩引いたところから「でも、それを批判することは○○である」と批判への批判をするリベラル左翼が現れる。もちろん、それ自体は悪いことではない。様々な意見が出てくること、批判者が見落としている視点を提供することは、問題を正しく把握したり議論を深めたりするために有効なことも多いからだ。一般的に、個々人は「森羅万象を担当」できるほどの時間も能力もないので、ありとあらゆることに詳しい人間などほぼいないし、少ない情報から判断を誤ることもある。専門的な知識のある人のコメントや有益な追加情報が提供されることは重要でさえある。
ただ、その「一歩下ったところから」発せられる苦言が誰の口から出たものなのかによって、周囲の反応は異なる。界隈で一目置かれているような男性が「その批判は近視眼的だ」と苦言を呈すると、それまで元気に(場合によっては先頭を切って)批判していた人たちが突如「批判者の批判」に回ってしまうこともある。逆に界隈で煙たがられているようなひとが批判の問題点に言及すると、「分断を図っている」「邪魔」「ヘサい」と罵倒されたりする。実に権威主義的だなぁと思う。
タリバンの「女性差別」への反応も、この「いつものあれ」を繰り返しているように見える。
タリバンによる政権再奪取が目前に迫った頃、つまり、アメリカ軍の撤退がかなり進んだ頃から、「アフガニスタンの女性たちの今後」について心配をする声が目に付くようになった。私自身がアフガン情勢に精通しているわけではないし、私の得る情報は"欧米の価値観"を共有しているジャーナリストによるレポートからになる。それは必ずしも「中立」ではないだろうし、そもそも「完全に中立なレポート」などというものは不可能と言ってもいい。
しかし、それを差し引いて考えても、この20年で前進した「女性の権利」が脅かされるであろうこと、場合によっては教育を受けて自立して生きようとしている女性たちの命の危険があること、少なくとも現地にいる女性たちがそう感じ取っていることは事実だった。それは文字や動画でリアルタイムで伝えられてきていた。
いよいよ首都カブールが陥落する頃には、自分のツイッターのタイムラインのかなりをこの話題が占めていたように思う。みんな、女性たちの今後を心配し、タリバンの蛮行に怒っていた。
しかし、間もなく、「欧米の価値観だけで判断してはいけない」「現地には現地の文化がある」「タリバンは変わったかもしれない」と言った、タリバン批判を牽制する声も増え始めた。特に、現地で長く生活して人々を助けてきた中村哲さんに2001年に取材した記事(の再録)が読まれていたように思う。
中村さんの活動には敬意を持っているし、彼の言わんとすることも理解は出来る。しかし、女性の置かれている状況については、彼の見立ては間違っていると私は感じた。女性は、男性が支配する社会で、いつだって生きるために「マシな方」を選ばなければならない状況に追い込まれている。戦争の中で生活するよりは、地域の長老たちに従って男性に認められた範囲での知識を得て、男性に認められた範囲での外出をし、子どもを育てるのに困らない環境を提供される方が生存確率が高くてマシなら、あえて楯突こうとなかなか思えないだろう。そもそも自由に学んで自分の人生を生きるという選択肢がない社会で、なんの決定権も与えられていない女性に他に何ができるというのだろう?「マシな方」を選ぶ際の選択肢こそ違うが、日本でも結婚して子どもを産むのが当たり前という社会的圧力が今よりも強かった時代の女性たちは、それなら「マシな方」を…とそれなりの条件の結婚を選んだのではなかったか?
