ないことにされる女性差別

 男性は、「女性差別」については、意図的ではないにしても「気付かない」または「気付けない」こともあるのだ、ということをまずは認めるところから始めてほしい。私自身が、夫との関係性において、「マジョリティとしての自分」と向き合ってきた経験があるので、その難しさはよく分かっているが、やろうと思えばできることもあるよ、という話。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2023.06.11
誰でも

 このニュースレターを読んでくれている方々には、先刻ご承知のことかと思うが、大事なことは何度も繰り返しておくことも必要なので、今回も「女性差別がある」「女性はマイノリティである」ということを社会がなかなか認めてくれない、という話をしていきたい。

「主夫と暮らせば」〜こっそり書いていたnote〜

 少し個人的な話から始めたいのだが、私はもともと文章を書く事が好きなので、インターネット黎明期には、HTML文書の書き方の本などを必死で読みながら複数の「ホームページ」を作っていたし(ぬいぐるみのホームページと人間としての自分のホームページと家族でやっている同人サークルのホームページ)、大学では小説を書くサークルの立ち上げに関わったりもしていた(当時、自分の大学には「文学研究のサークル」があり、その季刊誌の中に創作物も掲載はされていたが、メインは研究の方だったので)。簡単にブログが立ち上げられる時代になったら、ぬいぐるみの短文&写真のブログを気軽に更新したいがためにカメラ付きケータイに機種変したことさえある(スマホ世代のお若い方には想像もつかないことかもしれないが、当時はカメラのついていないケータイもあったのですよ…。画面も最初はモノクロだし)。

 SNSで最初に始めたのはFacebookだ。英国在住の友人に誘われて、簡単にお互いに連絡をとったり近況を知ったりできるのも便利だし…ということで始めたのだが、当時は日本語版はなく、すべての説明が英語仕様で「えーっと、えーっと」と戸惑いながら試運転するかんじだった。その少し後にmixiに誘われ、「Facebookみたいなやつの日本語版だ」と思って始めた記憶があるが、誰に誘われたのか全く思い出せない…。まぁ、それはよい。
 mixiで割と頻繁にやりとりをしていたグループに、高校時代の友人4人のグループがあった。特別に親しかったわけでもないのだが、もっと大人数(多分15人くらい)で「高円寺のボードゲーム屋に行こう」という企画をしたものの、当日蓋を開けてみたら残っていたのがこの4人だった、という理由でなんとなくその後もよく遊ぶようになって、mixiにも自分たちのコミュニティを作ったりしていたのだ。そのメンバーの中に、私にTwitterの使い方を教えてくれたオタク女子もいる。そのオタク女子の他にももうひとり早い時期からTwitterをやっているひともいたのだが、私はなんとなく「ハマってしまいそうだから始めるのは危険」という予感があったのと、mixiなどで長文日記を書いていたので「140字(当時は半角140字で実質70文字だったと記憶してるんだけど…)で書きたいことなんて書けないじゃん」という気持ちがあって、アカウントを作らずにいた。

 結局、2011年の東日本大震災のときにTwitterが「災害時でも繋がりやすい連絡手段」として機能することがわかったのと、すでにこのニュースレターの初回で書いたように「原発に反対するデモなどの情報を得る手段」としても手っ取り早かったので、Twitterのアカウントを作ったのである。(ついでに、オタク女子友達は、その後、Tumblrにもハマり、Instagramにもハマり、その度に「ケロもやりなよー」と言われて私もアカウントを作ったのだが、とある選挙で「投票のお願い」をしたことをきっかけに全てのSNSをブロックされて絶縁されてしまったので、今は何にハマっているのかはわからない。)

 Twitterの面白さ(なぜ日本語文化圏で流行ったのか)については、過去の記事でも少し書いたが、短文であるが故の「拡散されやすさ」と「短くてキャッチーな表現を考える楽しさ」のコンボという感じがある。すぐにリアクションがくる楽しさ、ひとと交流していることが実感できる喜びや安心感もあった。しかし、一方で、連ツイの最初だけが拡散されて誤解を受けることもある。まぁ、それはまだいい方で、連ツイの真ん中だけが恣意的に抜き出されて曲解されるような機会も徐々に増えていった。特に、フェミニズムに関連する話題に言及するようになってから、そういうことは増えた。

