《おじさん好き女子》だった私の話
性が絡むとトチ狂う男たち
前回はたまたま性交同意年齢引き上げに関するテーマを選んでみたら、立憲民主党の本多平直議員の「自分が14歳と同意の上でセックスして捕まるのはおかしい」発言がリークされて、図らずして超タイムリーなニュースレターになってしまったわけだが、本多議員はじめ「14歳の子どもとセックスをする」ことを想定する大人たち(主に男性)のトンチキ発言が次から次へと出てきて、「豊かなセックス」とか霞むな…(いや、霞んでないけど)みたいな一週間だった。
本多議員はじめ、政治家は立法府で働くひとなわけだから、法律の専門家である。政治家には法学部卒のひとや元弁護士も多い。私のような門外漢よりも法律のもつ力や法律が悪用される危険性についても考えてきたからこその発想もあるのだろうと思う。しかし、「成人はいかなる理由があろうと子どもと性交してはいけない」が国家権力によって悪用されるケースというのは例えばどんなものがあるのか、皆目見当がつかない。いろいろ考えてみたが、思いつかない。
政敵を少女と一緒に監禁して「この子とセックスしないと殺す」と脅して写真を撮っておいて逮捕!みたいなことでも想定しているのだろうか?それとも、14歳の少女に「もう成人している」と嘘をつかせて政敵に近づけて誘惑させるとか?
性犯罪の報道をすぐに「冤罪かもしれない」「ハニトラだ」と言いだす連中なら考えそうなシナリオだが、ハニトラにかける側が「未成年に性交を強要」という法律違反を侵すことになるわけなので、非現実的ではないだろうか?また、少女の方から言い寄られたとして、14歳と成人の見分けがつかない成人男性が果たしているだろうか?さらに政敵に陥れられるくらいなら、20歳そこそこの若造ではないはずなので、そうなるとやはり若くて40代くらいになるはずなので、子どもが子どもであることを見抜くこともできず、子どもの誘惑に乗ってしまうのはどうなのか?っていうか、そもそもそのハニトラに使われる子どもの人権は???やはり悪用の可能性を考えるのには無理があるのではなかろうか?
そもそも日本は「性犯罪」とされるものが「性加害」のうちのごく一部だけである、というのが問題だと思う。男性たちは知らず知らずのうちに性加害や性加害に準ずる言動を平気でしている。その後ろめたさがあるからこそ、「すべての男が性犯罪者じゃない!」といちいちいきり立ってしまうのではないか、と感じることもある。
「最近はなんでもセクハラって言われちゃうからなぁ〜」「行き過ぎたフェミニズムはよくない」といった発言も、自らの言動がもしかするとセクハラに該当するのではないか?フェミニストが批判している言動を自分も「悪気無しに」やっているような気がする…と自覚があるからこそ出てくる発言だと思っている。
残念だが、自覚の通りそれはセクハラだし批判される言動なので反省して欲しい。
子どもは自分が子どもであると自覚していない
14歳の少女が50代の男性に恋をして性行為をしたいと思う可能性について、一生懸命考えている男性たちがいるので、私が中高生くらいの頃、どんなだったかを思いだしてみたい。もちろん、大人になった私が振り返って考えているので、そこには記憶の書き変えなども起こっているだろうし、本当に14歳だった私と話せば、もっと背伸びして「大人っぽいと思われそうなこと」を露悪的に言うようにも思うが、とりあえず、男が想像する中高生女子の思考よりは現実の中高生女子の思考に近いのではないかと思う。
私は母からはかなり幼い頃からある意味で「子ども扱いされずに」育てられた。具体的には、「子どもだからまだわからないだろう」ではなく、悪いことをすれば何が悪いのか説明され、「まだ子どもだから」で他の子どもたちが許されそうなことでもかなり怒られたものだった。また、母が面白いと思うことや関心のある物事や「知っておくべきだ」と考える物事については、早くから本やテレビ番組(NHKのドキュメンタリーとか)なんかも見せてもらっていたし、ラブシーンのある映画なんかも普通に一緒に観ていた。それゆえに、周囲の同級生を「子どもっぽいなぁ」と思ってしまう子どもだったし、自分のことは「大人と対等に会話できる子ども」だと勘違いしている子どもだった。
さらに、私は「父親が嫌い過ぎる」というファザコンなので、男性に父親っぽさを求めがちなところがあるものだから、当然、中学や高校の頃はいわゆる《おじさん好き女子》でもあった。なお、中3のときに好きだったのは、帝劇の『レ・ミゼラブル』でジャベール姿がカッコよかった村井国夫である。♪ぶち込むぞ〜鉄格子〜
というわけで、《まあまあ早熟な、おじさん好き女子》という、今回の議論で「14歳女子のセックスする権利!」とわめいている男性が喜びそうなキャラ、それが中高生だった頃の私である。オーマイガー!