また、中村さんが射殺されたことで2019年に再録されたこのインタビューが実際に行われたのは2001年であり、20年前なのだ。この20年間で女性たちの置かれた状況は大きく変わったはずだ。中村さんが現地を見て「言論統制もない」「恐怖政治ではない」と判断していることからも、タリバン政権は男性たちにとっては古くからの因習・習慣に沿った穏やかな日常の延長であったのかもしれないと推測もできるのだが、果たしてそれは女性にとってもそうだったのだろうか?そもそもが「古くからの因習・習慣」というのは女性差別的であることが多い。タリバンが特段女性差別的なのではなくて、もともとの習慣を明文化しただけ、というなら、それはもともとの習慣が女性差別的だったというだけの話で、だから「問題がない」ということではないし、「女性差別ではない」ということにもならない。
だから、タリバンに批判的だったひとたちが中村さんへのインタビュー記事を読んだことでトーンダウンして、「確かに自分は現地のことを何も知らないし、欧米の価値観で女性差別だと断罪してはいけないかも…」となっていくのが不気味だった。
アメリカの「帝国主義」と民主主義
タリバンの報道官が「恩赦」を宣言して、女性もシャリアの認める範囲内で自由に活動できると発表をしたことで、「タリバンはこの20年で変わったのではないか」という楽観的な意見や「今後の政権運営を見てから批判するべきだ」といった声も出てきていた。
確かに、まだ相手がやってもいないことで相手を批判するというのは、一般的に言えば問題がある。しかし、報道官の言葉を疑う理由はあれど、信じる根拠はあまりないのだから、私たちに出来ることのひとつは、彼らがやりそうなことをあらかじめ批判して牽制することではないだろうか。
残念ながら、バーミヤンの遺跡破壊でもはっきりしている通り、国際社会からの批判など意に介さないで彼らは自分たちが正義と信じることをやるだろうとも思う。それでも、誰かが犠牲になってから批判すればいい、と言えるのは自分が犠牲者になる可能性がない人間だけだ。
私が現実にタリバンの兵士によって殺されることはないだろうが、「誰でもよかった」と言いながら女性を狙う男によって殺されるかもしれないという社会に生きている。そして、そうした「女性を狙った犯行」が女性蔑視に基づく社会の問題として扱われないことの恐怖も知っている。「冷静に状況を見守ろう」と言えるほど他人事とは思えない。
そもそもイスラム教文化圏にアメリカ式の民主主義や男女平等をそのまま持ち込んでも…という意見もそこそこ出てきているように思う。確かに「これが正しい政治のあり方だ」と一方的に上から暴力的に押しつけられたら反発するのも当然だが、では、男女平等は欧米やそれに追従する国々でのみ達成されればいいものなのだろうか?本来は時間をかけてでも個々の社会が少しずつ民主化していくこと、女性の権利を取り戻していくことが理想なのだろうが、それではあまりに時間がかかりすぎるし、その間、虐げられている人々の人権はどうなるのか(だからといって武力を用いて相手国を強引に民主化することが正しいと言いたいわけではない)。
日本社会を見ていても、女性差別的な社会が変わるのには時間がかかることがわかる。選択制夫婦別姓でさえこれだけ難航しているのだ。アメリカによって「押しつけ」られなかったら、女性が参政権を得るためにどのくらいの時間を必要としただろうか?そして、女性の参政権がなかったら、女性の権利を向上させることにつながる法の制定や改正なども行われないままだったのではないか。それを世界各国が「まぁ、アジアにはアジアの伝統があるから」と座視していたら、世界からも見捨てられた気持ちになるんじゃないかなぁと思う。
ただ、アフガンの情勢を考えるときに、それは単純にタリバン(の価値観)vsアメリカ(に代表される欧米の価値観)の話だけしていればいいわけではない、ということは考えないといけないとは思う。後にタリバンを生み出すことになる勢力を育てたのはアメリカだし、アメリカにそうさせたのはソ連だし…歴史の中で大国の思惑に翻弄され踏みつけられてきたアフガンで生きる人たちにとって欧米諸国の「民主主義」が決して諸手を挙げて歓迎できるものではないのは当然とも言える。20年あっても根付かなかったことには、宗教的なもの以上に歴史的な理由があると思う。
無血開城であったカブール陥落に際して、「男性にとって女性の人権を差し出すことなんて大したことじゃないもんな」と私は思った。ただ、戦闘になったとしても、おそらく民間人も含めて多くの犠牲を出したうえで政府軍は負けていただろうし、そうなった場合に、撤退すればそれで済む米軍とは異なり、彼らは同じ土地で生活しなければいけないわけだし、抵抗すればしただけ報復を恐れなければならなかったはずだ。報復の対象は、実際に戦闘に出た人間(おそらく男性)だけでなく、家族にも及ぶだろう。アメリカ軍が撤退を決めている状態で首都に迫られた時点で、勝敗はついてしまっていたと思う。
