"美"は選択なのか

シーラ・ジェフリーズの『美とミソジニー』という本を読んでいることもあって、あらためて「女性に期待される美しさ」についてのあれこれ。話題の「下着ユニバ」についても「文化のポルノ化」という補助線を引いて考えてみました。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.10.28
誰でも

※今回のニュースレターは1万字ちょっとあります。

老化とアンチエイジング

 まずは近況報告から…9月から上咽頭炎の治療を始めてそろそろ2ヶ月になろうとしている。相変わらず、喉の違和感は続いているし、鼻から綿棒を突っ込まれる(注:上咽頭擦過療法という治療です)と日によってはなかなか痛いし、たいていは出血もする。倦怠感やブレインフォグは、かなり軽減されてきたものの、「よし、もう大丈夫だな」と思える予感がない上に、体重は微妙に減っているというのが現状である。職場復帰して通勤をしているので体重が減っている可能性は高いが、筋肉が落ちてしまったというのもその理由な気がしている。
 そんな調子な上に、仕事のちょっとしたトラブルなんかもあって、毎日「誰か50億くれないかなー、できればユーロで」とか思って生きているのだが、まぁ、絶対に誰もくれないので、仕方がないから仕事をするのである。働きたくない!
 体調が悪いと、普段は意識しない「身体」や「内蔵」を意識させられるものだ。胃の具合が悪かった時は「胃袋があるなー」と感じていたし、体が怠いときは腕や脚などの「重さ」を感じるし、そもそも30代後半以降は「圧倒的に体調が良い!」という日が減って、長年使ってきた自分の身体とどう折り合っていくかを考えざるを得ない。

 身体の老化と言えば、アンチエイジングという言葉が普及して久しい。美容技術の向上もあってか、女性に対する「歳をとっても美しくあれ」という抑圧は、以前よりも増したようにさえ感じられる。いや、実際には、かつてはよく見られた「お婆さんの紫色の白髪染め」などから考えても、以前からその抑圧は間違いなくあったのだろう。最近はあの紫メッシュはあまり見ない気がするのだが、カラーリング剤なども日進月歩なので、当時は白髪に入りやすくて定着しやすい色が紫だったのではないか、と。真っ黒に染めるのは不自然だが、真っ白のままも嫌だなという女性のニーズと美容室の「カットだけよりカラーもした方が客単価が上がる」という経営上の戦略の結果だったのだろうと思われる。
 きっと私が意識していなかっただけで、昔から女性は年齢にかかわらず、美しくあれと言われ、その一方で「華美になりすぎるな」とも言われてきたのだろう。常に「マイナス5歳肌」だのなんのと、別に年輩者でもない女性にでさえ「アンチエイジング」を促すのが美容業界なのだから。

 私がアンチエイジング熱に敏感になったのは、自分が「歳をとっても美しくあれ」と言われる当事者になってきたから、というのも大きいと思う。かつては新聞の折り込みなどの印刷された形で「○○で痩せる!」「○○で白髪が目立たなくなる」みたいな広告はばらまかれていたのだが、今はSNSなどで個人に特化した形でサジェストされることも多いため、40代になったことで「40代女性向け」のそうしたアンチエイジング広告がピンポイントで提示されるのだ。
「40代のあなたに」と、ジムやヨガの体験コースが提示され、医療脱毛の特別割引が提示され、基礎化粧品が提示される。サプリメントなども「お肌のハリ」「うるおい」などに良いという文句とともにオススメされる。

 個人が自分の健康のためにジムやヨガに通うのは悪いことではないし、肌のコンディションを整えることは美容よりも健康に関わる部分もあるとは思う。肌が乾燥するとあかぎれを起こしやすくなるなどのトラブルがあるからだ。私が夏場にサボりがちな風呂の後のスキンケア(と言ってもオールインワンジェルを塗るだけ)を冬になると忘れないのは、単純に乾燥すると不快だからなのだ。しかし、多くの場合、女性に痩身や肌のケアが勧められる理由というのは、「美しくあるため」であって、その美しさというのは、どうもふわっと社会全般から求められているように見える。「女は見苦しい外見をしていてはいけない」のである。