では、そんな当時の私の「セックスについての知識」を振り返ってみたい。勃起したペニスを膣に挿入する、ということは知っていた。しかし、私はそれがどういうことなのか、実はよくわかっていなかった。
私は習い事の関係で生理ナプキンが不便だから小学生の頃からタンポンを愛用しており、膣の場所も知っていたし、膣の中にモノをいれるのがそう簡単ではないことも知っていたので、「入れるたって、ガチでここに入れるんじゃないよね?だって、映画のラブシーン見ててもこんな狭いところに入れてるように見えないし(←アホ)、そんな痛そうなことするわけないよね」となんとなーく思っていた。というか、具体的な行為についてはあまり考えたことが無かったのだ。
そんな私のハッピーな勘違いをぶち壊してくれたのは1995年劇場公開映画『ショーガール』である。私が見たのはテレビ放映されたときなので、おそらく1996年か1997年だったと思う。主人公ノエミの親友がレイプされるシーンもだが、ノエミが合意の上でするセックスもかなり暴力的で「なにこれ怖い」と思った。なんとなくフワフワとロマンチックなラブシーンとは全く異なる、暴力的な侵入、身体への侵犯として描かれるセックスは本当に恐ろしかった。私は身体的な恐怖を覚えた。この映画そのもののせいなのか、見たタイミングのせいなのかはちょっとわからないのだが、「こんな恐ろしいことは一生しなくてもいいかもしれない」と思うくらいには、視覚的な記憶というよりも身体的な恐怖として体験された記憶になっている。
同じ頃から、私の中で「絶対に子どもを産みたくない」という気持ちが固まり始めていた。痛いのが嫌だし、子どもを育てたいと一ミリも思えなかったから。そして、そもそも高校生のうちにセックスをしなければいけない理由がひとつも思い当たらなかった。スキンシップは子どもの頃から大好きですぐに親戚の大人や友だちにはりついて「くっつき魔」などと言われていた私なので、キスやハグはしたいという気持ちはかなりあったけれど、セックスは妊娠のリスクがある。そんな恐ろしいことはしないに限る、という気持ちはあった。一方で興味が全くないかと言えば微妙…。そんな感じだった。
そして、妊娠のリスクについては多少考えていたのだが、性感染症についてはほとんど知らなかったと言ってよい。子宮頸癌がセックスによって感染するウィルスによるものだということも知らなかった。フィクションにおける「安全日」だったらコンドームはしなくてもいいかのような描写に疑問も持たずにいたし、日本では「ピル」が認可されていないことも知らなかった(日本における低用量ピル認可は1999年なので…1980年生まれの私の高校時代はギリギリ認可前)。
そんな状態だけど、恋愛をしたらいつかはセックスもするもんらしい…セックスというのは何やら素晴らしいものらしい…というぼやぁーっとした情報は入ってくる。が、同時に私は「だいたいの男はセックスさえできればいいと思っている」「男は基本的に馬鹿である」と母から教えられていたところもあるので、逆に「とにかくセックスがしたいだけの馬鹿な男は嫌だな」と思っていたし、愛読していた姫野カオルコのエッセイにも「ただがつがつやりたいだけの同級生男子なんかより担任の先生を好きになってしまう女子がいるのは当然」みたいなことが書かれていた(雑要約ですまん)。
《おじさん好き女子》のリアル
そんなわけで、同級生の男子には警戒心を発動しつつ、そういう肉欲をうんと歳下の教え子に発揮する教師が少なくないことには丸っきり警戒心が足りないままの高校生だった私は、担任のA先生(30代後半)が好きだったり、担任ではないB先生(多分50代!)が好きだったりした。
「ほら、中高生が50代を好きになることはあるんだ!」となぜかドヤって喜ぶ男がいそうな気がするが、そこで「じゃあ、先生と付き合ってセックスしたかったのか?」となると、ちょっと違うと思う。「そういう対象として自分を見ていないだろう」という安心感込みで"おじさん好き"女子を公言できていたところがあると思うから。