 それは、フェミニズムに関連する話題というのは、140字で言い切れないことが多くて、連ツイにせざるを得なく、そうするとツイートが単体で拡散されやすいからだろうと思う。前後を読んでいても読み間違えてしまうということは誰にでもある。ましてや、前後の文脈から切り離された文を誤読するなと言われても、TLでそのツイートだけを目にしたひとにとっては「前後の文脈がある」ことさえ分からない。もともと慎重なタイプで、スレッド(連ツイ全部)をわざわざ読みに行ったり、その人の他のツイートなどを確認するというようなひともいるが、大抵の人間は隙間時間にSNSを見るので、そこまではしない。一度、ネット上に流してしまった文は、どこかで誤読されることを運命づけられているとも言える。それはそれで仕方のないことだし、誤読するヤツは許さねぇ!とも思わない。しかし、やはり誤読されるのは本意ではないので、やっぱりもう少しまとまった文章を出したいな〜と思うことが増えた。

 また、高校1年生の頃から、家族で同人誌を出していたのだが、私が結婚して実家を出てから、そちらも徐々にペースを落として、一度お休みというか廃刊(笑)というか、となったので、文章を書きたい欲もあった。そんなタイミングで、自分だから書けることって何かと考えた結果、「主夫と暮らす立場の人間として考えていること」をテーマにすることに決めた。そして、広く読んでもらうためにも、Twitter上やら市民運動界隈と「揉め事」を起こしている「あのケロケロ」だとはわからない形にした方が良いだろうということで、自分のTwitterアカウントとは一切紐付けない形でnoteを始めた。

 このnoteを始めたのはもう5年以上前(2017年12月)で、最後に更新したのは(主夫の話とは関係ない記事で)4年近く前(2019年8月)だ。今の視点で見ると、「ここはもう少し違う表現にした方が良かったな」と思うところもあるのだが、当時の、今以上に未熟だった自分の考えを記録しておくためにも編集などはせずにそのままの形で残すことにしている。
 この「主夫と暮らせば」という連載で主に書いたことは、「マジョリティ側に立つと見えなくなることがある」ということであり、ある権力構造の中ではマイノリティであっても、別の権力構造の中ではマジョリティに成り得るし、マジョリティの立場になっているとき、人間はどうしても鈍感になれてしまう、ということだ。そのことに、特に集中的に言及した記事は以下のもので、この記事は広く拡散されてかなり読まれたようだった。

女性はvulnerableであるという事実の確認

※vulnerableとは「(人や身体が)傷つきやすい・弱点がある」「(場所が)攻撃されやすい」などの意味をもつ英語形容詞である。

 私は、フェミニズム関連の話題に言及する機会が多いため、マイノリティ当事者としての女性の立場からの発信が割合としては多い。そして、女性が「女性差別」の被差別階級であり、マイノリティであることは、単なる事実であって、「被害者意識」という言葉で揶揄される過剰な思い込み・勘違いではない。
 そういう権力関係において、女性が「弱い」というのもただの事実であって、それは個々の女性(の意志など)が「強い」か「弱い」かの話とは別なのだが、これまでの経験上、左翼・リベラルの男性は「女性は弱いのだ」という言説に対して、「それは、むしろ、女性を弱い者扱いして、半人前扱いする女性差別だ」「女性を男性の庇護下に置こうとする保守的な考えだ」と反発してみせることも多い。定期的に話題になる #九州の男尊女卑 というタグに「そんなことはないんだ。九州では本当は女が強くて、男は手のひらの上で転がされてるんだ」と自虐芸のフリをしながら反発する男性たちと、方向性は異なるものの、よく似ている。

 社会的・経済的に弱い立場に置かれていること、決定権・発言権を与えられていないこと、生理関連の不調などの身体的なハンデ、筋肉量や骨格などの有意な性差による傷つきやすさ(vulnerability)など、女性が「弱い」者にされてしまう原因は、社会的なものだけでなく、身体的な(物質的な)部分もある。前者は、社会的に是正されるべきであり、そのためにも後者の要因を取り除く(少なくともそれがハンデとならないようにする)必要がある。そのための措置のひとつとして機能するのが、アファーマティブ・アクションである。

