性的同意はお金で買えるのか

2023年の国際女性デー(3/8)に新宿歌舞伎町で開催されたフラワーデモで「性的同意はお金で買えない」という標語が掲げられた。これに対し、「セックスワーカーを危険に晒す」と抗議するためのカウンターが呼びかけられたのだが、「性的同意はお金で買えない」は被買春女性への差別を助長する言説であろうか?
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2023.03.18
誰でも

※ 今回は1万字以上あります。

※ 今回のニュースレターでは、「お金で性的行為を買う男性」を不可視化しないためにも、性産業で働く女性のことは、基本的に【被買春女性】と表記する。これは森田成也『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』(慶應義塾出版会)に倣ったものである。

フラワーデモとカウンター

 フラワーデモは、2019年の3月に相次いだ性犯罪の無罪判決への抗議と被害者への連帯から始まったスタンディング・デモで、今では全国各地で行なわれている。フラワーデモがここまで広がったのは、それが明確な抗議対象に向けたデモではなく、語る場(聞かれる場)のなかった体験を共有し、静かに連帯しながら、社会全体に性暴力の問題を訴えるものだったからではないか、と私は思う。
 東日本大震災以降、首相官邸前や国会前に集まるスタンディングデモは定着したし、私自身も時には電事連前や経団連前の抗議などにも参加してきたが、直接抗議の形が適するものとそうでないものがある。性暴力の問題は、刑事裁判・民事裁判になっていないものも含め、多くの女性にとって身近なもので、それにもかかわらず、語りにくい問題であり、耳を傾けてもらいにくい問題だ。「プラカードを持って」ではなく、「花を持って」集まるというのは、「女性ジェンダー」に則した行動のようにも見える。しかし、明確な主張やプラカードに書けるような文言が出てこないひとでも、デモに参加することにはまだ躊躇があるひとでも、「花を持って」そこに立つことならできる。被害を語る言葉を奪われることも、性被害のうちだ。花を手にすることがメッセージになるというのは、大きな一歩だったのだ。

 フラワーデモは、東京では東京駅前(行幸通り)で毎月11日に開催されるのが基本だ。しかし、今年はそれに加えて国際女性デーに、新宿の歌舞伎町でのデモが開催されることになった。新宿歌舞伎町(特に東横前)といえば、新聞などのメディアでも、「行き場のない若者のたまり場」として紹介される場所であり、そこには、若者たち(とりわけ女子)を食い物にしようと狙っている大人たちも集まってくる。そこは、一般社団法人Colaboがアウトリーチ活動をしている場所でもある。Colabo代表の仁藤夢乃さんは、これまでも、ネット上で数多くの嫌がらせを受けてきていたが、昨年末以来、とうとうネット上では収まらずに、現場での活動にまで嫌がらせをする人たちが続出している。そんな中、ちょうど新宿でのバスカフェ(10代の女性のための無料のカフェ)開催日である水曜日が国際女性デーでもあったことから、Colaboへの連帯の表明をするとともに、行き場のない女性たちの弱みにつけ込む形での性搾取を行なおうとする大人たちへの抗議の意味も込めて、東横前でのフラワーデモが企画され、「性的同意はお金で買えない」という文言が掲げられることになったのだろう、と推察する。