「女」を構成する美容・装飾

 以前に、女性らしい外見を整えたり女性らしい振る舞いをしない女性が「女を捨てている」と言われるということについてニュースレターを書いているが、男性が「男を捨てている」と言われることがないのと対照的だ。もし、仮に「男を捨てている」という表現が使われる機会があるとしても、それは美容行為をしない男性に使われることはないだろう。美容行為をする男性は「女みたい」と言われることはあっても「男を捨てている」とは言われない。それは、「男である」ことには装飾や美容が含まれないからだ。裏を返せば、装飾や美容行為が「女である」ことに含まれるからこそ、それをしない女性は「女を捨てている」と言われるのである。(ついでに「男である」ことには何が含まれるか?と考えると「性的主体であること」=「女をモノにできること」かな、という気がするので、たぶん「男を捨てている」と言われる男性がいるとするならば、それは「女性との性行為に前向きではない男性」になるのではないか?)

 さきほど、女性に「美しさ」を求めているのは「社会」である、と私は書いたが、その「社会」とは当然「男性中心社会」であり、もう少し言ってしまえば、女性に美しさを強いているのは男性である。いや、そんなことはない、私は自分で美しくするのが好きなのだ、と思う女性もいるだろうし、いや、むしろ女性の方が女性の外見チェックは厳しいよね、と感じる女性もいるだろう。そして、それはある側面ではそうであると言っていいと私も思う。しかし、個々人の話から少し離れて、社会の構造を見た場合、「女性」という階級が美しさを求められていることも「男性」という階級が美しさに無頓着でも社会的な制裁を受けることはないということも単なる事実だと言って差し支えないだろう。

 自然界では、オスの方が装飾的であるケースはかなり多い。美しい羽を持っていたり、美しい鳴き声で歌ったり、美しいダンスを踊ったりして、オスはメスに選んでもらおうとする。そういった「美」の方向に振り切っていない場合は、「勇猛」の方向で立派な角やたてがみを持ち、オス同士で争ってメスを獲得するパターンもあるが、概してメスの方が地味である。世界には本当に多種多様な生物がいるので、簡単にひとまとめにはできないが、基本的にメスは体内に子ども(や卵)を抱えねばならない時期がある。場合によっては子育てもメスだけで行なう。そうなると派手な見た目は目立つため、天敵から身を隠すのに向かないというのも、オスの方が派手な理由ではないかと思う。そして、美しさで競い合う生き物の場合、選択権はメスにあるので、美しさは「選ばれる」ための道具として機能しているわけだ。

 人間社会はかなり複雑になっているので、単純に比較してはいけないのかもしれないが、女性が美しさを求められるのは、やはり「男から選ばれるため」という側面があると思うし、男性は女性を選ぶ立場だと(無意識のうちに)思い込んでいる。男性が女性のいない場で(なんならいる場でさえ)「ヤレる/ヤレない」「あり/なし」判定をできるのも、自分が相手からジャッジされることを想定しないないからではないのか。そもそもお前が無しだよ、と女性が思っている可能性は高いにもかかわらず、自分たちが一方的に女性を眼差して、一方的にジャッジして良いと思っているし、そのことにさえ自覚的でない男性のなんと多いことか。それどころか、「いや、俺的には全然ありですよ」が女性に対する褒め言葉であるとさえ思っているというオメデタさ!なぜ、自分の性欲にそこまで価値があると思えるのか?無駄にポジティブで羨ましいくらいである。

日本社会の「すっぴん信仰」

 では、女性は美しくあることをやめるべきなのか?女性が美容行為をやめれば女性への抑圧はなくなるのか?というのは、実はそれなりに難しい問題でもあると私は思っている。「美しくあらねば」と思う必要はないし、嫌な美容行為はやめていった方がよい。その一方で、私には懸念がある。仮に全女性が美容行為をやめたとしても、(特に日本の)男性たちは今度は「すっぴん」の美醜に言及し始めるだけなのではないか、という懸念が。