 アンチフェミはともかく、左翼やリベラルであれば、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)に正面から文句をつけるひとは珍しい。左翼的にもリベラル的にも、女性差別の是正措置は「正しい」ことなので、それに異論を唱えるのは「わかってない」「ダサい」奴のやることだからだ。
 しかし、実際のところは、「そうは言っても、俺たち男だって就職氷河期で大変だったんだぞ」とか「俺たちは何も悪くないのに、上の世代が女性差別をしてきたからって、なんで俺が割を食わなければならないんだ?」とか不満を覚えているひとがいてもおかしくない。というか、実際、そういう発言を、割とマトモな感じの知人男性から聞かされたこともあって、当時は「まぁ、そうよねー」と私も同調してしまったし、そう感じてしまうという事実を無理やり否定して、「自分が割を食ってでも女性差別解消が大事だ」って無理に思う必要もない。とはいえ、これって「戦争責任」について、「いつまで謝ればいいんだ!」とか言ってるネトウヨっぽくもあるよね。

 誤解しないでほしいのだが、私は「思ってしまうものは"思ってしまうこと"として一度受け止めておけ」と言っているだけで、だから、「アファーマティブ・アクションに反対しても良い」とか「女性差別の解消は、男性に負担がかからない範囲内でのみ進めるべきだ」とか言っているわけではない。自分は不満を覚えてしまうという事実、その気持ちと向き合って、「どうしてそう思うのか」ということを考えたければ考えればいいが、優先すべきなのは、「自分がそう思っていようが、女性差別を解消するために社会に必要な制度は何か」を考えたり、自分でできる範囲で女性差別に抗う言動を取ることだ。
 内心どう思っていようが、社会制度の方が変われば、女性差別はしにくくなり、女性差別がしにくくなれば下の世代が女性差別を学ぶ機会も減り、結果として、女性差別はなくなっていくからだ。

 制度を変えるとか法律を作るという大きな話だけでなく、日常生活で出来ることとしては、女性蔑視発言をする男性がいたら、「そういうの良くないですよ」の一言でもいいから言葉にすることから始めたらいい。理由を問われてうまく答えられないなら、「今はもうそういう時代じゃないですから」と時代のせいにして逃げることもできる。別に相手を説得する必要はない。ただ、その一言があれば、相手は"面倒くさい奴"であるあなたがいる場では、女性蔑視発言をしにくくなるし、それだけでも効果はゼロではない。

 その地道な活動は、Twitter上でアンチフェミを批判するのとは違って、おそらくあまり目立たないし、場合によっては女性の目にも入らないから、感謝されることもない。むしろ、「男同士の絆」こそを至上のものとするホモソーシャルにおいては、嫌われ者になる可能性さえある。わかりやすく、「○○さんに言われて、色々勉強して、自分が間違ってたってわかりました」と反応してくれる男性はほぼいないと思った方がいい(私の経験上もほとんどいないよ、なんなら逆ギレして凄まれることさえある)。気分良くなれるものではないし、楽しくもないかもしれない。でも、それは少しずつ社会を変える力にはなる。
 現に、多くの女性たちが、声を遮られ、発言の機会を潰され、容姿を侮辱的に晒されたりしながらも、繰り返してきた言葉が社会を変えてきたのだ。マイノリティである女性たちが必死でやってきたことを、マジョリティたる男性がやらなくてどうするのだ?

matter(物質)はmatter(重要である)

 そして、もう一つ、男性にとって大切なことは、「女性差別」という文脈においては、自分自身が抑圧者であるという自覚を持つことだ。意図的に差別をしてやろうと思っていなくとも(思っている方が珍しいわけで…)、脅かしてやろうという意識がなくとも、「男性である」ということが、すでにある種の権力なのだ、という自覚だ。
 「自分は、女性を、経済力や社会的な地位や暴力によって黙らせることができる存在なのだ」と自覚した上で行動すること、それは、言うほど簡単なことではない。特に、他の場面でマイノリティ性を持っているひとにとっては、時には「それは女性差別の文脈の話ではないのだけど…」と思うことや「自分も被差別属性があるから、女性の気持ちがわかっているのに」と感じることも、ついつい反論したくなることも当然あるだろうと、私自身の経験からも思う。しかし、そう思ってしまう自分の気持ちを吐き出すのではなく、「じゃあ、その気持ちとどう向き合うか」と対処法を考えていく方が、現実の問題解決にはなるように思う。