 これに対して、セックスワーカー当事者とそれに連帯するフェミニストを名乗る団体がカウンターを呼びかけた。曰く、「性的同意はお金で買えない」というのは、セックスワーカー差別に当たるそうなのだ。その差別的な文言を、よりにもよって、セックスワーカーの多い歌舞伎町という場で掲げることは、当事者を危険に晒す行為だ、とその団体は主張していた。その呼びかけの「成果」なのか、当日は、フラワーデモ開始前から嫌がらせが始まり、参加者の安全を考えた結果、フラワーデモは10分ほどで終了となったとのことだ。
 このフラワーデモへのカウンターを呼びかけた団体は、昨年2022年の5月に新宿で行われた「AV業界に有利なAV新法に反対する緊急アクション」という街宣に対してもカウンターを行なっているのだが、この団体がAV新法についてどう考えているのかは、いまひとつ主張がよくわからないままだった。AV新法に反対する街宣へのカウンターを行なうくらいなのだから、AV新法には賛成なのだろうと思ったのだが、その後、このカウンターに参加してたような方々はAV新法には反対だったらしいことはわかった。セックスワーカーに対する差別への抗議行動を呼びかけるグループのようなので、フラワーデモにしてもAV新法反対の街宣にしても、その主張全体ではなく、そこで使われている文言などの一部を「セックスワーカー差別」としてカウンターを行なっている、ということのようだ。
 「大枠での訴えには賛成するけれど、この文言には問題がある」と主張すること自体は、ときには、重要でさえある。見落とされていた視点を指摘することになるし、ちょっとした言葉遣いであっても、言葉によって社会認識が作られていくことを考えれば、軽視できないことも多いからだ。しかし、今回のフラワーデモにしても昨年のAV新法に反対する街宣にしても、主催者がわかっているのだから、そちらに直接問い合わせるといった方法をとることはできないのだろうか。また、実際に被買春女性を危険にさらしている加害者である買春男性や危険を承知で女性を働かせる店舗などはそのまま放置しておいて、女性が中心となって行なう平和的な集会に対してのみ、誰でも(女性に悪意を持つ男性でも)参加できるカウンターという形で、ある種の物理的・身体的な脅迫ともなりかねない行為をすることは、被買春女性の安全にプラスになるのだろうか。そして、立場は違えど、やはり男性からの悪意や暴力に晒されやすい女性たち(カウンターをかけられる側の女性たち)の安全はどうでもいいのだろうか。首をかしげてしまう。

 私自身は風俗での勤務経験もなければ、AVの視聴さえしたことがない人間である。性産業に関して、自身の経験として語れることは何もない。ぜひ、多くのひとに、ラブピースクラブに連載されている、爪半月さん黒田鮎未さんの文章を読んでもらいたい。彼女たちが身を削る思いで綴っている言葉に接して、その上で考えてほしいと思う。セックスワーク イズ ワークという言葉では救えない女性たちがいることを。その言葉によって、覆い隠されてしまう搾取があることを。

それが「仕事」だと理解していないのは誰なのか

 私は、ヘテロ男性向けの性産業とは、基本的に「男性が男性相手に女性の身体を利用してサービスを提供させて、その女性の労働に対する対価をかすめ取るもの」だと認識している。もちろん、例外もあるだろうし、女衒は必ずしも男性とは限らない。しかし、どれだけきれい事を重ねたところで、自分の身体ではなんのリスクも負わない男性たちが、身体(場合によっては命まで)をリスクに晒して客の相手をしている女性たちの受け取った金銭を部分的に取り上げることで利益を出している事実は覆らない。

 私は"Sexwork is work"に賛同しないが、彼らの主張としては、「売る売らないは私が決める」という性的自己決定があり、自分で「売る」と決めて誇りをもって仕事をしている、ということになっている。さらに、売っているのは「身体」ではなく、「性的サービス」なのだから、サービスを売っている他の職業と変わらないし、人身売買などとは違うものだ、ということのはずだ。
 そのため、私は、「性的同意がすでにあった上で、性的サービスに対して対価が発生している」というのが、彼らの主張であると理解していた。性的サービスの内容については、それぞれの店舗なりで金額設定があり、支払った以上のサービスを求めることはできない。だから、「被買春女性は性的搾取の被害者である」といった表現は、従事する女性の主体性を無視した戯言であり、それこそがワーカーに悪質なレッテル貼りをする行為であり、むしろ働く女性を危険にさらすものなのである、と。「体を売るような女は、自らの尊厳を売り渡しているような存在なんだから、何をしてもいいんだ」と客に勘違いさせるのは、女性たちを保護すべき犠牲者としてしか見ない外野であり、パターナリズムに陥った性嫌悪フェミニストたちである、と彼らは主張している、と思ってきた。(なお、"パターナリズム"であること、そのものが悪いわけではない。パターナリズム=悪であるというなら、福祉は成り立たないだろう。昨今、リベラル・左翼界隈では、「パターナリズムだ」とだけ指摘すれば、それが批判として成立すると思っていそうな発言を見かける機会があるが、それこそ思考停止だと言わざるを得ない。が、それはまた別の話。)