 もともと日本社会には根強い「すっぴん信仰」がある。「厚化粧のババア」的な表現が古くからあるのも、「薄化粧でも美しい」「すっぴんでも美しい」「化粧などの誤魔化しに頼らないのが美しい」と考えているひとはかなり多いからだ。隙のないメイクをきっちりしている女性よりも、ちょっと「抜けて」いる女性の方が良いと思っていたり、化粧をしていない女性の方が男慣れしていなさそうだから自分でもいけそうと思っていたり、「すっぴん信仰」にも幅があるだろうが、これまで日本社会でわかりやすくきちんと化粧をしていてわかりやすくスタイルの良い女性が男性全般からめちゃくちゃ持て囃されたことって実はあまりないのではないか、という気がする。そういう女性芸能人が出てきた場合、どちらかと言えば女性から「カッコいい」「自分もああなりたい」という形の支持が集まり、男性は少し遠巻きに「でもちょっと性格キツそうじゃない?」「俺はもっと自然体な方がいいかなぁ〜」などと言ってきたのではないだろうか。

 Twitterなどでも、女性だけに課される美容行為などについて批判的なツイートをしている女性に「その通りです!自分も女性は化粧してない方が美しいと思います!」と頓珍漢なリプライをしてくる男性はまあまあいる。しかも、本人は女性に賛同して女性の気持ちに寄り添っている気満々なのである。なんなら、好感度ポイントget!くらいの気分でいるように見える。オメデタすぎて眩暈がしてくるが、そういう男性は害意がないだけまだマシな部類でもある。というのも、世の中には「女はマンコしか価値ないんだから股開いてればいいだけ」とか言い出す連中もいれば、電車内でリップを塗り直しただけの見ず知らずの女性に「俺のことを異性として見ていない(気になる異性の前で化粧直しなんかしないはずだから:"化粧直し"の定義がおかしいがそれはここでは置いておこう)」と謎の敵意を燃やしたりする連中もいるからである。

 フェミニストと見なされた女性が「モテないブスBBA」と言われることからも、一般的に、男性は「美しい女性を獲得したい」と考えている(少なくとも、そういうものだと思っている男性が多い様子である)。しかし、一方で、彼らは懲罰感情で女性をレイプすることもできる生き物でもある。つまり、女性が装飾をすることで「美しいこの女をモノにしてやろう」という欲求が働く一方で、女性が装飾をしないことによっても「(男である自分のために)美しく装わないこの女を懲らしめてやろう」という欲求から性加害行為に及ぶ可能性がある。そして、被害に遭った女性は、装飾をしていれば「華美な格好をしていたから」と責められ、装飾をしていなくても「隙があった」などと責められ、女性の側に【落ち度】があったことにされるのだ。

女らしいと思われたいと思っている女と思われたくなかった

 私個人の話をするならば、私はとても素直な子どもだったので(笑)、母から「化粧は肌を傷めるし、化粧などしない方がよい」と言われて、「はーい!」とすっぴん街道を歩んで大学生になった。大学でも美容意識が高いタイプの女子は周囲に比較的少なめだったこともあり、基本的にはすっぴんで、でも、マスカラは面白がっていろんなカラーを集めたりもしていた。髪は小学生の頃からショートカットだったので、ヘアアレンジ代わりに帽子はたくさん持っていたけれど、いわゆる「モテ」を意識したファッションなどはせずに、かなりマイペースに生きていた。そのおかげもあって、「なし」判定を受けることが多くて、変な男からつきまとわれる系の被害はほぼ受けずに20代になれたのだが、自分の中には「自分は普通の女の子らしい女の子じゃないから女の子っぽい格好をしたいと思ったりするのは恥ずかしいことである」という思いがずっとあった。本当はいわゆる女の子らしい格好もしてみたいという欲求はあったのだが、「そんな風に思っていると他人に悟られてはならぬ」というか。そして、ややこしいことに、私は「女の子らしい」とされる言動などはしたくなかったので、「女の子っぽいファッションには関心があるものの、女の子らしい女の子だと思われたいと思っている女の子とは思われたくない」という拗らせを熟成させていたのである。