 残念なことに、2023年現在、自らを左翼・リベラルと自認している男性たちの多くは、「女性差別というのはジェンダーによる差別であって、身体は関係ない」として、「ジェンダー平等」を訴えている自分たちは、女性差別などしていないし、むしろ、女性差別の解消を阻んでいるのは、やたらと身体にこだわる時代遅れのラディカル・フェミニストの方である、と認識している様子である。
 確かに、「ジェンダー=社会的に構築された性」による差別はある。「女性向け」とされるコンテンツが過小評価されたり、「女性的な仕事」と見なされている職業の賃金が安かったり…、さらに、「男性的ではない男性」が馬鹿にされたり苛められたり、「主夫」をヒモ呼ばわりする人がいたり…。こうした例は、「ジェンダー」による差別と言っていいだろうと思う。
 しかし、クリエイターやスポーツ選手などが女性である場合にだけ容姿や年齢や婚姻関係に言及されたり、男性には求められないレベルの仕事を要求されたりすること、生理や生殖に関わる臓器に言及する侮蔑を受けやすいこと(「生理中でイライラしている」「更年期BBA」「閉経BBA」「子宮でものを考える」など)、性に関しては脆弱性が高いこと(妊娠・子宮頸癌などのリスク、「いざとなったら身体を売ればいい」と言われるなど)は、社会的に構築された性によるものだろうか?

 もちろん、"社会的に女性に期待されていること"や性のダブルスタンダード(「男性には本能的に性欲があり、女性には性欲がない」)や「母性神話」の影響はゼロではないだろう。身体という物体の性差と社会的性差は、ある意味でお互いに影響を与え合って、互いを構築し直し続けている面もある、と私は考えている。
 他にも個体差がいろいろある中でも、あえて「性別」の違いにだけ殊更にフォーカスして何かに言及するとき、セックス(身体的性差)はジェンダー(社会的性差)化されている側面があるにはある。

 しかし、ジェンダーと異なり、身体は物質(matter)だ。母性神話が解体されても、女性の性欲の存在が広く社会に認められても、それによって、生理が止まったり、ホルモンの分泌に男女差がなくなったり、男性が自然に妊娠可能になったりはしない。

 ジェンダーに基づく差別がなくなれば解決する問題もある。それは否定しない。ただ、それだけでは解決されない問題も存在していることも、また、事実である。どちらの差別もなくしていくべきだし、「どちらを優先すべきか」と優先順位をつけるのもおかしいのだが、「女性差別撤廃」でも「男女平等」でもなく、「ジェンダー平等」という標語の方がウケが良い理由は、やはり「男性はマジョリティであり、女性に対しては抑圧者である」という事実と向き合いたくないという無意識の抵抗があるのではないか、と思ってしまう(私の勘違いであって欲しいが)。

 以前、「ジェンダー平等は余裕のあるひとの趣味なのか」という記事でも、この件に少し触れているが、多くの人たちは、「女性差別の撤廃とセクシュアル・マイノリティの権利擁護」を一言で表現することができる言葉として「ジェンダー平等」を採用しているのだろうし、そこに「女性差別撤廃は後回しにしましょう」という意図はないのだろうと思う。
 しかし、女性差別というのは、「社会に存在しないことにされている人たちへの差別」「存在しないことを前提に制度設計されていることによって平等な扱いがなされていない」という側面もあるが(キャロライン・クリアド=ペレスの『存在しない女たち』を読んで!)、その主軸は「女性を差別することで社会が円滑に回るように制度設計されている」ことなので、かなり意識的にマジョリティ側が「今、持っている特権を返上する」形をとらないと、社会が円滑に回らなくなるという非常に厄介な差別なのだ。
 実際、戦後の一時期の間だけうまくいっていた「女性が専業主婦として家庭を支えるモデル」が崩壊したことにより、出生率は下がり、年金制度も壊れつつある。女性を家庭内の奴隷とすることで、男性が「企業戦士」として会社に仕え、さらに、国家というさらに大きな家父長制に包摂されていく、日本独特の家父長制については、中野晃一さんのYouTube動画を観てもらうのが早いだろう。