私は護憲左翼なので、基本的には武力の行使に強く反対する立場である。同時多発テロ後のアメリカのアフガン侵攻が自衛行為として正当な範囲内だったのかにも多いに疑問だ。ただ、現実に武力をもって押さえておく以外に弱者の権利を守る手だてがないケースにどう対応すべきなのか、正直に言うと迷いがある。日本の集団的自衛権行使に反対してきたけれど、では、目の前で危険に晒されている弱者がいるときに何ができるのだろうか、と。残念ながら武力でしか守れない場合もあるのではないか、と。
アメリカ軍が駐留を続けていれば、女性たちの権利と自由は守られた可能性が高いけれど、じゃあ、一体いつまでその状態を続けるべきだったのか。20年はひとりの人間の人生においては長いけれど、国家や歴史にとっては短い。特に民主主義は時間がかかる。独裁であれば、独裁者が決断すればすべては素早く進行するが、民主主義はそうならないように時間がかかるように設計されているからだ。
利用される善意と強要される感謝
女性が自分のために自分自身の人生を生きること、は今の日本でだって簡単ではない。女性のことを「母体」としてなら大事にする諸制度、女性を「無償のケア要員」としてカウントすることで成り立っている長時間労働、若いときは「経験不足の無知な女」として軽んじられ、歳を重ねたところで「歳をとって小うるさくなった(見た目も劣化した)無知な女」として馬鹿にされる(男社会は女性の経験を「経験」とは考えずに「お気持ち」として処理してしまうので、年配であっても女性は「経験豊かな人間」と見なされることはないのだ)。経産婦は「家事育児しかできない頭の悪い女」扱いされ、妊娠・出産を拒否すれば、政治家から「社会にとって価値がない」などと言われる。
人間は、社会的な動物なので、本当に完全に自分のため"だけ"に生きることはある意味ではできないかもしれない。しかし、それとは全く異なる次元で女性の自由には制限がかけられている。それは、「女性の繊細さ」「女性ならではの気遣い」といったプラス評価される社会的な役割の刷込みによるところが大きい。たいていの人間は自分が役立たずだとは思いたくないし、なんらかの形で役立って承認を得たいものだ。その女性の「認められたい」という気持ちも社会から利用されていると思う。それは、利用している側にも利用されている女性側にも、時には全く意識さえされていない。女性の自由を奪うのに、必ずしも恐怖政治は必要ではないのだ。
アフガンの情勢を受けて、「日本の女性は命の心配をせずに自由に生きられているのだから男性に感謝すべき」と言っている男がいたのだが、「男に感謝」しなければいけないという発想がすでに女性は男の支配下でのみ生きるべきという彼自身の考えをよく表わしていると思った(小田急線内における女性を狙った殺傷未遂事件なども起きたばかりで、「女性が命の心配をせずに自由に生きている」と言えるのかどうかという問題があるが、ここではその話はしない)。
女性が自由に生きられることは当然の権利であって、誰かに感謝しなければいけないことではない。強いて言うならば、女性の権利のために闘った過去の女性たちこそが私たちの感謝の対象であって、男に感謝すべきことなどない。
「シャリアの範囲内での自由」それは、要するに「わきまえている女にはある程度の権利を認めてやる」ということであり、「わきまえている女」であるかどうかを判断するのは男である。男が認める範囲内での自由など自由ではない。かの地にどんな歴史的背景があろうと、宗教的にどんな理屈をつけようと、女性が自由を奪われてよい理由などないし、女性の自由を奪うことに理解を示してたまるか!と思う。
最後に2019年のハフィントンポストの記事を貼っておく。この記事で「自分は警察官として生きていくしかない」と語った女性警察官は今どうしているのだろう。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
集団的自衛権や武力の行使については、まだまだ自分の中で答えが見つからないのですが、自民党主導の(家父長制を強化するための)憲法改正には反対の立場なのは変わらないので、コロナ禍のどさくさで憲法改正へと誘導しようとする動きには引き続き警戒をしていきたいところです。
当ニュースレターは、フェミニズム周辺の話題を中心に映画や音楽のことも扱っていくというコンセプトですが、毎週(下手すりゃ毎日)のように女性差別関係のニュースが目に入ってくるので、映画や音楽の話を呑気にできるときはくるのか???と自分でもよくわからなくなりつつあります。まぁ、そもそも呑気な話はツイッターでしとけよ、という気もしますし、こんな感じで今後もぼちぼちやっていきたいと思っています。よろしくお願いします。
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