ジェンダー平等は余裕のある人の趣味なのか
ジェンダーという単語
ある年齢以上のひとで、性別格差に関心をもっているひとの中には「ジェンダーとは身体的な性別とは異なる、社会的に構築された性差のことである」と認識してきたひとは多いのではないかと思う。
女性差別は、女性身体を理由としているように見せかけて、その実、女性身体に与えられた社会的な役割を根拠としていることも多い。そのため、身体性(「身体の性別」という意味ではなく「フィジカルな」という意味)と切り離した「社会的な性」という概念の登場は、様々な女性差別を分析し、批判する際にも多いに役立つものだった。
しかし、近年、このジェンダーという単語は必ずしも「社会的に構築された性差」のことを指して使われるわけではないようだ。考えてみれば、「ジェンダーギャップ指数」というのは、男女格差のことを意味しているし、「ジェンダーバランス」はある組織の構成員の男女比のバランスのことを指して使われる。つまり、ジェンダーが「性別」のような意味合いでも使われていると考えていいと思う。
最初に「ジェンダー平等」と聞いた時、gender equalityの和訳であることは理解したものの、なんとなく違和感があった。「社会的に構築された性差」というのは、基本的には支配階級(男女で言うなら「男性」がそれに当たる)にとって都合よく構築されていることが多く、社会が変われば微妙に異なっていたりもする。そのような「社会的に(意図的に)構築された性差」(もう少し噛み砕いて言うなら「男らしさ」「女らしさ」のようなステレオタイプのようなもの)はなくしていくべきものだと考えてきたので、それを「平等」にする、というのは(言語的に)正直意味がわからんと今でも少し思う。
とはいえ、ジェンダー問題にかなり力を入れている東京新聞の以下の社説から引用すると、「ジェンダー平等は男性と女性が平等に権利と機会を持ち、意思決定に対等に参加できる状態」を指すので、それを「ジェンダー平等」という言い方で表現することの是非はともかく、その言葉が意味する内容は、社会が目指すべきものだと考えている。
また、毎日新聞掲載の弁護士の伊藤和子さんによる記事の中でも、「ジェンダー平等」は、女性の貧困といった問題の解決に欠かせない、ということが述べられていることからも、ジェンダー平等という単語は男女格差の是正(もっとハッキリ言うなら女性差別の撤廃)とセクシュアルマイノリティの権利擁護の両者を包括する単語として選ばれているのだろうと考えられる。
「フェミニズム」をとりまく状況
ここ数年、日本は久々の(?)フェミニズム・ブームだ。いや、日本に限らないのかもしれない。ハリウッドセレブの脱アンチエイジングなども話題になっているし、世界的にフェミニズムは熱い。日本に特化した話をするなら、フェミニズム的な話題に大量のアンチフェミが食いついてくる状況になっていることも、フェミニズムが流行っている証拠だろうと思う。(5年前くらいまでは、むしろ普段は「女性差別に反対です!」みたいなツイートに「いいね」している左翼男が、自分たち自身も批判の対象になっていることに気付いて謎のブチ切れをかまして噛みついてくる程度だったんでな…。)
「美」の規範を拡散してきたようなファッション系メディアまでもが、脱アンチエイジングや脱整形に向かうハリウッドの女性たちを時代の最先端として取り上げているし、働く女性向けには「卵子凍結」「代理母出産」という《選択肢》が提示される。そうしたメディアに登場する「フェミニスト女性」は、ハリウッド女優などを筆頭にモデルやアナウンサーなどの華やかな職業の女性だったり、「お子さんを育てながら仕事でも成功している」女性だったり、自分らしく生きるために独特な生活をしている女性だったりするように思う。
日本は、残念ながら、女性に期待される役割がまだまだ「妻」「母」「性処理要員」「介護要員」のままの社会だ。その中で、女性のロールモデルとして提示されるのが「仕事も家庭も!」タイプであったり、「将来的には子どもを産む可能性も考える女性」であったりするのは、仕方がないのかもしれない。しかし、たいていの女性の仕事は華やかでもなければ賃金も高くない。将来のために卵子凍結という選択肢を取れる女性・代理母出産を利用することでキャリアアップへの足枷から自由になることを選べる女性が、実際に、どれほどいるだろうか?また、昨今の低賃金化・非正規雇用の拡大により、子どもを持つことが経済的にも難しいひとも増えているのが現状だし、そもそも女性にだけ「家庭・子ども」と「仕事」の選択を迫ることのおかしさへの指摘がまだ足りていない。
女性の身体に関わる問題で言えば、フェムテックへの注目も高まっている。「持続可能な社会へ」という目標を掲げるのは正しいことだし、これはもう個人の努力レベルでどうこうできる段階を越えている部分も大きいので、早急に政治的な解決が求められると、私は考えているが、それでも「生理の貧困」が問題になっているときに、月経カップだの布ナプキンだのを推奨されることには怒りを感じる(前々回のニュースレターでこの辺りのことを書きました)。
生理についてオープンに話そう、もっと知ってもらおう、という試みがポップに行われたり、使い捨てない生理用品について大々的に紹介される記事がでたり、商品開発を追った番組が放映されたり、こうしたことも「フェミニズム」の盛り上がりと無関係ではないと思う。
