映画『哀れなるものたち』〜女性の性の自己決定をめぐって〜(仮)

「これぞ真のフェミニズム」と評する人も「これはただのフェミニズム映画ではない」と評する人も見落としている気がする性描写の滑稽さについて、そして、「女性の性の自己決定」の難しさは「家父長制的な教育」ばかりに原因があるわけじゃないよね、ということを考えました。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2024.02.16
誰でも

※ 映画『哀れなるものたち』がとても良かったので、ササッとおすすめのニュースレターを書こうと思ったのに、最終的に1万字を超えてしまったので、普通のニュースレターとして配信することにしました。

 すでに映画賞の受賞やら各種評論での絶賛など充分にオススメされているので、まぁ、私が勧めるまでもないんだが、せっかく観てきたので感想と共に、ざっと見たところ他の人があまり触れていないように思う点について書いてみたい。当然のことながら、内容にも触れるので「ネタバレ絶対回避派」の方はご注意を。

「これはフェミニズム映画ではない」

 まず、なんと言っても美術・衣装が見ていて楽しかった。モノクロではじまり、主人公のベラが旅に出ると同時に鮮やかなカラーに変わるのだが、その色遣いと造形の全てがうっすら不気味なのにポップでキュート。そして、ときどき挟まる独特な視点のカメラは、小さな箱の中に写し出される映像を覗き見しているような感覚を覚えさせる。「誰かが外から見ている」ことを暗示しているのかとも思ったけれど、特にそういう物語的な繋がりはないので、見終わった後に「未回収の何かが残っているような落ちつかなさ」も感じた。
 ラストシーンを「ハイタッチしたくなる」「晴れやかなフィナーレ」と評している人たちもいたが、私にはヨルゴス・ランティモス監督作品に共通する「人間への不信感」と「人間に対する優しさ」が一つの画面に集約されていたように感じられたし、決して「めでたしめでたし」でもないところが、見終わった後まで色々考えさせる映画であるところも魅力だと感じるので、18歳以上の人にはぜひおすすめしたい。

 エログロ耐性が求められる、という意見もある。エロに関しては、確かに性的描写は多いけれど、エロいのか?と言われると、個人的には「滑稽」という印象で、エロスは全然感じなかった。少し前に、公共交通機関のキャラである女性運転手のポーズ・表情・設定が男性のキャラと比較して、過度に「女性性」を強調されているのではないかという批判があり、ちょっとした炎上になっていた時にも思ったのだが、どうも最近の日本語文化圏では「肌を露出していない=エロではない⇒だから問題がない」という感性の人がまあまあいるのではないか、と。で、それを逆転させると、「肌を露出している=エロい」になるのかも…と思った。
 『哀れなるものたち』では男女ともにけっこう威勢よく露出してるけど、真面目な話、あれ、エロい?ちんこぶらぶらしてんのとか、どーんと裸で寝てるのとか、エロい?ランティモス監督の映画は、割と男の性欲をマヌケに描く印象が強いし、今回も性的描写が物語にとって重要であるから尺は取っているものの、不必要にエマ・ストーンの裸体を鑑賞物として晒すような撮り方はしていないし、どちらかと言うと男性側のマヌケさを際立たせているように私には見えた。もちろん、それでも性的描写そのものが無理だという人もいると思うので、肌色率は高いよ!と言うことで。
 「18禁なんだからエロいに決まってんだろ?エロくないなら未成年に見せてもいいんですかー?」とか言い出す人もいそうだけど、ゾーニングって色々な側面から考えていくものだから、エロくないならOKとかそういう話でもないと思うし(性描写が多いのは事実だし)、この映画の場合は「女性の性の目覚め」をある程度は大人になった視点で見ることも求められると思う。

 次にグロに関してだが、自分ではそうでもないと思っていたのだが、私はどうやらグロ耐性がまあまああるらしい。というのも、「え?グロいとこあった?」などと言って、一緒に観に行った同居人に「いや、一般的にはグロいとされる描写はあったよ」的な指摘を受けた。ベラの「親代わり」であるゴッドは外科医なので、特に最初の方に解剖の場面も多いし、ホルマリン漬けの内蔵などもいっぱいあるので、苦手な人にはそれなりにキツいかもわからない。ただ、モノクロで撮影されているので、少しグロさが緩和されるようにはなっていたと思う。
 私は、怖いものが苦手なので、長いことホラー映画は避けていたのだが、例外的にゾンビ映画はOKだったので、『ロンドンゾンビ紀行』『ゴール・オブ・ザ・デッド』『インド・オブ・ザ・デッド』など各国ゾンビ映画もそこそこ劇場で観ているのだが、ホラー映画好きの同居人に言わせると、『ロンドンゾンビ紀行』は血糊の多さでは割と上位らしく、実は私は血糊多用映画には耐性があるっぽい。うーん、でも、ゾンビは痛くないしさ、『哀れなるものたち』の場合、死体の解剖だから、痛くないし…(拷問シーンとかの方がリアルに痛さが想像できて嫌じゃない?)

