映画『ブラック・ウィドウ』の射程

女性を《資源》から《個人》に戻すために必要なのは男による救済ではなくシスターフッドである。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2021.07.16
誰でも

 1年数ヶ月ぶりに、新作映画を観た。
映画館行きは自粛している&最寄りの映画館がどうも上映していないので、人生初の「ストリーミングサービスを利用しての新作映画視聴」だったのだが、BOSEのスピーカーに繋いで音質もよくして視聴したのでなかなか満足感が高かった。

なにを観たかと言えば、『ブラック・ウィドウ』である。

なぜ『ブラック・ウィドウ』なのか

 『ブラック・ウィドウ』は、MARVELのアメコミ・ヒーロー映画の最新作で、2019年に一段落したアベンジャーズ・シリーズの『インフィニティ・ウォー』の前日譚にあたる物語。スパイであるナターシャ・ロマノフ(ブラック・ウィドウ)を主人公に、その妹エレーナとふたりがかつて属していた(というか所属させられていた)組織レッド・ルームとその支配者ドレイコフと対峙するというアクション映画だ。興味のあるひとはググっていただくとして、実は、この映画と「ホルガ村カエル通信」は全く無縁とは言えないのである。

 すでに、なぜホルガ村カエル通信なのか、については配信ずみレターで書いているので、そちらを参照してほしいのだが、『ブラック・ウィドウ』でナターシャの妹であるエレーナを演じているのは、『ミッドサマー』の主人公ダニーを演じたフローレンス・ピューなのである!
 それだけ?というかんじだが、うん、それだけ!
 ちなみに、この2つの映画の共通点は、フローレンス・ピューが出ていることだけでなく、ジャンル映画としてクオリティが高いままでフェミニズム映画としても斬新なところである。

 まぁ、理由はなんであれ、私がもともとマーベル映画が好きであるということもあるが、『ブラック・ウィドウ』は『アントマン&ワスプ』『キャプテン・マーベル』に続いて作られた"女性ヒーロー名を冠した映画"である(女性ヒーロー単独主演作としては2作目)。フェミニズム周辺の話を広く扱うことにしているニュースレターなのでやはり外せないだろう、と。
 ナターシャはMCU(マーベル・シネマティック・ユニヴァース:要するにマーベルコミックス原作のキャラたちが織りなす映画版の物語世界のこと)に登場したときは、紅一点で「セクシー要員」としての役割も担わされていた。特に必要とは言えないところで微妙にセクシーだったりする男性向け映画の「目の保養」要員的なポジションの女スパイで、男性共演者もそのキャラのことを「娼婦」などと言っていた(台詞ではなく、素のインタビューで)ことがあるくらいだ。

 しかし、10年以上かけて成長してきたMCUは、もはや女性をそのように描くことに正当性がないことを知っている。一緒に成長してきた役者たちもそれはわかっている。そして、まぁ、これはもう許せ!って話だが、ナターシャは『エンドゲーム』でアベンジャーズ最終決戦の前に死んでいる。その彼女の単独主演作を今作る意味とはなんなのか?MCUでは多くの物語が複雑に絡み合い、Disney+で配信中のドラマもその世界に組み込まれているのだから、『ブラック・ウィドウ』も単なるノスタルジー映画なはずがない。妹が出てくるということで、シスターフッド的なものが描かれるのだろうし、これはフェミニズム的な作品になるのだろうな、という気はしていたが、実際の映画はそれ以上のサプライズを提供してくれた。

 最初にお断りしておくと、少しネタバレするので、それがどうしても嫌なひとはこの節で読むのをやめてほしい。内容に触れずに映画の良さを語るのはなかなか難しい上に、具体的なエピソードに触れずとも、勘の良いひとなら、私の感想を読んでしまうと映画を観始めて早い段階であれこれ気付いてしまう可能性もあるからだ。
 ネタバレせずに、言えることは、この映画が「単に女性ヒーローを主役にしただけ」の映画ではないということ。視聴できる環境があるのなら是非観てほしい映画だ。
 一部のファンの評価はいまひとつらしいのだが、世間には、女性ヒーローに「お色気」を期待したり、「じつはドジっ子」みたいな萌えを期待したり、「強がってもやっぱり男性の助けが必要」みたいなメサコン願望拗らせてるひとが多いのだろうか?