感情をきちんと言葉にすることの大切さ

 「社会を変える」際になによりも大事なことは、個々人の内心を変えることではなく、制度や法律を変えることで現実の困り事を解消していくことだ。そのためには、現状を把握していくことが大切であって、他者の内心に踏み込む必要はない。日本語文化圏には、この辺りの腑分けが苦手なひとが多いという印象がある。

 今年の誕生日にプレゼントしてもらった本のひとつ、信田さよ子『タフラブ 絆を手放す生き方』(dZero)を読んでいるところなのだが、この本にはそうした「自分の気持ち」を表現することと「現実を把握して対処すること」の腑分けのコツとしても読める個所がたくさんある。私自身も、「これは自分のことでは…」と改めて反省させられる個所もあり、非常に勉強になっている(と、「勉強になった」で終わらないための実践のひとつが言語化して、自分の気持ちを整理してストックしておくためのnoteやtheLetterであり、それを必要に応じて見直して自分と向き合い続けていることが役に立っていると思う)。

 もちろん、個々人の差別心がなくなっていく方が理想的ではある。しかし、ネットを通じて、これだけ世界中から情報が大量に入ってくるようになっても(あるいは、だからこそ、かもしれないが)、偏見が全くない人間というのはいないと言っていい。そして、多くの場合、ひとは自分の持つ偏見を偏見だと意識できない。だからこそ、偏見を持った人間がいても、それに基づいて差別ができないように制度や法を整えていくことが重要になる。逆に、ある種の偏見に基づいて作られた法には修正が必要にもなる。法治国家とはそういうものだろう。

 そして、男性は「この社会に女性差別はある」という事実を認めた上で、その事実とは別の問題として、自分の生きづらさや「男らしさ」の苦しさをきちんと言葉にしていく必要があるように思う。過去にも「男性は自分の感情を言語化するのが苦手なのではないか」という話は何度かしているのだが、今、読んでいる信田さよ子さんの本にも「感情を表現できない男性は多い(117ページ)」と書かれており、やはり、これは「男らしさ」による呪縛なのではないか、と思うのだ。

 男性が弱音を吐いたり、感情を吐露することを避けがちなのは、それが「女ジェンダー」に割り当てられている行為だと思い込まされているからだろう。しかし、実際には、本人は論理的に会話しているつもりで、「自分の考える正しい結論に納得させたい」「相手は感情的な女に過ぎないのだ」という非常に感情的な態度を取っているだけだったりもする。
 人間なんだから、感情的であったって別に構わないけれど、自分の感情と「論理」「事実」はきちんと腑分けして言語化する訓練を、そろそろマジョリティである男性にも頑張ってもらいたいと思う。
 最後に、私個人の経験の話をしておくと、私のある発言を引用して「それは論理的に○○である」とツイートしてきた男性に対して、「○○である、と考える理由を論理的に説明してください」と返したところ、「たった今はっきり述べました!」と堂々と言うので、自分が返信を見落としたのか??エアリプだったのか??と彼のホームも見に行ったのだが、さっぱりわからない。仕方がないので、「どこで言ってるんですか?」と本人に訊いてみたのだが、驚くことに、最初の「それは論理的に○○である」というツイートへのリンクを貼って、「こちらです!」と…。「論理的に○○だ!」とレッテル貼りすれば、論理的な説明をしたことになると思っている学者がいることには新鮮な驚きさえあって、忘れられない思い出である。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
久々の配信になってしまったので、はじめまして!の方もいらっしゃるかと思いますが、最初はもう少し短めのものを毎週更新していたものの、途中から7000字くらいで隔週配信となり、1万字超えが増えた辺りでペースがぐだぐだになって、5月は配信ゼロという記録になってしまいました。お金も時間も体力も(年齢とコロナ後遺症で)ない一般人なもので…。こんな調子のニュースレターですが、気長にお付き合いいただければ幸いです。

 ご意見、ご感想をつけてのSNSへのシェアなども歓迎です。匿名でコメントをしたいという方はマシュマロを投げてください。

 本文中でも言及している信田さよ子さんの本は、多くのひとにとって「生きづらさの解消」に役立つものだろうと思うので、超おすすめです。

 また、かつてのnoteでも、今回の話と似たテーマのだいぶ短い文章を書いていたので、こちらにリンクを貼っておきます。よろしければ、どうぞ。

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