「これまでフェミニズムのことは難しいと思っていた。」「フェミニストは怖い女性だと思っていた。」というタイプの女性たちが「フェミニズムと出会って私は変わった!」とポジティブに発信し、書籍を出版したりする動きも活発だ。そういう女性たちに励まされて、これまでは自分で発言することを躊躇していた女性たちも声をあげるようになったことも素晴らしいと思う。
そうした女性たちの多くは野党支持者で、野党共闘を応援して、なんなら応援演説にかけつけたりもしていた。
それにもかかわらず、「ジェンダー平等」はあまりウケなかった。
過酷な現実と遠い理想
私個人の考えを述べるなら、ジェンダー平等は理念として掲げる言葉としては大切だが、もう少し具体的に「男女共同参画」方向の言葉の補足が必要だったのではないだろうか。というのも、既に述べたように、メディアで取り上げられるジェンダー平等といった話題では、「私らしく生きる✨」「仕事も恋も諦めない✨」「代理母出産でキャリアアップ✨」みたいな自己実現方向のイメージが湧きやすい気がするからだ。
「自分らしく生きられること」は大切だが、多くの女性たちは最低賃金だったり、非正規雇用の不安定な立場での生活をしており、「自分らしく」よりも「まずは生活すること」に必死という場合も多い。そういう人に、「ジェンダー平等を実現します」はどこか遠い話に響いてしまわないだろうか。(もちろん、仮に自分に関係がないことであっても、「だからどうでもいい」と考えることは良くないけれど、今の日本の貧困率は深刻なので「そんなことより金をくれ」というひとがいても責められないのではないか。)
以下の『プレジデント オンライン』の記事で、田中俊之さんは「意識高い系の言葉では響かない」と述べており、概ね賛成なのだが、それに加えて、やはり日頃のメディアにおいてジェンダー平等が取り上げられるとき、そこに「等身大の特に目立つわけでもない女性」が不在なのではないか、ということを私はさらに付け加えたい。
女性は人口の半分を占める。人数が多いから、女性であると言っても様々な階層があり、様々な文化圏で生きており、なかなかひとまとめにできない面もある。
セクシュアルマイノリティのように、「社会に存在しないことにされてきた属性」の人々が、これまでもずっと存在してきて、今もすでに一緒に生きていることをきちんとメディアが取り上げることは重要だ。これまで存在しないことにされていた属性の人々が、存在することを前提にインフラや社会制度の見直しが必要なことは言うまでもない。
しかし、その一方で「そこにいるのが当たり前なのに、あたかも存在しないかのように扱われ、奴隷階級として社会制度に組み込まれている属性」である「女性」については、なんとなく「女性差別があるからなくさないとねー」くらいに認識されてはいても、「存在していることを前提に差別的な社会が構築されている」分、実は差別のあり方が巧妙で見えにくいということが意識されていないようにも思える。人数が多いことは、被差別階級になりにくいことを意味しない、ということが女性差別に関してだけは忘れられがちに思えてならない。男性からだけでなく、女性自身からも。
「女性の貧困」「生理の貧困」「母子家庭の貧困」「未婚女性の貧困」は確かに以前よりも記事などになっているが、それを「ジェンダー平等」ときちんと結びつけて取り上げている記事はどのくらいあったのか。まだ、それがジェンダー平等と切り離せない問題であるということが、その情報を必要とする層に届く形で発信されてきただろうか。
ジェンダー平等という言葉が、たとえばryuchellさんのような「従来の男らしさ」から自由な男性と結びつけて語られるときの目立ち方と比べて、女性だからという理由で差別され、その結果、生活が苦しい女性たちの生活の改善や機会の平等の問題と結びつけられてきた印象がとても薄い。この点を大手メディアは自省すべきではないか、と私は思うのだ。もちろん、野党の「打ち出し方」にももっと工夫があった方が良かっただろうが。
「フェミニストは被害者意識ばかりだ」とネガティブにいわれることもあるが、実際に差別される側、被害にあっている側が被害者意識を持つことは当たり前ではないのか?それをことさらに責めるのは、女性差別があることで直接的・間接的に利益を得ていることをうっすら意識させられることから来る良心の呵責の裏返しななのかもしれない。まぁ、そもそも良心があるのかどうか知らんが。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
11月の衆院選の結果を受けて、また少し話題になることが多かった「ジェンダー平等」という表現について、私が前から気になっていることを少しまとめてみました。忙しく生きている女性たち、今の政治では支援すべき対象と見なされない女性たちにとって、政治を変えることはとても大事なことであるにもかかわらず、そうした女性たちの方を向いた発信があまりにも少ないのではないか、と思います。
私は、女性差別は社会構造に深く組み込まれているがゆえに、差別解消には社会が大きく変わることが求められると思っています。だからこそ、常に大きな反発に晒されるし、何かにつけて女性差別は矮小化され、後回しにされているのでしょう。
女性差別に関しては、政治的信条などはあまり関係なく、この社会に生まれ育ってしまった時点で、無意識のうちに身につけてしまう習慣のようなものなので、意識することが難しい面もあるのだろうと思いますが、それにしても「女性差別に反対してます」男の自分の女性蔑視との向きあえなさは異常だな…とあれこれ見ていて思います。
では、また次回のニュースレターでお会いしましょう。
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