《女》は捨てられない
「あのひと、女捨ててるよね」という陰口の叩き方を知ったのは24歳くらいのときだった。インカレイベントで一緒にチューターをやっていた女の子の口からその言葉が飛び出したときから、ずっと不思議に思っているし、彼女の言わんとすることは理解したが、それが「女を捨てている」という表現になることには未だに全く納得がいかない。
髪も気持ちもまとまらない10代
女性が化粧をしなかったり、服装・髪形に無頓着になったり、《むだ毛》とされる体毛の処理をしていなかったりすると、(主に)同性から言われるのが「女を捨てている」という陰口なのだが、私は別に《女の敵は女》という話をしたいわけではない。そもそも24歳まで、このテの陰口を知らずに生きてしまったくらい、周囲の女性たちからの「女を捨ててはならない圧力」がなかったので、むしろ、男性の側からの「こいつは(性欲の対象として)無し」認定のダダ漏れっぷりに、お前ら何様のつもりだよと思っていた。別に「有り」認定されたいわけではないものの、まぁけっこう失礼な態度を取られるので、そのことにはイラつかされたものである。性的対象として有りか無しかで、普通に授業の話してても態度違い過ぎなのはやっぱどうかと思うぞ…。
私は、小学3年生のときにショートカットにして、その後、髪質が変わって癖毛になってしまったこともあり、髪を伸ばしかけては中途半端な長さのときにうまくまとめられずに挫折するというのを10年以上繰り返していた。私が髪を伸ばしたかったのは、大好きなヘビメタバンドのメンバー(男性)のように髪を長くしたかったからなのだが、もうひとつに、髪が短いからという理由で「性格も男の子みたいなんでしょう?」と扱われる人生に嫌気が差してもいたのだ。
《ショートカット=男の子》のイメージが強かった時代に子どもだったので、小学生の頃はよく男子と間違われ、自分の名前を書いた自転車に乗っていて「これ、ほんとうに僕の自転車なのかな?」とおまわりさんに訊かれたこともある。
さすがに中学生にもなると、身長の低さや体形から男子に間違われる機会は激減したが、「男っぽいキャラなんでしょ?」という扱いはずっと続いていたし、それなりにミソジニー拗らせていたので「私は普通の女の子と違うんだ」とわざと必要以上に乱暴な言動をとるようなところもあった(ガキすぎる…)。
私は生まれ落ちる瞬間まで「きっと男の子だ」と無根拠に思われていた子でもあり、年子の姉と常に比較される人生を送ってきた(裏返せば、姉は一つ下の妹の私となにかにつけて比較されていたのだろうが、そういうことを考えるには中高生はまだ子どもであった)。姉がロングヘアだったことも、なんとなく自分はショートであらねばならない理由な気がしていた。しかし、私は「男はみんな馬鹿だ」と思いつつも、それでも私のことを理解してくれるひとが世界にひとりくらいはいるんではないか?とロマンスを夢見る乙女でもあったので、髪が短いだけで恋愛を望んでいないひとと見なされてしまうことにも不満があったような気もする。その一方で、そんな髪型ごときで線引きをするようなアホはこちらから願い下げでいいんでは?とも思うし…まぁ、そんなかんじで、ショートカット、服装はどちらかといえばボーイッシュとされるかんじで、化粧なしが基本のまま高校時代を通過して大学生になった。
大学時代も髪を伸ばしかけてはやめて…を繰り返していた。癖毛もちがショートからセミロングになるには日本の夏は暑過ぎるのだ!しかも、小学校低学年の頃は母に髪を結ってもらっていて、その後ずーっとショートなので、自分の髪をいじるのがものすごく苦手だった。どう頑張っても左右非対称になるし、かと言ってそれがオシャレに見えるような難しい髪形など無理である。ピン留めも満足に挿せない状態で髪を伸ばそうなどと無理なのか…?と諦めに近い気持ちでいた院生時代、とある男性ミュージシャンの髪形をみて、パーマかけてしまえば楽かもな、と思いついた私は髪を伸ばし始めた。
《幸せなフェミニスト》という落とし穴
