【再録】《友だちなら怒るのは当然》の罠
今回の【再録】は、2018年5月30日にfc2ブログに発表し、その後、一度noteにも転載しているのですが、似たようなことが繰り返し起こる問題なので、改めてこちらでも配信します。
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2018年、5月26日土曜日、性暴力加害者の男(添田:活動名「高橋直輝」)の死が公表された。と同時に「偲ぶ会」の開催が広く告知され、私のTLにはその人物をたたえる言葉がいくつも流れてきた。
被害者による告発は以下のリンクを参照してほしい。
この件で、私が怒りのツイートをしたことに対して、「死が公表された日に言うことじゃない」と言う人がかなりいたし、その後も、左翼とされる人からは私は「死者に鞭打つ人非人」と認識されているようである。
参考までに、以下に私の当日のツイートの一部を引用しておく。
結局、自分の起こした性暴力加害行為についてまともな謝罪もせずにお仲間から庇われたままで。今後は生前の彼の素晴らしい行いについてツイートされるんでしょうね!
グループDMとかライングループとかでゾーニングしてやっててくれよ。
加害行為をした相手に、もう、償わせる手段がないことの悔しさがわからないんだね。
ところが、昨日(2018年の5/29)になって、被害者の友人が「被害者は孤立している。故人を讃えるだけでなく、加害行為についてもなんらかのコメントを出して欲しい」と言う内容のブログを公表すると、次々とRTされ、添田の加害行為について多少は批判的なコメントをする人も出始めた。
それに加えて、FBで被害者の友人であることを公表している人の投稿に「友人であるあなたが怒るのは当たり前だ」とコメントしている人がいて、腑に落ちたことがある。
彼らは「添田の性暴力被害者本人やその近しい友人が怒るのは当たり前だけれど、そうでない人の怒りの表明は単に《男組》や《しばき隊》憎しでやっていることだ」と思っているのではないか、と。
「友人が怒るのは当然」これは一見間違っていなそうに見えるし、たしかに親しい人が被害者であればまた別の感情も湧く。そのこと自体は否定できない。怒りの種類や感情の動きに差が出ることは確かだろう。しかし、怒ること自体には、友人かどうかは関係ない。被害者や加害者との心理的距離で、行った行為への評価が変わってしまうのは非常にまずいと思う。
「被害者が友人だから怒る」は「加害者が友人だったら庇う」とすごく距離が近い。
庇っているつもりがなくても、何も言わないこと、糾弾しないことは、被害が(加害行為が)なかったことにするのと変わらない。彼がSNS上で言及されることもない人間であれば、親しい友人同士で「あいつは本当に困ったやつだったけど、憎めない奴だった」と思う存分思い出を語ればいいと思う。しかし、それを生きている被害者の目に入る場所でやるのは無神経だろう。山口達也の件で、被害者そっちのけで山口の「功績」を挙げて「応援」している人がいたことを、批判していた人も多いだろう。それと同じことだと思う。
そして、追悼という行為は、基本的に遺された人間たちのためにすることだ。特に、急に思える「死ぬには若い年齢」での死について、人間は受け入れるのが難しい。追悼の言葉、哀悼の言葉は、生きているものの心を鎮めて、その死を受け入れる儀式だ。
彼は一人暮らしで一人で亡くなった。
つまり、SNS上に溢れる追悼の言葉は、彼の友人や仲間が自分たちのための吐露している感情だ。まずはそれを自覚しないといけないのではないか、と思う。
親しかった人間の死を受け入れるために必要な行為そのものを、私は批判しているわけではない。しかし、生きている人のために行うことには優先順位があるだろう。被害者をこれ以上傷つけないために、最大限の配慮をすることは、センチメンタルな感情の吐露という極めて個人的な行為と比べてどうでもいいことだろうか?
そして、これは被害者と加害者の個別具体的なことであると同時に、多くの性暴力被害者にとっては性暴力を社会がどう捉えているかを見せつけられることでもある。
「自分たちの被害は所詮その程度に見積もられているのだ」と思い知らされるのは、とてもキツい。まともな謝罪も十分な反省もしなくても、加害者が死んでしまえば「もう水に流せ」と思われる程度のことなのか、と。加害者と親しい人たちのセンチメンタルな気持ちに水を差すようなことを言うのは控えろと言われねばならない程度の「私のお気持ち」問題と思われているのか、と。
私は「何を言っているかと同じくらい誰が言っているかも大事」というのは、その瞬間「良さげ」なことをいっていても、普段クズなことばっかり言ってる奴だったら単なるまぐれ当たりの時があるから気をつけよう、という意味だと思っているんだが、「仲間や友達が言っているか否かで評価を変える」になってしまっている人は思った以上に多いのだな、と実感する。
たしかに、被害者の告発を嬉々として拡散していたアンチもいたし、彼らが添田の件で批判者を一律に警戒したがる気持ちも少しは理解する。しかし、山口敬之のレイプドラッグ案件については安倍落としの材料として批判するけれど、添田の強制わいせつ行為についてはろくに批判もできなかったり、批判の仕方にイチャモンをつけたり、あろうことか批判者に恫喝まがいのことを言うなどあまりにもひどいと思う。
なお、「そうは言っても彼には市民運動での功績がある、お前はツイッターでごちゃごちゃ邪魔してるだけ」などと言われているであろうことは想像に難くないので、一応言っておくが、私は2012年6月から2017年9月まで、ほぼ毎週欠かさず反原連の当日スタッフとして金曜官邸前抗議に参加していたし、カウンターや都庁前抗議にも行っていた。(国会前でのデモの)給水所を始めたメンバーの一人だったし、自分の知り合いや家族を誘ってデモや抗議に参加してもらったりもしてきた。「目立とうとせずに頭数になること」の大事さを強調しながら、目立つことをした人しか評価しないというのは随分めちゃくちゃだと思うのだが、私はおかしいのか?
最後に、私は被害者を代弁しているわけではないし(そもそも、そんなことはできない)、添田と親しい人たちを貶めたいわけでもない。私は私として、私のこととして性暴力に怒っているし、性被害を軽く見積もる社会に怒っているし、こうしたことが社会運動に関わっている「リベラル」を自称する人たちにさえ理解されないことに怒っている。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
ちょうど3年前の話なのですが、まだ3年しか経ってないのか…という気持ちと、もう3年も経ってしまったのか…という気持ちが半々くらいです。知人から「あの時の(リベラル男たちから私への)殺気は凄かったよ」と言われる件なので、再録配信すべきか結構迷いましたが、3年経っても性犯罪・性暴力に対する社会の認識はたいして変わっていないので、いつでも参照できるところに再録しておくのは悪くないと考えました。
次回はまた少し楽しい話題をお届けできればと思います。
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