代理出産の闇
代理出産に反対するのは「保守」なのか
妊娠・出産を巡る話はいろいろと複雑だ。というか、保守なのかリベラルなのかというイデオロギー対立の話が持ち込まれてしまうことで複雑にされてしまうことがある、と言った方が適切かもしれない。妊娠も出産も、女性にしかできない。その女性本人の意志に反して、妊娠させたり、出産あるいは中絶を強要することは人権の侵害である。
しかし、世界では、未だに女性が自らの意思で妊娠を中断することを違法とする国や地域があり、中絶に配偶者の同意が必要な国(日本のことだが)があり、「子どもを産まない女性は役立たず」であるかのような社会的な風潮がまっっったくない社会というのは、おそらく存在していないのではないだろうか。ジェンダーギャップが少ないとされる国々においても、公の場で口にしないまでも「女性にできる最大の社会貢献は妊娠・出産である」と考えているひとがいないとは思えない。
この春、代理出産に関連する本を3冊読んだ。具体的には、2010年代頃までのインドやタイなどにおける代理出産の状況をまとめた日比野由利の『ルポ生殖ビジネスー世界で「出産」はどう商品化されているか』(朝日新聞出版)、子ども向けに生殖補助医療を巡る法的な課題や倫理的な問題などをまとめた辻村みよ子の『代理母問題を考える』(岩波ジュニア新書)、そして、アメリカやオーストラリアなどのいわゆる先進諸国も含む世界の様々な地域での代理母経験者・卵子提供者へのインタビューをまとめた柳原良江監訳の『こわれた絆ー代理母は語る』(生活書院)の3冊である。この中で、特に多くのひと、とりわけ「無償代理出産はいいのではないか」と考えているひとにも読んでほしいのが、3冊目の『こわれた絆』だ。
代理出産によって子どもを設けたセレブカップルのニュースがファッション系メディアに「先進的な事例」として取り上げられることは少なくないし、ゲイのカップルが(以前には不可能であった)遺伝的に繋がりのある子どもを持つ「権利」を擁護するべきであると考えるリベラルな人たちも少なくないように見える。そのため、代理出産に反対するひとは、日本では特に「母性信仰に縛られている」「"伝統的な"家族観以外を認めたくない」「保守的な」人間であると見なされそうな気がする。
リベラルとされる人たちが、自分自身と異なる見解を述べるひとを簡単に「保守」だの「宗教右派」だのとレッテル貼りをしてしまう例は、残念ながら少なくないからだ。当ニュースレターでも何度か言及しているが、たとえば性風俗に関する議論などがその代表的な話題のひとつだ(「お前は黙れと言われ続けても」や「性嫌悪と呼ばれるもの」などの過去記事なども参照してほしい)。
しかし、代理出産が盛んな国であるアメリカの例を挙げるならば、保守派の方が代理出産に肯定的だったということは知っておいても良いだろう。人工妊娠中絶を巡る議論における、いわゆるプロライフ派(保守派)は「胚」をすでに「命」と見なすので、誰の遺伝子を持つ胚であろうと、それが誰の子宮に入れられていようと、命である以上は尊重するという立場だからだ。一方で、リベラル派が強かった各州においては、もともとは代理出産は全面的に禁止されていることも多かったものの、徐々に解禁される傾向があるようだ。
つまり、代理出産については、どちらかと言えば保守の方が代理出産と親和性が高い面がある一方で、「親になりたいひとの権利」という個人の権利の視点から賛同するリベラルも少なくないわけで、保守vsリベラルという対立軸で捉えることはできない、と考えるのが現状の正確な認識だろうと思う。
生命の誕生と親子の絆
多くのひとは「生命の誕生とは尊いことである、寿ぐべきことである」と考えている。だから、妊娠を知らされれば「おめでとう」と言うし、親しいひとの子どもの誕生に際して贈り物をしたりもする。
私は反出生主義者ではないので、こうした考え方には概ね共感できるのだが、しかし、「子が誕生することを善とする」ことを「子を設けないことを悪とする」ことに対置することには反対である。この世に生まれた命は大事にされるべきだが、「胚」を「女性の選択」よりも重視する考え方には断固反対だ。そして、なによりも「女性の選択」を軽視して、「子どもを産むべき」と言う男性や「中絶を勧告」する反出生主義の著名人男性に対しては、黙ってろ!と思っている。
ベネターという反出生主義の代表的な提唱者には、女性に中絶を勧告するよりも男性にパイプカットを推奨するか禁欲主義を説いてほしいと前から思っている。妊娠も中絶も女性の身体に負担がかかるが、男性が女性とセックスすることを諦めて自己処理していても妊娠や出産や中絶に相当するような身体的な負担はない。「自分は女性とセックスするけど、出生は避けるべきだから中絶を勧告する」って効率が悪過ぎる。馬鹿なのか?と言いたいが、おそらく馬鹿なわけではない。多くの男性にとって、女性の時間や労力は、いつの間にかどこかから無尽蔵に湧いてくるものであり、女性の身体的・精神的な負担は「感情的で愚かな女の大袈裟な話」でしかないのだろう。