 ところが、である。「性的同意はお金で買えない」、これがダメだと言うので、正直混乱してしまった。というのも、それは裏を返せば、彼らが「性的同意はお金で買える」と主張していることになるからだ。これは、私の目から見ると、とても筋が悪い。彼らは、性風俗で売られているものが、「性的同意」であることを認めてしまっているのだから。
 「性的サービスを提供することが性的同意を含むのだから何も矛盾してない」と言われるのかもしれないが、それに客も納得しているのだろうか?性的同意が金で買えるというのならば、金さえ出せば何をしてもいいと解釈する客の方が多いのでは?というか、無茶な要求をしてくる客というものは、最初からそう思っているのではないか?中には、被買春女性と自分の関係を恋愛関係であると思い込んで(金では買えないとわかっているからこそ)、金で買える範囲を超えた何かを要求しているという場合もあるだろうが、いずれにしても、「性的同意が金で買える」という考え方が社会に浸透した場合に何が起り得るか、少し想像してみて欲しい。
 実際のところ、「金を払えば性的同意が買える」という考え方は、すでに今の日本社会には蔓延している。広義の「夜職」の女性たちが、性的な被害を訴えたときに、どんな言葉を浴びせられるか、知らないひとはいないだろう。香川照之の性加害事件を思い出してみて欲しい。口に出さないにしても、「高い金を取っているんだから、その程度のことは承知の上だろう」と思っている男性、性的な接触・射精介助をサービスとしていない高級クラブのような場所でさえ「お触りも料金のうち」だと思っている男性は多いのではないか?「性的同意はお金で買える」というのが常識の社会においては、「お金を受け取れば性的同意をした」と解釈されるし、「お金を出しているのだから、性的同意を得られている」という勘違いは勘違いではなく、正当な主張ということになりはしないだろうか?

 性的同意という言葉が、性教育の文脈などでもよく出てくるようになったのは、比較的最近だと思う。以前は、「夫婦である」「恋人である」ことが、すでに暗黙のうちに性的同意を含むものであると思われていた節があるし、はっきり意識しないまでも、そのように認識しているひと(特に男性)は未だに決して珍しい存在ではないように思う。夫婦間(恋人同士)でも同意がない性行為はレイプである、ということを知らないひとはいる。それどころか、「2人で食事に行った」「2人でアルコールを飲んだ」程度のことを、性的同意だと解釈している男性もいることは、様々なアンケート調査やレイプ被害女性に対する世間の反応からも明らかだ。女性は、「性的同意をしていない」ことを絶えず発信する義務を負わされているのだ。そうでなければ、(消極的にであれ)同意したことにされてしまうのだ。だからこそ、同意のない性的行為が犯罪であると法が規定する意義は大きい。今国会での刑法改正により、「強制性交等罪」から「不同意性交等罪」と名称が変わることで、この点は一歩前進すると言える。刑法は、罪を裁くだけでなく、社会認識を作る機能をも持つからだ。

客が買いたいものは「性的同意」ではない

 Sexwork is workを文字通りに解釈すれば、被買春女性は「お金のために」「仕事として」性的な行為を行なっている、ということであって、「そりゃそうだろ」としか言いようがない。言われるまでもなく、「趣味」や「無償奉仕」ではないことなど承知している。そして、そのことと、性産業が「男性による女性の性搾取」という構造を持っているという事実の指摘は何も矛盾しない。むしろ、性的行為を仕事だと認識できていないのは、「えっちなことが好きなんだね」「気持ちよくなってお金も稼げていいね」とか勘違いしている買春男性の方である。しかし、彼らに向けて「ただのお仕事ですよ」「あなたは"性的同意"をお金で買ってるだけですよ」と言う業者はいない。金で買った行為であるという事実は、買春男性を萎えさせるからだ(萎えてりゃいいと思うけど…)。
 だから、「性的同意は金で買えない」に反発して見せたことが、最初はちょっと不思議でさえあった。しかし、買春男性が、買いたいものは、そもそも性的同意などではなく、支配欲や嗜虐欲を満たす権利であり、女性の身体を毀損する権利なのではないか、と考えてみると、辻褄は合う。彼らは、性的同意という「買える商品」(「売られているから買うのだ」という主張はよく見られる)を買っているという体裁をとって、本来は買えないはずの性暴力への欲求を満たしているわけだから。