冒頭の「あのひと、女捨ててるよね」発言を聞かされた当時、私は肩にギリギリ届く程度のくるくる巻き髪をしており、服もあまりボーイッシュにより過ぎてはいなかった(と言いつつ好きなチームのレプリカユニフォームで大学行ってたがな…)ので、まだ知りあって日の浅かった彼女は、私が「女を捨ててる」と言われる見た目で過ごしてきた時間の方が長いことを知らなかったのだろうが、逆に言えば、「女を捨てている」というのが一般的に当たり前に通じる世界で彼女は生きてきたということでもある。その言葉で彼女が言わんとすること、「あのひと」の何を小馬鹿にしているのか、そして、なぜそれが小馬鹿にされねばならないのか、そういったことが知りあって3ヶ月も経ってない私に通じない可能性を、彼女は考えなかったのだから。
もちろん、私も別に説明を求めたわけではなく、「ああ、男性に好ましいと思われるための努力をしていない女性はそういう言い方で馬鹿にされるんだなぁ」と瞬時に理解したわけなんだが、「ああはなりたくない」と言われるほど問題があるとも思えず、なんとなく曖昧に返事をしていた。
その後も、似たような発言を聞かされる機会は何度もあったのだが、すごく捩れているなぁと感じたのは、その子は「別に好きでもない男性から"君は僕のお嫁さんになるひとなんだから"みたいな謎設定で対応される」という経験もしているようで、そのことについては迷惑がっていたということだ。男性に好ましいと思われるようなルックスを整えていたら、そりゃ、好ましく思ってくる男性がいて、中にはストーカーみたいなヤツもいる可能性はある。それを身をもって経験しているはずなのに、なぜ「女を捨てている」ことにそこまで否定的になるのか、と不思議に思ったのだが、どうも彼女は「女性から"男性にモテている素敵な女性""自分もああなりたい憧れの女性"と思われたい」という願望があったように思える。
これは最近目にする「幸せなフェミニスト」推しと似ているな、と感じる。
自分はフェミニストだけれど、女性差別に怒ってばかりいる感情的なミサンドリストではなくて、素敵な《旦那さん》と子どもに囲まれた幸せなフェミニストなので、他の女性(および女性だけでなくみんな)のためにフェミニズムについて発信します♡
みたいなのが、正解で、女性からは「私もあんなフェミニストになりたい♡」と憧れてもらい、男性からは「あなたこそが真のフェミニスト」「ただのミサンドリストとは違う」と持て囃してもらうキラキラしたモテ・フェミ。
まぁ、それがやりたいひとは勝手にすりゃいいけど、「幸せなフェミニスト」が増えたところで、別に女性差別は解消されないことくらいは意識してほしいものだ。
女性差別の撤廃を訴えるのには体力が要る。男性と異なり、女性はそもそも意見を聞いてもらえないことが多い上に、どうでもいい言葉尻を捕らえられて批判されるし、揚げ足取りをしようと目を皿のようにして一字一句をチェックしている暇なアンチフェミまでいる。そういう障壁を越えながら、届けるべき声を届けるべき相手に届くまで発し続けることは簡単ではないのだ。
私個人が、恵まれた職場で差別をされずに働けていたとしても、私を理解してくれるパートナーに恵まれていたとしても、そのことは女性差別の解消になんの役にも立たない。
フェミニズムについて、学べば学ぶほど、これまで引っ掛かりを覚えなかった他者の発言や楽しく鑑賞できていたコンテンツにいちいち疑問を持つようになったりして、ある意味では「楽ではない」部分もある。そうした躓きをその都度言葉にして批判をしていると「いつも怒っている」ように見えるのだろうし、「幸せではないフェミニスト」に見えるのかもしれない。
しかし、「幸せではないフェミニスト」の主張を聞こうとしないひとは「幸せなフェミニスト」の主張も別に聞かないと思うんだよね。
そして、「幸せなフェミニスト」像の危うさは、それが商業主義に取り込まれやすいことではないかと思える。ハリウッドセレブなどのフェミニスト宣言に勇気づけられることがゼロだとは言わない。しかし、彼ら・彼女らの語るフェミニズムは、名もない毎日必死で生きている女性たちの必要としているフェミニズムなんだろうか?と思うこともある。