 さて、この映画も「フェミニズム映画」として語られており(実際にそれはその通りなのだ)、例によって(『バービー』の時と同様に)男性が「ただフェミニズム映画としてだけ捉えていいのか?」と言っていたりするのだが、「フェミニズム映画」にだけえらく高いハードルを用意したがる人が出てくるのが、いかにも女性差別が解消されてない社会だなぁと実感する。
 たとえばの話、男性登場人物が中心の映画に対して「この映画のテーマは確かにヒューマニズムではあるが、それだけの映画として捉えていいだろうか?」とかいちいち言うか?と考えてみてほしい。あるいは、Black Lives Matterというスローガンに対して、All Lives Matterと被せることが、“黒人差別に抵抗する運動“という固有の運動のパワーを奪うことになるように、「フェミニズム」の話をしてるときに、「男性差別はいいのか?!」「これは男女関係なく…」などと割って入ることは、“女性差別の話“を“その他諸々の差別“の話にズラしてしまうことになる、ということをよく考えてみてほしい。

 まぁ、映画批評は様々な視点から為された方がいい面もなくはない。ただ、そもそも「フェミニズム映画」とか「女性エンパワメント映画」が、単純に「女が男を支配する社会の肯定」を描いていることって稀では?ギャグやミラーリングとしてはあるけど、「普通の」フェミニズム映画で、「最終的に男女の力関係が逆転しました、よかったね」というものはないと思うんだが…(あるなら教えてほしい)。そして、そういう「普通の」フェミニズム映画が高い評価を得ると、(男性)評論家は「これは単なるフェミニズム映画ではない(キリッ)」と言い出してしまうのではないか。もし、そうなのであれば、(男性)評論家たちはもう少し自分の女性蔑視とじっくり向き合った方が良いと思うよ。

ここから先は内容にかなり踏み込みます。

詐欺師は人を騙すのがうまい

 エログロ耐性の話でも少し触れたが、ここからは「ベラの性の目覚め」に関連して考えていることを書いていきたい。女性の性の目覚めは、映画内でも女性としての自我の確率、精神的・肉体的な自立と深く結びつけて描かれており、多くの評論(感想)において「良識ある社会」つまり家父長制から自由であることとも関連付けて肯定的に語られていることが多い気がする。それは、ある面ではその通りだと思うが、「良識ある社会」の薫陶を受けずに育った(育っている途中の)子どもであるベラの自由さは、ベラが自身の身体的リスクを理解する妨げにもなり得る。

 退屈な屋敷の中から、外に連れ出してくれるダンカンは、もともとは適当に遊んでベラを捨てるつもりのクソ野郎だが、ベラにはそれは見抜けない。ダンカンの金をすべて他人に渡してしまい、パリで路頭に迷った末に、ベラは娼館で働くことにするのだが、彼女は娼館のシステムを知らないし、セックスに性感染症や妊娠というリスクがあることもおそらく知らない。そもそもダンカンとしかセックスをしたことがないベラは、自分が楽しめないセックスが存在することさえ知らない。もちろん娼館で働く女性たちが社会でどのような扱いを受けているのかも知らない。そのベラの視点に寄りそう形で映画は撮られていることもあり、娼館で働く女性たちが差別的に描写されるところがないのは非常に良いところだ。そして、その一方で、娼館のシステムについては決して肯定的には描いていないところも良いのだが、これには異論が出そうなので、なぜ、私がそう考えるのかを以下で述べる。

女性の経済的自由と自信

 まず、ベラが娼館で働くことに決めるときのやりとりで、経営者(女性)はベラ(身体は成人女性だが、脳は子ども)が「何も分かっていない」ことを承知の上で、働くことの利点を述べている。その後、ベラが、一回限りでなく、娼館に住み込んで働くことに決める場面でもそれは同様だ。まぁ、どんな仕事であっても、わざわざマイナス点を強調して求人することはないので、当たり前といえば言えなくもないが、現在の性産業の女衒の手口にも通じるもので、娼館で働くことを「性の目覚め」や「女性の経済的自立」と結びつけて肯定的にばかり評価するのはちょっと無理があると思う。