 性産業の非犯罪化を求める人たちは、被買春女性を性搾取の被害者として描写することが、当事者に「スティグマ(社会的にマイナスになる汚名)」を捺す行為であり、女性たちをかえって危険に晒すのだと主張している。しかし、本当にそうだろうか?むしろ、「性的同意はお金で買える」ということ、つまり、「被買春女性は性的同意をお金で売っている」ということそのものが、女性にスティグマを捺しているのだと、私には見える(このことについては、森田成也の本でより詳しく論じられているので、興味のある方は読んでみてほしい)。
 本来は、コミュニケーションを重ねて(多くの場合、それなりの時間や労力をかけて)得る性的同意を金で売る女性、それは、「家父長の子を産む家庭内の女性」(金で性的同意を売らない女性)に対置される。家父長制は、ただ一人の男によって所有され、その男の子どもを産む"貞淑な"妻を必要とする。妊娠・出産をする女性が"母親"であることは確実だが(※代理母出産が広まる現状、これも怪しくなってきているが)、遺伝的な"父親"が誰なのかはDNA鑑定でもしない限りははっきりしない。だからこそ、妻が産む子どもが、家父長の子であることを確実にするためにも、妻には貞淑が求められる。
 その一方で、均質な男性たちだけで構成される男社会においては、女性に対する性欲は、男同士の絆を強めるためにも、お互いに確認できるものであらねばならない。男性たちがつるんで風俗に行くことがあるのは、そのためだ。そして、そこには「家父長の子どもを産む女」ではない、全男性によって共有される被買春女性がいる。彼女たちは貞淑を求められない。むしろ、貞淑な妻とは別の存在であることが求められる。
 性産業を肯定する男性たちが、殊更に「彼女たちは性的なことが好きなのだ」「自ら選んで誇りを持って仕事をしているのだ」と言いたがるのはそのためだろう。"家で待つ貞淑な妻"と彼女たちが"同じ女性"であることを認めれば、家父長としての己の存在が揺らぐのだ。

 しかし、すでに述べたように「夫婦であるなら性的同意がある」と見なされる社会においては、婚姻によって経済的自由を奪われた家庭内の女性たちは、見方によっては「性的同意を特定のひとりに男性に買われた」状態だとも言える。特に望んでいなくても、結婚しているなら(付き合っているなら)性行為に応じるのは当然と思う男性が多ければ多いほど、家庭内の女性たちの性的同意は粗雑に扱われることになる。「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」とは、その男が妻の性的同意を金で買っているという告白でしかない。
 また、「女は男をATM扱いする」「女は男の年収(と顔)しか見ていない」と喚く金のない"優しい"非モテ男性たちはネット上には珍しくない。彼らの言っていることは、「自分は金がないから女から相手にされない」ということであり、裏を返せば「金があれば、自分も(自分専用の)女を買えるはずだ」ということだ。つまり、男性たちは、女性(との性的同意)は金で買えると思っているのだ。
 それは、「お金を払えば風俗で性的サービスを受けられる」というだけの意味ではなく、そもそも女性というものは性的同意を金で売っている(それも法外な料金で!)存在である、という意味も含む。だから、彼らは女性たちが「お金じゃないよ」と言っても、なんなら「モテたいならこうすれば?」と具体的なアドバイスをしても聞こうとしない。もちろん、そこには「努力してもモテなかったら?」という恐怖もあるだろうが、「どうせ金(と顔)なんでしょ?」という思い込みの強さも邪魔をしているように見える。