 そんな私が20代半ばで、髪を伸ばし(とは言っても女性のヘアカタログ的にはショート〜ミディアムである)、30代になってからはワンピースなどをよく着るようになって、若い頃を振り返ると、なぜあんなに「女の子らしい言動」や「女の子らしいと思われたがっている子と思われること」を怖がっていたのかというと、自分への自信のなさとそれと相反する自己愛の強さが原因だったように思う。自己愛が強いが故に他者からの否定を受け止める自信がなかったのだ。
 今はどうかと言うと、相変わらず自己愛が強く自己評価が低いところはあるが、とりあえず「他人がどう思うかはコントロールできないから、好きに思わせとけ」という気持ちでいる。そして、ファッションや言動をいちいち「女らしさ」と紐付けないでほしいと思う。ちなみに私が最初に髪を伸ばそうと思った当時に参考にしたのは、Bushというバンドのヴォーカリスト、ギャヴィン・ロスデイル(男性)の髪形である。そして、40歳になったらショートカットに戻そうと思っていたのだが、癖毛でつむじが3つあるという大変厄介な頭なので、ショートカットでカオスにならないためには割と頻繁にヘアカットしないといけなくて、時間的・経済的な余裕がないので、「いざとなればゴムで括ってしまえばOK」という長さのことが多い。そろそろ襟足を思いきり刈り上げてさっぱりしたいので、職場には是非とも給料を上げてもらいたいものである。

 すでに述べたように、30代後半になってから、胃の不調や頭痛など、体調が良くない日が増えたり、体力が落ちていることを感じたり、そういう身体の衰えについては「もっと若かったらな」と思うものの、外見的なことについてはそこまで気にしないでいるつもりであった。その上、かなりの近眼なので、鏡にずずーっと近寄らない限りあまり見えないこともあって、日頃はほとんど気にしていないのだが、ふとした瞬間に「あれ?白髪がだいぶ増えてる?」とか「おや、これはシミというやつでは?」とか「手の甲にハリがないってこういうことか!」と気付くことがあって、そういう時に自分の老化が全く気にならないか?と問われると、やっぱり気になるにはなる。別に美しいと思われたいとか美しくなければいけないとか思っているわけではなくても、使い込んだバッグの擦り切れや汚れに気付くように、自分の身体の変化に気付くし、その変化に少しガッカリする自分もいる。皴もシミも白髪も、自分が生きてきた証であり、別に恥じることはない。それによって自分の価値が下るとも全く思わない。それでも、それがなかった頃を懐かしく思ってしまうことはある。

 これは長年染みついた「女は美しくあるべき」という刷込みの結果なのか、本当に自分の好みの問題なのか、正直に言うと、自分ではよくわからない。あまり化粧をしない人生を送ってはいても、周囲に情報は溢れていただろうし、しかし、誰に何を言われたわけでもないのに、明確に自分の「好みの外見」というのも確実に存在している。どこまでが社会からの影響でどこからが自分の選択なのか、線引きは難しい。
 そして、私がどんな選択をしようとも、この社会は私を「女」と見なし、「だから、感情的で愚かに違いない」と判断する。「女だから非正規雇用でもいいだろう」「既婚者だから給料が安くても大丈夫だろう」と勝手に思う。

 シーラ・ジェフリーズの『美とミソジニー』という著作は、美容行為や「女性性」というものが女性差別といかに共犯関係を結んでいるかを明らかにする。「女の子らしい」格好を避けることで「女らしい言動」と紐付けられることを回避しようとしていた私にとって、30過ぎて手に入れた「女らしいファッションを纏える自由」は解放であったため、それはすべて「被支配階級」の徴でしかないのだ、と言われると戸惑いも覚える。フェミニストたるもの装飾は放棄するべきと「べき論」を持ち出されたら反発もしてしまうだろう。それでも、男性用と比較して機能的でない女性の服装(靴も含む)やファッション業界の女性への嗜虐的とも言えるセンスなどを指摘されると、自分の好みにも無意識レベルで女性差別的なものがしっかり組み込まれてしまっているようにも思う。長いこと「本当はしたかった」ファッションを諦めて、「女らしくない女に相応しい外見」に甘んじてきたという意識がある分、またそれに戻ることには抵抗がある。そして、ただでもチビで迫力がないので、ある程度は外見で睨みをきかせておかないと舐められることが多いのも事実なのだ。ただ、少なくとも、装飾が社会的にどんな意味を持ち得るのかについては、意識していく必要があるだろう。