 次に、娼館の顧客たちは基本、全員マヌケに描かれている。ベラは「セックスして(気持ちよくなって)お金も稼げるのか!」(男性の勘違い妄言みたいだ…)と思って最初の客の相手をするのだが、いきなり挿入して数秒で終わる行為に笑いを堪えるのに必死だ。ベラが悲壮な様子を見せたり泣いたり嫌がったりしていないことで見落とされているようにも思うが、端的に性売買というものが男の性欲しか肯定しておらず、被買春女性(※)は射精する穴に過ぎないことが示されているシーンだ。ベラは驚きつつも、初めて自分で稼いだお金でエクレアを買って満足そうに頬張る。それまで男たちに勝手に庇護下に置かれて、自由を制限されていたベラにとって、それがどれほど大きな出来事であったか、自信に繋がる出来事であったかは想像に難くない。

※ 「被買春女性」:「買う男性」を不可視化しないために森田成也氏が用いている表現で、今回のニュースレターの内容を考えても「セックスワーカー」よりもこちらの方が実情を表す言葉として適しているので、この表現を使います。

選択肢の無さと選択権の無さ

 男に頼らずとも、自分の力で稼いで生きられるのだ、ということは女性にとって重要なことだ。しかし、その女性の稼ぐ手段が極端に少なく、無一文で言葉もあまり理解できない土地で突然男の庇護下から離れざるを得ないときに、性売買くらいしか稼ぐ手段がないのであれば、それは【女性の選択肢の無さ】であって、「女性はイージー」どころか「女性だからこそのハードさ」でしかないだろう。ベラの性の目覚めを肯定的に捉えるあまり見落とされるのか、単に性産業批判は面倒だから避けているのか、映画にとっては小さなことに過ぎないからなのか、この辺りに言及している人があまりいない。なお、その後の客も、「体臭が酷い」「性行為を息子に見せて性教育」などそれぞれにマヌケで、ランティモス監督が買春客に容赦ないところに好感が持てる。

 次に、ベラが娼館のシステムに疑問を呈するシーンについてなのだが、「女が男を選んだらどうか?」「どうしても耐えられない体臭でも断れないのか?」などのベラの率直で素朴な疑問に対する経営者の答えは、折檻(ここでベラは耳を噛まれる)と泣き落としである。泣き落としの際も、経営者は「客から30フラン取って、私に20フラン(10フランだったっけ?)持ってこい」(ベラを勧誘したときにも説明している内容)と繰り返す。これは観客に「女性を働かせて経営者がピンハネする」という娼館のシステムを再度思い出させる効果を持つ。女性には選択権がないことをベラが理解させられる場面に、そのような台詞が出てくるのだから、やっぱり性売買については肯定的とは言えないだろう。

 また、唯一、ベラに同調した女性は、その場で「(そこに来ている客に)無料で口でサービスしろ」と命じられて拒否する権利はない。その女性も「自分で働くことを決めて」そこにいることは間違いない。しかし、「口答え」すれば無給での労働を強いられるような立場であることがわかる(なお、経営者の女性は「色々あった末にここにいる」感があり、かつては搾取される側だったのであろうことが暗示されており、彼女への視線には優しいものがあると思う)。

 「そうは言っても、ベラ自身は誇りを持って仕事をしているように描かれていた」という反論もありそうだが、被買春女性本人の意識と「性売買の構造」はまた別の問題なので混ぜるな危険。そして、すでに述べたように、自由を制限されていた女性にとって「自分の手で自分の生活費が稼げる」ことは自信になるし、それを誇りに思うことも当然だろうが、「生活費を稼ぐ手段」が無数にあって、その中から自由に選んだわけではないという問題を指摘することも、女性が構造的に貧困に陥りやすく、そこから抜け出す手段が非常に少ないという事実を指摘することも同時に必要だと私は考えている。

 ベラの関心を得ようとパリに残ってヨレヨレになったダンカンに「売女!」となじられても、ベラは「私は自分で生活費を稼いでいる!」とキッパリ言い返して、仲間の女性と社会主義者の集いへと出かけていく。本を読み、知的好奇心をどんどん膨らませるベラと「何も知らなかった頃のベラ」の面影をひたすら追いかける惨めなダンカンという対比が見事なこの場面も「誇り高いセックスワーカー」の表現と捉えるひとがいるだろうが、ベラが言っているのは、「お前(ダンカン)はもう必要ない」ということであり、性売買そのものの肯定とはあまり関係がないように思う。