アメコミ原作女性ヒーロー映画

 これまでにアメコミヒーローもの映画で女性ヒーローの単独主演作と言えば、DCの『ワンダーウーマン』とマーベルの『キャプテン・マーベル』が代表的だが、『ブラック・ウィドウ』は、そのどちらとも全く違うタイプの女性ヒーロー映画になっている。
 まぁ、そもそも、『ワンダーウーマン』は映画冒頭のセミッシラ(アマゾネスの島、女性しかいない)の浜辺に迷い込んできたドイツ軍との戦闘シーンの後はただひたすらガッカリの連続だった。ダイアナ(ワンダーウーマン)の戦闘そのものは確かにカッコいいのだが、やたらちょろちょろ目障りな男性キャラとその男性に依存したダイアナのあり方にはどうにもイラつかされた。また、ダイアナがドイツ軍と戦う理由づけが甘いというかなんというか、「たまたま助けたのがイギリス軍の男だったから」以外に別に説明という説明がないので、そんな適当な理由で神のような能力を持つ人間がふつーの人間同士の戦争で片側に肩入れするとかありなの?だし、ダイアナが最終覚醒する理由も「はぁ?それ?」過ぎて、まったくエンパワメントされなかった。それでも、アメコミ映画界ではじめて、女性監督と女性のスタッフたちによって作り上げられた女性ヒーロー映画という意味では画期的だったことは確かだ。
 それと比べると、『キャプテン・マーベル』は男が全然絡んでこないし恋愛も全然ないところが良かった。最終覚醒する理由も「あなた(男)に対して証明しなければいけないことなど何もない」"I have nothing to prove to you."と気付くからなのだ。そして、なによりもキャロルには女性の親友がいて、キャロルを慕う少女がいて、対等なバディがいる。ダイアナに対して私が気の毒に思うことは、少女時代を一緒に分かち合った友人がいないことだし、共に闘った女友達がいないところだ。ダイアナの周りには男性はいるが、女性としての経験を共有できる友だちがいない。セミッシラでは、大勢のアマゾネスたちと共に訓練し、浜辺の戦闘でははじめての"本当の戦い"を共に闘うものの、彼女はひとりで故郷を後にして孤独に戦わざるを得ないのだ。

 さて、そろそろ『ブラック・ウィドウ』の話をしよう。ナターシャ(ブラック・ウィドウ)は『アベンジャーズ』1作目では紅一点、たったひとりの女性ヒーローである(その点はジャスティスリーグにおけるダイアナと共通していなくもない)。彼女は最初にも述べたように、この作品ではある意味では「色物」的な扱いも受けている。ナターシャが赤毛なのも古典的な「アバズレ」の表象だと言える(映像的な記号として、金髪は馬鹿で赤毛は淫乱と相場が決まっていた)。スパイもの映画と言えば007だが、現実のスパイの多くは女性で、その手法は007的な派手なものではなく、むしろ諜報機関においてはハニートラップが多用されるという話は聞いたことがあるが、ナターシャはコミック出身のキャラなので、色仕掛けで敵を欺けそうなルックスとスーパーソルジャー的な戦闘能力のハイブリッドという感じだ。
 そんな彼女の友だちはクリント・バートン(ホークアイ)という男性ヒーローなのだが、この二人の関係はずっと「親友」であり、そこには深い愛情がありながらも性愛関係はない。ここで、すでにダイアナとは異なるのだが、それでも、クリントは男性であり、女性であるがゆえの経験というものは決して共有はできない。そのことが二人の友情にとっては全く問題ではないものの、やはりナターシャにも苦楽を共有できる女性の仲間がいてほしい。
 アベンジャーズでは、続編で女性ヒーローたちも仲間入りしてくるが(アライグマも仲間入りしてくるけど)、ナターシャはなんとなく「地球チーム代表でみんなの連絡まとめ役」のようなポジションだった。

 そんなナターシャが、女性たちと協力し、女性たちを助け、自らの過去の罪とも向き合う姿を描いているのが『ブラック・ウィドウ』だ。

「私たちはモノではない」とまだ言い続けなければならない世界で

 レッド・ルームでスパイとして訓練されたナターシャと妹のエレーナ。自らの才覚でレッド・ルームから抜け出してアベンジャーズの一員となったナターシャと偶然「洗脳」を解かれたことで抜け出すことになったエレーナの二人が20年ぶりに再会して一緒にレッド・ルームを潰しにいくのだが、このレッド・ルームのスパイ兼戦闘員はすべてウィドウと呼ばれる女性たちだ。誘拐されたり売られたりしてきた子どもたちを訓練し、洗脳することで自在に操れるコマとして使っているのがレッド・ルームの首領ドレイコフなのだ。
 このジジイがとんでもないクソ野郎で、自分を狙った爆弾のせいで重症を負った実の娘までも、機械兵器のように改造して操り人形にしている。自分自身を護衛する兵士はアンドロイドなのか男性なのかわからない兵士たちなのだが、洗脳してコントロールしている戦闘員はすべて女性にしているところがハーレムのようなかんじで大変気持ち悪い。