そもそも「付き合う=セックスする」という思考回路がなかったというのもあるし、同級生の間で人気のある男性教員はだいたい既婚者で自分の子どもをかわいがっていて生徒に性的な視線を送ってこないひとだった。実家暮らし(一人暮らし)で生徒との距離が妙に近い男性教員は「(ドラマの)『高校教師』になりたいんじゃん?」などと言われて気持ち悪がられていた記憶がある。A先生は若干そのタイプだったので、一部の女子からは完全に「キモいおじさん」扱いされていたのだが、一方で、私のいた進学校には馴染まないところがあるひとで、進学する気がないのに進学校に通っていた私にはなんとなく「仲間」に見えていたのだ。その後、A先生は私のクラスメイトのひとりと噂になったりもしていたが、結局、特に何もなかったらしく、その後はよく知らない。ちなみに、A先生については、ある出来事で「なんだ、こいつ、子どもっぽいな」と失望して以来、どーでもいい存在なんだが、周囲が「受験頑張るぞー!偏差値高い大学に入るぞー!」を至上の価値としているような学校で、全然それに乗れなかった孤独な(笑)女子高校生には、素敵な大人に見えてしまってたわけだ。うーん、子どもだったな、自分。
B先生には卒業後も年賀状を書いていて毎年返事ももらっていたのだが(注:当時は全教員・全生徒の住所氏名電話番号の載っている「住所録」が配布されていたこともあり、生徒が教師に年賀状を書くのもそこまで珍しくなかったんだよ)、ガラケーが普及し始めた2000年頃から、先生は毎年ケータイ番号をわざわざ手書きで書き加えてくるようになった。私はケータイを持たないまま大学を卒業した人間なので(たぶん、学年で持ってないの私だけだったと思う)「B先生ケータイ持ってるの嬉しいのかなぁ」などと能天気に思っていたのだが、もし、私がケータイを持っていて、なんとなく電話でもかけてみていたら…と考えるとけっこう危なかった案件かもしれない、と実は3日前くらいに気付いた(遅いよ!)
B先生はピアノが弾けて何カ国語も話せて話が面白くてカッコよく見えてたけど、卒業したとはいえ、自分の娘でもおかしくない年齢の女子にケータイ番号教えて何を求めてたのだろーか?と考えると、全然カッコよくないな。
現実には何も起らなかったけれど、もし、A先生のお気に入りがクラスメイトの別の女子ではなくて、私だったなら?もし、私がB先生に電話をかけていたなら?私は自分がやっていることの意味も相手の本当の姿も認識しないままに、求められたら応えてしまっていたかもしれない、と思う。クラスの子どもっぽい男子なんかじゃなくて、持ち家もある大人の男性から恋愛対象と思われていることに有頂天になっていたかもしれない。
B先生は少なくとも、高校在学中の私にはアプローチしてこなかったわけだし、これは性交同意年齢云々とは直接には関係ない話かもしれないが、自分の警戒心の無さを振り返ると、できる限り大人が子どもを守る意識を持たないといけないと強く思う。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
ここに書かなかったその他のエピソードも実はあるのですが、とりあえず今回紆余曲折あって立憲民主党では「16歳に引き上げる」という方針に決まったようなので、16歳でもけっこう危ういよ、ということを考える材料になればいいなと高校時代の話を中心にしてみました。
性交は、必ずしも「恋愛」とセットである必要はないし、逆に言えば「恋愛」だからといって必ずしも性交とセットにする必要はないはずです。「真摯な恋愛」を口実に未成年との性交を正当化させないためにも、このことは繰り返しておきたい。「性にオープン=先進的」みたいな馬鹿リベラルに《保守的》と言われようと、子どもは性的対象ではなく、性についてもその他のことについても身体の安全を保障された状態で充分に学ぶ機会を与えられるべき存在だ、とこれからも主張していきたいです。
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