未熟な女性とグルーミング

 他にも、経営者が「あなたは私のお気に入りだよ」とホットチョコレートを持ってくると、ベラは「みんなにそう言ってるでしょ?」とその甘言の裏にある搾取の意図を見抜いて言う。働き始めた頃のベラは、一人称が「私」ではなく「ベラ」だったくらいにまだ子どもだったが(ちなみに、セサミストリートのモンスターで一人称が自分の名前な真っ赤な子=エルモは3歳半という設定だ)、成長して大人の狡猾さもわかるようになっていくし、ロンドンに戻ってからの場面では、結婚前に性病検査を受けることなどを話しており、ベラがこの時点では不特定多数との性行為のリスクも理解していることがわかる。

 ここまで述べてきたような「女性の性の自己決定の危うさ(自主的に選んでいるようで、実は巧妙に「選ばされている」可能性)」に言及しているのは、私の知る限りでは小野寺系さんの映画評だけだ。

 昨今の萌え絵をめぐる騒動の影響もあり、フェミニズムを「ザマス眼鏡のPTAおばちゃんによる『性的なことは許せないザマス!』運動」だと勘違いしているひとがいるからなのか、小野寺さんは、フェミニズムは女性の性的主体性を肯定するものである、ということを一度確認した上で、「自己決定」という隠れ蓑の下で行われる「グルーミング」に言及している。

 グルーミングという言葉は、特に動物同士の毛繕い・羽繕いなどを指す言葉だが、最近は性的な文脈で、若いひと(特に未成年者)を性的搾取を目的に、言葉巧みに取り込んでコントロールする行為を指して用いられることも増えている。身体的には成人女性であるが精神的にはまだ無知で未熟なところがあるベラは、こうした「取り込み」、言ってしまえば一種の詐欺行為の格好の標的と言えるかもしれない。

買春男性と家父長制の関係

 私が、『哀れなるものたち』という、他にもたくさん観るべきポイントがある映画の、この点に拘ってしまうのは、ちょうど「大吉原展」の炎上があったからだ。具体的には、東京芸術大学大学美術館で3月下旬から5月半ばまで開催される「大吉原展」の紹介文が吉原の華やかさにのみスポットを当てた内容で、そこで働かされていた女性たちの苦難については全く触れられていない様子だったことが、「江戸アメイヂング」などの軽薄キャッチコピーと共に批判された。なお、炎上を受けて主催者からは「決して繰り返してはならない女性差別の負の歴史を踏まえて展示してまいります」というコメントが発表されており、公式サイトからは「江戸アメイヂング」の表記や問題を指摘された表現は無くなっている。この炎上と、そして、主催者コメントを見て、私は改めて女性の性の自己決定について考えてしまっていた。
 「決して繰り返してはならない」と言うが、性売買そのものは現在も続いており、そこには「地続き」の女性差別が存在している。大吉原展を批判しているひとたちの中には、現在の性風俗については、女性の自己決定であると主張しているひともかなりいるようなのだが、「吉原は悲惨だったけど、今の風俗は違う」と切断処理することは、吉原の華やかな側面(女性を買う側から見た吉原)にだけ着目するのと大差ないように私には思えてしまう。

 My Body, my Choiceというスローガンを「だから、売る売らないは私が決める」と性売買を女性自身の選択であるという主張の場で用いる人も多い印象があるのだが、それが本当にChoice(選択)と呼べるものであるのか?過去の性被害ゆえのトラウマの再演と呼ばれる行為ではないのか、ホストなどの夜職男性の甘言に騙されて引き込まれたのではないか、他に自立の手段がない(と思わされている)からではないのか、社会福祉が脆弱過ぎるせいではないのか…、そういった点にあまりに無頓着なように思う。

 私のこれまでの観察から言えることとして、性売買を女性の「性の自己決定権」という文脈で肯定する言説には、もともとは性売買に否定的だった人の方がハマってしまいやすい傾向があるのだが、そもそも、どんなに売りたいと思っていても、買いたいひとがいなければモノは売れないのだ。「売る主体」にスポットを当ててしまうと、結局は、「買う買わないは俺が決める」が先にある、ということが不可視化される効果を生む。女性が性的主体として振る舞うことと性売買を結びつけることで、買春男性の存在を見えなくし、売買春を「女性の問題」にしてしまうことこそが、家父長制の片棒を担ぐ行為に他ならないと私は思っている。戦後ほとんどの期間、保守的な家族観を持つ自民党政権が続いている日本社会で、性産業がここまで大きく成長できたのはなぜなのか、性売買を批判する側を「家父長制フェミ」などと言っているひとたちはよく考えてみたら良いのにね。