「私は世界中にある天然資源を利用している、girlsという天然資源を」

とドレイコフは言う。
 boysだって、世界中にいるが、《資源》として利用されるのはgirlsなのである。これは、映画の世界ではなく、現実でも起きていることだと言える。男児の誘拐や人身売買ももちろんないわけではないし、その被害を矮小化するつもりはない。しかし、現実にもっとも誘拐や売買の被害に遭っているのは少女たちだ。
 レッド・ルームでは少女たちは戦闘の訓練を受けさせられ、脱落するものは殺される。現実社会では少女たちは売春を強要されたり、それだけでなく薬漬けにされて廃人にされて捨てられてしまうことも多いと聞く。ウィドウたちが科学的に洗脳されて、敵の手に落ちそうになると本人の意志に反してでも自殺させられるという描写は、この女性たちを使い捨てにする現実を反映していると思う。

 また、壮絶な人身売買がほとんど目に付かないような社会であっても、女性はその身体ゆえに「産む性」として搾取されるし、「代理母出産」という形での貧困女性の搾取も、女性を《資源》と捉えているからこそ起こっていることだと言って差し支えないと思う。また、性産業も女性を《資源》としている一大産業であると言っていいだろう。常に「新しい女の子」をどこかから調達してくることなしには成立しないからだ。
 一見、自由意思に見えようが、そこには見えざる手があり、女性たちの人生をコントロールしている。それは、「女の子は頭がいいとかわいくない」という刷込みであったり、「女の子には学問は必要ない」という学業への出資拒否であったり、「女のくせに」という男からのあざけりであったり、就職差別であったり、安い賃金や不安定な就労形態であったり…女性が個人から《資源》になってしまう落とし穴は無数にある。

 洗脳のせいで「どこまでが"自分"なのかわからない」状態のウィドウたちは、任務遂行のために互いに協力し合っているにもかかわらず、洗脳が解けて敵となってしまった相手のことはもうかつての仲間だとさえ意識できなくなる。しかし、彼女たちの間には、共に子ども時代から生き抜いてきた者同士の絆がきちんとあるということが、最後の場面でもわかる。逆に、彼女たちの「仲間同士の連帯」を阻むことで、クソ野郎は支配を可能にしてきたのだ。

 「資源化」という女性差別を告発しつつ、全体のテイストはコミカルでさえあり、唯一の味方側のメイン男性キャラであるアレクセイ(レッド・ガーディアン)は最初から最後までかっこいいところなし。こんな映画がこれまでにあっただろうか?女性キャラたちは別にベタベタと仲がよいわけではないが、必要な場面で必要な協力をし、それぞれの才能を活かして機転を利かせて共に難局を乗り切るところは気持ちがいい。
 男社会は女性を自分たちに都合よく洗脳し、分断して支配してきたし、それは未だに続いている。でも、一人では勝てなくとも、協力し合えば強くなれるし、きっと社会は変えられる。そんな希望を抱かせてくれる映画だった。

 アメコミ映画は頭を空っぽにして楽しめばいい!とわかったような口をきくヤツもいるし、その通り頭を空っぽにして観たとしても『ブラック・ウィドウ』はカッコよくて楽しい映画だ。以前、映画に描き込まれたフェミニズム的なメッセージについて書いた私の文章を読んで「みんな、こんなことをいちいち考えない」と言ってきた男性がいるのだが、みんなが考えるわけじゃないからこそ、考えた私が文章にしているわけで、それを読んであなたは何を考えるのか?ということなんだが、全然話が通じなかった。
 たかが映画の感想ひとつでさえ、女から何かを指摘されると不愉快になっちゃうような男性たちが「イマイチだった」とか「女性を主役にする意味がわからない」とか「男性を悪者にしすぎ」とか言っちゃうような映画が今後もどんどん出てくるといいなぁと思っている。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 普段は配信をお休みしている週に翌週のレターを書いているのですが、熱でくたばっていたために文章を書くどころの騒ぎではなかったもので、普段よりアラが目立つ気もしますがお許しを。映画館で最後に観た映画が『ミッドサマー』なこともあり、『ブラック・ウィドウ』については今書きたい!と思いました。

 では、また次回の配信でお会いしましょう。

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