下着ユニバと「ポルノ化する文化」

 このニュースレターを書いている途中で「USJで下着姿で撮影をしたインフルエンサー女性たち」のニュースを目にした。ハロウィン期間のテーマパークは仮装を楽しむゲストも多いのだが、パーク側からは「公序良俗に反する服装、および公然わいせつ罪などの法律に抵触する服装」を禁止するというルールが公表されているようだ。問題の写真も目にしたのだが、確かに透け感の高いレースの下着姿で、これはパークのルールに反するものだな、と私は思った。しかし、「何が悪いのか?」「好きな格好をしていいじゃないか」的な意見や「可愛い女性が好きな格好をして楽しんでいることに嫉妬しているに違いない」という既に見慣れた感のある《フェミはモテないブスBBA》のバリエーションも登場しているようだ。エロい格好、露出の多い格好を「強くて主体的な新しい女性像」として扱い、それを批判する女性はすべて「保守的でパターナリズムに縛られた古くさい女性」であるということにしてしまう言説は、リベラルな人々の間でも大人気だ。しかし、私には、これはジェフリーズの言う「文化のポルノ化」の影響の好例であるように思える。

 まず、確認したいのだが、テーマパークとは「何をしても許される無法地帯」ではなく、公共空間である。USJならばユニーバーサル・ピクチャーズの映画をテーマとする遊園地なわけでハロウィーン期間だからといって「仮装です」といえばどんな格好をしてもいいわけではない。道端や公共交通機関を下着姿でうろつくのが不適切なのと同様にテーマパークにおいても下着姿は不適切だ。プライベートな空間であればセクシーなランジェリーで過ごそうが裸族だろうが別に構わない。しかし、それは適切にゾーニングが必要なものである。「USJで下着姿になって何が悪いんだ!」と言っている人たちは、広告にエロ漫画の技法で描かれたイラストを用いることの問題がわからないオタクやコンビニにエロ本を置くことの何が悪いのかわからないアンチフェミと同じくらい感覚が鈍化している自覚を持って欲しい。

 また、「USJには子どももいるのだから」と言っている人もいて、それもひとつ大事な視点だと思う。というのも、そこらに露出度の高い人がウロウロしているのが当たり前の環境で育ってしまうと、性加害者に遭ったときに警戒したり逃げたりするのが遅れる可能性が高くなるからだ。子供を狙った性加害は少なくないし、加害者は認知が歪んでいるため、警戒が遅れた子どもは加害者から「性的な行為を受け入れている」「喜んでいる」と勘違いされてしまう危険も高まる。それは加害行為のエスカレートに繋がりかねない。そういう意味でも、エロは適切にゾーニングするのが大事だ。萌え絵の氾濫に慣れ過ぎた人たちが「乳袋はある」「スカートは股に貼り付くものだ」と現実の方を改変してしまう現象を、私たちはもう何年も見てきている。露出度の高い人たちや性的なものが公共空間に当たり前に存在していた場合、それがその社会で生きる人に影響を与えないと思えるほど、人間の認知は信頼できるものではない。

 振り出しに戻るが、そもそも問題として、子どもがその場にいてもいなくても、下着姿が公共空間にふさわしいものではないことは当たり前の常識だと思っていたのだが、これがポルノ化した文化においてはなにやら難しい話になってしまうようだ。ジェフリーズは、ポルノグラフィ的な価値観と諸実践がファッション、音楽業界、美術業界に溢れて、一般の文化に融合してきた様子を詳しく描写している。彼女は1980年代以降の欧米社会を、ポルノ産業が過去最大級に成長し、ポルノ女優がセレブとして扱われる「文化のポルノ化」がおきた社会であるとして批判しているが、これは日本社会もあまり変わらない。さらに、日本では、サブカル的な露悪趣味も広く愛好されるところがあるし、コスプレ文化にも歴史がある。ゲーム、漫画、アニメの女性キャラには露出の高い服装のキャラも多い。日本社会におけるゾーニングへの意識の低さには、欧米とはまた違った側面もありそうだ。
 いずれにしても、今「最先端」(であると当人たちは思っている)の「セックスポジティブ」な考え方によると、ポルノは女性の性の主体性の表現であって猥褻ではなくゾーニングの必要はないし、セックスワークは性的主体として女性自らの選択であり、セクシーな下着姿でUSJで撮影することを批判するひとは「はしたない警察」「ふしだら警察」ということになってしまうようだ。少なくともそうした露出表現の擁護の意見が出てくることを想定して、「下着姿で公共空間をうろつくのはダメ」という単純明快なことに対して「難しい」「モヤモヤする」と言葉を濁す人がいるということがわかった。深刻な事態である。