分断されてもなお《女である》という現実
新自由主義時代の世界は、金の臭いを嗅ぎつけるのがうまい人間たちに有利にできている。昨今大きな話題にもなっている代理母出産や卵子凍結などは、女性の選択肢の多様化のように見せかけた女性の資源化と商品化に簡単に接続されてしまう。実際に、大金持ちのセレブ女性が代理母を引き受けたという例は聞いたことがなく、大金持ちのセレブ女性がキャリアの中断をすることなしに代理母に子を産ませている話はいくらでもある。他人の資源にされる女性と他人を資源として扱う女性の間には越えられない壁がある。
美談のオブラートで包んだところで、実際に妊娠と出産をするのが相対的に貧しい女性であることには変わらない。最先端の技術は女性差別を解消するどころか、女性の搾取と分断を進めることになっている。
男の子に間違われたところで、私は男になれるわけではない。男っぽいとされる服を着て男っぽいとされる言葉を話したところで、私は女に生まれてしまって、この身体で生きていく以外に選択肢はない。
「女を捨ててる」と言われる女性だって、「女を捨てている女」として女性差別を受け続ける時点で、「女を捨てている」という表現はおかしい。実際には、女を捨てることなどできないのだから。そんなに簡単に捨てることができるのであれば、いっそのこと捨ててしまえたらよかったのに、と思ったことがある女性は私だけではないはずだ。
私は「女である」だけで、それは化粧を落とそうがゆるゆるの部屋着に着替えようが変わらないし、風呂でリラックスしているときも仕事中の緊張しているときも、特別に意識をしようとしまいと「女である」という現実がそこにあるだけだ。捨てることも拾うこともできない。その現実と折り合いをつけて日々生きてきたし、これからも生きていくしかない。
必死に自分の身体と折り合いをつけながら、社会の不公正に抗っている人間の怒りを「"単なる"ミサンドリー」と小馬鹿にした上で切り捨てる「幸せなフェミニスト」の残酷さよ。自分が「モテないブスBBAの僻みw」と嘲笑の対象にならないために、悩んで苦しんでいる女性たちの声をシャットアウトして、場合によっては「教養のない無知蒙昧な"ツイフェミ"」扱いして悦に入っている「幸せなフェミニスト」の醜悪さよ。
しかし、それでも、それさえ男社会に対する防衛反応の側面は否めないのだ。そのくらいに男社会は狡猾に女性を分断して何千年も女性を支配してきたのだ。敵には蓄積してきたノウハウがあるのだから、手ごわいのだ。
なかなか変わらない社会に心が折れそうになるけれど、それでも先に進みたい。
手始めにやっぱクソ男は🐻に入れて🔥かな。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
そもそもニュースレターをはじめた理由が、昨今のキラキラしたフェミニズムに馴染めないなぁというのもあったので、今回のはその辺りを書いてみました。
まだツイフェミなんていう蔑称がなかった頃、私も「フェミニズムを知ってハッピーになろうぜ」的なテンションでいたこともあるし、「男性にも共感しやすい言葉遣いを考えよう」とか思って発信していたこともあるのだが、まぁ、全然意味が無かったよね!ということで、やはり必要なのはミサンドリーの肯定だと思います。このあたりは過去のレターでも書いているので、未読の方はお時間のあるときにでも読んでみてくださいませ。
ホルガ村カエル通信はフェミニズム周辺を中心にあれこれ話題にする個人ニュースレターです。隔週金曜日を更新日として、その他、月一回【再録】シリーズとして過去にnoteなどに書いていた記事を再録してお届け…ということになっているんですが、先月は再録ものを編集する余裕がなくて定期配信のみになりました。
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