真摯な恋愛にセックスは必要なのか
当ニュースレターでもすでにとりあげているが、性交同意年齢を巡る議論を見ていると、「未成年の性」についての認識にまずズレがあるなぁと感じるし、そもそも「(未成年に限らない)女性の性的自己決定権」という言葉がだいたいの場合、男性にばかり都合がよいように使われていると感じる。今回はそのことについて少し考えてみたいと思います。
自制の前に自衛が必要
もう1年くらい前の話になるのだが、性交同意年齢に関して、とある男性が「性交同意年齢になるまではチンコのことを考えるな!と言われても難しい(大意)」と言っているのを見かけた。正直、「は?そうとるの?」という感想しか出てこなかった。そもそも、性交同意年齢って基本的には大人が未成年相手にという場合を想定しているわけで、「〜歳まではちんこのことを考えるな」では全然ない。まぁ、そして、仮に「〜歳までは同い年同士でもセックスはやめておきましょう」だったとしても、ちんこのことを考えたり、自慰行為する分には何も問題ないわけで、「性交できない=ちんこのことを考えてはいけない」と解釈できるのが、まずすごいと思った(褒めてない)。と同時に、男性は圧倒的に強者だなとも思った。「未成年の性」について考える際に、彼は「性的快楽」を中心に思考し、性交同意年齢は「性的自制」を迫るものと考えているからだ。
私が「未成年の性」を考えるとき、真っ先に頭に浮かぶのは「いかにして性的接触から子どもを守るか」ということである。というのも、自分の子ども時代を振り返ってみると、「もしかして、あれって"嫌な性的接触"だったのでは?」ということが幼稚園や小学生の頃から既にあるからだ。子どもだった当時はなんとなく「嫌だな」と思う程度だったり、むしろあまり気にしていなかったこともあるけれど、思い返すと「嫌だな」「気持ち悪いな」と思う大人からの接触が皆無という女性はほぼいないと思う。男性の中にもそういった「嫌な接触」の記憶があるひとはいるはずだ。
「未成年の性」について考えるときに、真っ先に考えるべきは「性的自制」ではなく「性的自衛」だし、「自衛」しようにもそれが性的な接触であることを理解し切れていない年齢の子どもも被害に遭うことを考えれば、それは子ども任せの「自衛」であって良いはずがなく、法が介入して守るしかない。
もう子どもではいられないがまだ大人にはなれない
現時点での性交同意年齢は13歳であり、中学1年〜2年生なので、「性的な接触かわからない」ということはないだろうという反論がありそうだが、それでも必要なのは「自制」よりも「自衛」であることには変わりない。女子生徒であれば、生理がきてまだ数年、場合によってはまだ始まっていない子もいる程度の年齢た。初潮がきて「いよいよ大人の仲間入り」などと言われている時期で、性的な関心を持つ子もいるし、中学生高校生はいわゆる「子ども」という枠組みとも「大人」という枠組みとも別の不安定な立場に置かれているように思う。
中高生は「子どもだから優先してあげよう」「子どもだから仕方がない」と言ってもらえる年齢ではもうないのに、「大人だから〜してもいいよ」とも言ってもらえない。当人たちからしたら「大人は都合よく大人扱いしたり子ども扱いしたりする!」という感じだろう。だから、性交同意年齢の話にしても、中高生にしてみたら「大人がごちゃごちゃ口出しするな」かもしれない。しかし、それでも…あるいはそれだからこそ、法律で守るしかないと私は思うのだ。
「もう"子ども扱い"はしてもらえないのに大人扱いもされない」という不満を持つ年齢の子が、充分に大人の年齢のひとから「君はもう大人だから性的なことをしてもいいんだよ」と言われたら、どう感じるだろうか?相手は自分のことを「対等な大人」として扱ってくれていると感じるのではないだろうか?他の大人は変に子ども扱いするけれど、この人は自分のことを大人として扱ってくれる、自分のことを理解してくれている、と勘違いしないだろうか?そして、その勘違いを「自己責任」にしてしまうことは誰の利益となり、誰の権利を侵害しているだろうか?