すっきり気分よくは終われないところが良い

 物語の終盤で、ベラは、自分自身の身体が実は母親のものであったことも受け入れた上で、「私の身体は私のものだ」と宣言するのだが、日銭を稼ぐ必要のなくなっていたベラはもう娼館では働かないし、もはやペニスを必要としていないことも暗示されている(いや、むしろ明示と言っていいかな)。性描写が多いことで、「性嫌悪のペニスフォビア(←男性を警戒する女性や「女性の性的快楽にペニスは不要」という女性に対して一部界隈が浴びせている謎の罵倒)とは違う!」とか思っちゃってるトンチキはしっかりして!「男いなくてもいい」って言ってるから!まぁ、とりあえずは、「大胆なセックスシーン」にばかり注目して、「エマ・ストーンの体当たり演技がスゴイ!」とか使い古された言い回しで絶賛している気になっているアホな評論家のち○こがもげますように…と軽めに願っておこう。

 『哀れなるものたち』は、スコットランドの作家アラスター・グレイの同名小説を原作としているので、原作に当たってみないとわからないことも多いのだが、ランティモス監督の過去作とも共通するものはかなりあると思う。人間や人間社会を少し突き放しているようでありながら、そこに優しさというか許しのようなものも感じる。もちろん、これは私個人の印象であって、監督本人の考えはわからないし、映画に造詣の深いひとたちにはまた別の見解があるに違いない。

 実は、この原稿を書いている途中に、ランティモス監督作『聖なる鹿殺し』と『ロブスター』を立て続けに観たのだが、どちらも一言で言うと「嫌ぁ~な感じ」の映画だった。『哀れなるものたち』のような分かりやすく非現実的なビジュアルにはなっていないのだが、どこか「作り物」的でぎこちない社会・家庭・人間関係が、不穏というよりは不快な効果音と共に提示される。登場人物たちはそれぞれにえらい目に遭うのだが、しかし、それが妙に滑稽でもある。究極の選択を突きつけられた人間たちがどんな言動を取るのか、その選択は正しいのか、その言動がその後の人間関係にどう影響を及ぼすのか…考えれば考えるほど、出口のない「嫌さ」みたいなものがジワジワと込み上げてくるのに、つい笑ってしまうところも含めて、大変後味が悪い。そして、性的な描写はやっぱりエロスを感じるものではなく、だいぶマヌケだったので、『哀れなるものたち』の原作がどんなであれ、あの映画がランティモス色溢れる仕上がりになっていることは間違いないと思われる。

 『哀れなるものたち』のラストシーンも爽やかに不穏である。ゴッドが造り出したキメラたちがうろうろし、ベラによって山羊の脳を移植されたDV野郎(ベラの母の夫だった男)が草を食んでいるから、というだけでなく、ベラと同様の手術で蘇生された「赤ん坊の脳を持った成人女性」と家政婦さん、ベラの婚約者と娼館で出会った友人(もしかすると恋人でもあるかも)らがバクスター家の庭で穏やかに過ごしているからだ。山羊男には笑ってしまうし、まぁ仕方ないねと思うものの、そう思ってしまうことの後ろめたさのようなものも感じるし、あの場に集うひとたちの穏やかさがなんだかちぐはぐな感じで居心地が悪いのだ。そして、あの技術が家の外に持ち出された場合、それは正しく使われるのか?医療技術の進歩は、人間を狂わせはしないか?そんなこともちょっと考えさせられる。そして、そこもあの映画の良いところじゃないかな、と思うのである。

***

今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 これだけ書いてもまだ「ああ、あの話ができてないな」と思うところがたくさんあって、とても見ごたえのある映画なので、力いっぱいおすすめです!映画館で1回観ただけなので、若干、記憶違いなどもあるかもしれないので、何かお気付きの点があれば教えてもらえたらと思います。よろしくお願いします🐸

 普通に、ご意見・ご感想などもお気軽にどうぞ!感想つきのシェアも歓迎ですし、こそっとマシュマロ(匿名質問箱)投げてもらっても大丈夫です。励みになります。
では、また次回の配信でお会いしましょう。

最後の最後に、『哀れなるものたち』を鑑賞した直後に読んで面白かった映画評を2つ貼っておきますね。

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