 一方、「非モテ自認のアンチフェミと自分は違う」と思っているリベラル・左翼男性たちは、家父長制における女性の分断についてはある程度知っていることも多い。だからこそ、被買春女性を特別視したり、やたらと被害者扱いすることが女性の分断と一方から一方への差別を生むと思っているようなところもあるかもしれない。そのため、被買春女性を性的自己決定を行なう主体として理解しようとし、意に反した性的行為を強要されているわけではないのだから、その他の女性たちとなんら変わらない存在である、と主張しているのだろう。しかし、ここに大きな落とし穴がある。
 まず、被買春女性とそれ以外の女性の間には、経験の違いが確かに存在している。誤解しないでほしいのだが、その経験の差を理由にどちらの方が優れているとか劣っているとか、そういう価値の差はない。優劣をつけることは差別である。しかし、当事者や元当事者の女性の語る経験とその経験による心身への影響は、非当事者にはないものだ。それは「どちらも同じ」では決してない。さらに、その上で、それにもかかわらず、すべての女性は男性たちから、性的同意を金で買える存在であると見なされる点では共通してもいる。そう考えると、「被買春女性がそれ以外の女性と変わらない」と言うよりも、「あらゆる女性が被買春女性と変わらない存在と見なされている」と言う方が現状の記述としては正しいように思う。

 リベラル・左翼界隈における性暴力案件とそれを庇う男性たちを見ていても、彼らが本当に女性の性的同意・性的自己決定について真面目に考えているようには見えないこともしばしばある。やはり、男性たちは、うっすらと性的同意は売られているし、売られているものを買うことは悪いことではないと思っているのではないか。なお、性産業の現場と異なり、性暴力案件の多くの場合、実際にその場で金銭が支払らわれることはほとんどない。その代わり、今後のキャリアや市民運動内での地位などがある種の「対価」として提示されるケースが多いと思われる。実際、同意のない性的行為を告発したこと・その告発を支持したことで、運動の成果に水を差したかのような扱いを受ける女性もいた。その一例については、過去の記事も参照してほしい。

性的同意はお金で買えない

 「性的同意はお金で買えない」と言わなければならないのは、まず第一に立場の弱い若年女性たちを守るためである。巨大化する性産業は、常に新しい若い女性を必要とする。誰もが日々年をとっていくというのに、手練れの年輩女性よりも、何も知らない若い女性の方に買い手側からの需要があるのだから、女性を搾取したい人間たちにとって、家にいたくない少女たちは格好の獲物だ。そんな少女たちが、金銭のために性的同意を売る必要がないように、居場所を作り、自立を支える活動が行なわれている場所のひとつが歌舞伎町だ。
 搾取の現場から離れた東京駅前ではなく、この場所でフラワーデモを開催するからこそ、より直接的な表現が必要とされたのだ。性搾取、それも脆弱な立場の少女たちを騙す形で行なわれている性搾取の深刻さが理解できるのであれば、文言の一部に賛同できなかったとしても、不特定多数にネット上でカウンターを呼びかけるという形で表明すべきではないことも理解できなければおかしい。
 信頼できる大人や頼れる大人がいない少女たちに、「性的同意はお金で買える」=「性的同意をお金で売ることは特別なことではない」というメッセージを伝えることが、どれほど罪深いことか、それがわからない人間がフェミニズムを語っていることに怒りを覚える。すでに、そういったメッセージは、そこここにあふれ返っている。繁華街をバニラカーが走り、ポルノスターがセレブとしてテレビに登場し、「パパ活」といった言葉も日常的にごく普通に目に入るのが今の社会だ。そして、一度、性売買に関わると、そこから抜け出すことが、経済的に難しい状況に追い込まれてしまうケースは少なくない。
 「好きで選んでやっている」という女性がいるとして、それは、性産業から抜け出せずに働かざるを得ない状況に追い込まれている女性を放置していい理由にならないし、性産業への入り口を狭くすることは、むしろ「好きで選んでやっている」女性だけが性産業に入る状況を作るのだから、なにも問題がないはずである。行き場のない少女たちを搾取しようと間口を最大限に広げて待ち受けている性産業の、その入り口を狭めることに反対する理由があるのは、女性を搾取したい人間たちだけだ。