 「女らしさ」の強要はどんな社会にも必ず存在している。それは、男性の「男らしさ」を保証するためにも必要とされているものなのだろうと思う。男性が権力と冨を独占するためには、男性とは異なる「女性」というジャンルが必要だから。ただ、何を「男らしい」「女らしい」とするかについては各社会で微妙に異なっている点も多い。そのため、有効な戦略も必ずしも1つではないように思う。日本社会においては、どんな戦略が有効なのか、これはこの社会で生きる私たちが試行錯誤を繰り返していくしかないのだろうと思う。
 巨大産業に成長している美容・ファッションを一掃することはなかなか難しいし、今生きている人々の美意識を一気に変えるのも不可能だ。実際のところ、ジェフリーズが「ポルノ化」と呼ぶような文化の変容も徐々に起こって定着していったのだ。

 繰り返しになるが、性産業に否定的なひと、性的表現を好まないひとは、しばしば「保守的」だと批判されるし、「家父長制的」だとも言われる。これについては、『性嫌悪と呼ばれるもの』というエントリで詳しく書いたので割愛するが、性的なことにオープンなのが先進的だったのは1970年代じゃないのか?という気持ちがある。内心では、女性が性にオープンになってもメリットはたいしてないことをわかっていながら、「モテないかわいそうなひと」「セックスの相手がいないかわいそうなひと」「良いセックスの経験がないかわいそうなひと」と思われるのが怖くて、「性嫌悪ではありません」と言っているひとも多分いるだろうと思っている。だからこそ、私は「性嫌悪で何が悪いの?」と言っていくし、いつどこで誰に対してどの程度性的にオープンになるのかを決めるのは私であって、「SNS上でオープンにしていない=性的にオープンではない」でもないことは何度も確認したい。SNSはSNSであって、そこで社会が完結しているわけではないのだから。

 リベラルの悪いところは、自分や仲間たちとは違う意見を頭ごなしに「右翼」とか「保守」とか決めつけがちなところだ。なんでもかんでもイデオロギーで考えて二項対立にしてしまう。その方が物事が簡単に理解できた気になれるし、自分は「間違っていない」サイドにいると思えて気分も良かろうが、社会はだいたいそれほど単純ではないし、自分が間違っている可能性について真面目に考えないのは知的怠慢でしかない。どちらかと言えば正しいけれど30%くらい間違っている、って場合もあるしね。
 変に卑屈になる必要はないと思うのだが、それでも常に自分のことも振り返るようにしたいものだ。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 相変わらず配信スケジュールがぐだぐだになっていますが、少しずつペースを取り戻せるように努力していきたいと思います。今回、何度も言及した『美とミソジニー』は翻訳も読みやすくて非常に興味深い本でした(実はまだ全部読み終わってないです)。以下にリンクも貼っておきます。

 社会構造から考えれば、やっぱり美容行為は女性に「強制」されているのだろうと思います。逆に、男性は免除されていると言ってもいいかもしれませんが。日本社会においては、家事育児などもそれで、男性は免除されているからこそ、それをすれば「男性なのに」理解がある立派な人と見なされる一方で、女性がそれをするのは当然のことで、むしろやらない女性が「女性なのに…」と非難されるわけですよね。こういう話をすると、「男は家族を養うことを強制されているんだ」とか対抗してくるスットコドッコイがいるわけですが、家族を養うことは男性に「一人前」の称号を与え、昇級の理由を与えるのに対して、女性が強制されることは「やって当たり前」で「やらないとペナルティがある」ので非対称なのだということを理解しろ、と言いたいです。

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