未成年の性について議論すべきときに、大人が一番に考えなければいけないのは…というか、そもそも考えるべきポイントはそこ以外にないように私は思う。そして、仮に未成年者の「性的自由」を多少縛る結果となったとしても、チャイルドマレスターの犯行を防ぐことの方が重要だと思っている。未成年のうちにセックスができなくても生きていけるが、性的加害を受けたひとは場合によっては生きることに困難を抱え続けるからだ。(とか言うと非モテ自認がぴーぴー言いだしそうだが、それは「セックスすること」に無駄に価値を置きすぎなので自分でなんとかしろ)
「真摯な交際」の不都合な真実
成人同士の「真剣な交際」「真摯な交際」と呼ばれるものは、一般的には「結婚を前提にした交際」のことが多いのではないだろうか。相手のことを今後の人生でずっとパートナーとすること、相手の生活に責任を持つこと、一緒に子どもを育てること…そういった将来も一緒に歩むという意識があるときに、「真剣な交際」という言葉が使われがちだ。つまり、セックスもすることが前提とされている感じがする。しかし、むしろ「真摯に」交際するのであれば、妊娠のリスクがある行為にはそれなりの自制があってもいいのではないか、と私は思ってしまう。女性の側が「妊娠したくない」「子どもを産みたくない」と言っているなら、その相手の気持ちを尊重することこそが真摯な態度ではないだろうか。
「真剣な交際なんだからセックスするのが当然」というのは、むしろ女性の性的自己決定権を無視した「不誠実な交際」と呼ぶべきだろう。
成人同士であっても、望まないタイミングでの性的な行為にしぶしぶ同意した経験がある女性は少なくないように思う。断ると相手が不機嫌になるから応じたり、「するのが当然」という空気についつい流されてしまったり、行為中に望まないことをされたり…。基本的には好きな相手であるはずなのに、相手が自分の気持ちを蔑ろにすることに気付かないフリをしながらも傷ついている、というのはきっと男性が思う以上にありふれていることだろうと思う。
そんな風に女性の意志を確認することも尊重することもできない男性が決して少数派ではない社会で、未成年相手にだけは「相手の気持ちを尊重して」「真摯に」交際できる男がいると考えられるほど脳内がお花畑ではいられないのは当然のことだろう。
私は、セックスにおいては「同意」と「安全」が一番大事だと考えているので、別に一生を誓い合わなくてもお互いに同意を取れていて安全が確保されるならば、特に「真剣な交際」ではなくてもセックスしたいひとはすればいいと思っているし、むしろ変に「愛情」を前提にするせいで「セックスを許された=俺は全肯定された=この女は俺の所有物だ!」みたいな短略思考に陥る馬鹿が出てくるのではないか、とさえ思うことがある。
また、「セックスはコミュニケーション」というのも、あまり言い過ぎると良くない気がしている。というのも、「コミュニケーションなんだから(恋人・夫婦であるなら)して当然」と考える馬鹿が出てきそうだからである。あくまでセックスという行為はある種のコミュニケーション行為を含むというだけであって、必要不可欠なコミュニケーションではないという点は強調しておきたい。
「真摯な恋愛をして合意の上で」という発言のおかしさ
「未成年相手でも真摯な交際ならセックスをすることはある」と主張するオトナたちは、一体なにをもってその交際が「真摯」であると考え、そして、真摯な交際とセックスの関係をどう考えているのだろうか?
本当に相手の子どものことを第一に考えるのならば、まだ成長過程にある子どもと性行為しなければ恋愛感情が消えてしまうと考えるような自分自身を恥じるべきだし、子どもと性行為することを正当化しようとする大人を批判するべきだろう。「子どもだから好きなんじゃない!その子個人が好きなんだ!」と言うなら成人するまで性行為をせずに付き合うべきだろう。そもそもが、仮に未成年を本気で好きになってしまったとしても、子どもに自分の感情を気取られないように細心の注意を払うべきだし、子ども側からの感情に気付いても気付かないフリをするべきだと思う。それが大人としての責任ではないのか?「合意があった」「相手から誘った」からなんだと言うのだ。これ幸いと性行為に応じる時点でその大人がクズなのは動かしがたい事実だ。
そして、未成年しか性的対象にできない大人というのは、その時どんなに「この子が好きなんだ」と言ったところで、今セックスしている相手のことは数年後には確実に捨てるということでもある。生き物は必ず歳をとるからである。そんな使い捨ての道具のように子どもを扱う人間に同情する余地など全くない。守るべきは子どもの心身の方だ。
私の書いていることは、本来であればわざわざ言うまでもない当たり前のことなはずだ。しかし、この日本社会では、これが全く当たり前になっていない。だから、言い続けなければいけない。10代の若者に必要なのは「豊かなセックス」ではなく、心身を侵害されずに安心して将来のために学ぶ時間だ、と。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
こういうセックス絡みの話を書くと、「性嫌悪」だとか「PTAフェミ」だとかよく分からない罵倒をされたり、「よいセックスの経験がないんだね、かわいそー(くすくす)」と小馬鹿にされたりするのだろうなぁ〜と思っていますが、自分の性経験や性癖を大々的に開陳しないといけないのもおかしな話ですよね。「私はセックスが好きだけど〜」という枕詞をつけてからじゃないと性的な事柄にネガティブに言及できないのは変だと思います。自分がオープンにしたくないことを言わずにいること、望まない性的接触を拒否すること、それらも「性的自己決定権」のはずなのに、そちらはリベラル界隈でもあまり尊重してもらえない感じがあります。
ミサンドリーと共に私が緩く推したいのは、「性的な事柄にネガティブに言及する権利を主張すること」です。なぜなら、これは主張し続けないとないことになってしまうから。今でもまるでないかのように扱われていると思いますが、性的な事柄をタブー視するわけでも、ただただセックスポジティブ〜🌸となるわけでもなく、性的な事柄のネガティブな面にも目を向けて、問題点を明確にしなければ、先に進めないと思うんですよ。
今週も中絶薬についての日本産婦人科医学会関係者のトンデモ発言が報道されていますが、女性を「資源」としてではなく「個人」として尊重できる社会にしていかなければいけないと強く思います。
では、また次回のニュースレターでお会いしましょう。
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