 また、すでに述べたように、性的同意がお金で買える場があるということ、それは被買春女性だけでなく、その他の女性たちにも無関係ではない。「いざとなったら体を売ればいい」と言われ、そのせいで本来は受ける資格のある福祉から遠ざけられてしまうというケースを知らないひとはいないだろう。そうでなければ、なぜ「性産業はセイフティネット」などという言葉が出てくるのか?セイフティネットとは、本来は、望まずに性産業に従事しなくても生活できるように存在しなければならないはずなのに。
 それだけではない。「女とは性的同意を金で売る存在である」という男性の思い込みは、女性差別を助長する。そもそも、女性差別抜きに「お金で性を買う」という行為は可能なのか。男同士で連れ立って風俗に行くという行為は可能なのか。家族制度の批判などからも、性産業をリベラルなものと捉える言説はそれなりにあるが、残念ながら、家族制度を裏側から支えるものだからこそ、戦後ほとんどの期間を保守的な自民党政権が牛耳ってきた日本社会でこれだけ性産業が栄えることが可能なのだ。

 性にまつわることをやたらと「特別」扱いすることを、家父長制的だとか矯風会だとか言い出すリベラル・左翼は少なくない。しかし、現実に存在する物体としての身体の「傷つきやすさ」という観点から考えてみても、性には特殊性がある。それを無視してしまうことは、女性の健康と安全を著しく毀損することに直結する。たとえ身体的な傷そのものが軽度であったにしても、性的に傷つけられた記憶は、多くの場合、精神的な健康を奪い、その快復までにはおそろしく長い時間が必要となる。転んで擦りむいた傷とは全く違う。
 さらに、個々の男女の関係性がどれほど対等であったとしても、身体構造上、性的な行為においては女性身体の方が圧倒的に傷つきやすいという事実は覆せない。ましてや、そこに、金銭の授受があった場合どうなるか。「お金」は、一見すれば、等価交換のツールであるため、支払う側も売る側も対等であるかのように錯覚しやすい。しかし、実際には、支払う側の方が圧倒的に強い立場であるということを、私たちは経験的に知っている。悪質クレーマーは、支払う側が強い立場であるからこそ存在するし、不買運動が一定の効果を持つのは、買い手がいなければ売り手は淘汰されるからである。
 対等でない関係の性的な行為は、それそのものが、女性を危険に晒す。まずはそのことを認識するべきだ。女性を犠牲者扱いする言説があろうとなかろうと、物質としての身体の傷つきやすさは変わらないのだから。そして、「性的同意はお金で買えない」という認識を広め、対等でない関係で性行為を行なおうとする男性を批判していくことは、女性差別の撤廃と真の男女平等のためにも非常に重要なことであると、私は考えている。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 Twitterをはじめた頃と比べて、アンチフェミ的な言説も増えて「フェミニズムが広まってるんだな」と思う機会は増えましたが、フェミニズム側からのミサンドリー批判や性嫌悪批判も増えているように感じます。前回は、ミサンドリー批判がミソジニーと相性がいいという話などを書いたので、今回はフラワーデモの一件もあったので、性嫌悪批判絡みの話をしてみました。性嫌悪に関しては、すでに「性嫌悪と呼ばれるもの」という過去の記事でも丁寧に扱っていますので、合わせて読んでいただけると良いかと思います。
 また、本文中でも言及しましたが、森田成也氏の『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論』は、論点が非常にわかりやすくまとまっており、この問題に関心を持っているひとには必読の一冊だと思います。セックスワーク論の欺瞞を鮮やかに暴く部分もですが、日本国憲法第14条1項の平等権に関する論考も日本の女性差別(および差別解消がなかなか進まない理由)を考える上で重要だと思います。以下に詳細のリンクを貼っておきます。

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