取り立てて"子ども好き"というわけではなくとも、「自分の子は可愛い」「孫は可愛い」というひとはまあまあ多いし、それは「自分の血を分けた子どもだから」と思っているひとも少なくない。私の生物学上の父親の話をすると、子の成長について必要な関心を抱くこともなく、修学に必要な経費を負担することもなくても、自分の遺伝情報が入っているというだけで、20年以上もこちらから全く連絡をしていない(つまり、関わりたくないと思っている)私に会いたいらしいのだ。正直、意味がわからん…。とりあえず、私が奨学金の返済を毎月コツコツしていることは知っているのだから、黙って500万くらい振り込んでほしいな、としか思わんのだが、ヤツからすると「俺の娘だから」「家族なんだから」会いたいと思うのは当然(会う権利がある)ってことになるようだ。「家族なんだから」なんだっていうのか?しかも、親が離婚してすぐにちゃんと家庭裁判所で手続きして戸籍も別にしてるので、法的(戸籍的)にももう家族じゃない。(皆さん、ご存知でないかもしれないが、両親が離婚すると「親権」がどちらにあろうと、子の戸籍は「戸籍筆頭主」の方にそのまま残るので、親権保持者が戸籍筆頭主でない場合、そちらの戸籍に移るには家庭裁判所での手続きが必要なのだ!マジで戸籍制度は意味がわからない。早く廃止してほしいし、共同親権はダメ絶対!)
私が、自分の経験からも思うことは、"血の繋がり"も"同姓"も家族の絆とは何も関係がないということだ。私の両親は離婚前に別居期間があったのだが、別居先のご近所さんと婚姻時の名前でそれなりの信頼関係を築いていたことなどもあり、離婚時に母は旧姓に戻さなかった。父親の方は、そのことをもって、私たちが自分と縁を切りたいと思っているわけではないのだ、と勘違いしていたようなのだけど…、夫婦はもともとは他人だし、親子だって「たまたま遺伝的に繋がりがあったり、ひとつ屋根の下で暮らしていたりする"他人"」なのだ。そこに絆が生まれるかどうかは、関係性による。つまり、"血の繋がり"よりも、相手を独立した個人として尊重して、(未成年者のうちは)必要な保護や庇護を与えつつもできる限り対等な関係を作る努力をすることの方が大事だ。「いやいや、"血は水よりも濃い"だよ」と思いたいひとは思っていてもいいだろうが、子どもの側がそう思うかどうかは親には選べない、ということは覚えておく方が良いと思う。
強いられる犠牲的献身
代理出産においては、依頼人からの発信の方が大手のメディアに乗りやすい。その理由は色々あるだろうが、代理出産を引き受ける女性たちの中には、「代理出産を引き受けることを周囲に(時には家族にさえ)知られたくない」というひとも少なくない。インドなどアジア諸国の例では、女性たちはほぼ全員経済的な理由で代理出産をすることに決めているようだ。タイにおいては、そこに仏教的な精神なども絡んできて、代理出産をすることで徳が積める、というような心理的な報酬も意味をもっているようだが、経済的な困窮がなければ代理出産を引き受けるという選択肢が浮上することもなかったはずなのだ。
そして、経済的な問題と「女性の犠牲的献身の美談化」という問題は、何もアジアに限った話ではないということは、『こわれた絆』を読めばわかる。教育ローン(日本で言うなら"奨学金の返済"に当たるだろう)の不安から、卵子提供を決意したアメリカ人女性の話、生活のために代理出産を引き受けることに決めている東欧出身の女性たち、そして、インド人女性たちの話。そして、提供された卵子や子宮を利用するのは、それ相応のお金が払える裕福な人々なのだ。
すでに述べたように、海外セレブによる「代理出産で親になりました」というニュースは、もう珍しくなくなった。SNS上で、ゲイのカップルによる代理母女性の心身をあまりにも思いやらない動画や文言が批判されていた例もいくつかあった。しかし、それでも、大手メディアは「最先端技術で誰もが親になれる」ことを素晴らしいことであると思わせるように報道している。ニュースになる依頼者たちに対して、妊娠・出産を請け負ったり、卵子を提供したりした女性たちは匿名であり、どこまでも透明である。もちろん当人たちが名前や顔を出すことを望まないというケースもあるだろうが、遺伝情報こそが「親子」の証であるのなら、卵子提供者(精子提供者)が親と認められないのはおかしいという話になってしまう。ところが、卵子提供者や精子提供者は基本的に匿名であり、依頼者は提供者の「プロフィール」(写真、髪や目の色、学歴など)を閲覧してはいるが、両者が互いに知り合うことはなく、提供者は透明な存在にされている。つまり、代理出産においては、胎内で子を育てた女性でも遺伝情報でもなく「誰が経費を負担したか(依頼者が誰なのか)」が重要だということになろう。そして、それは、経済的な格差無しには成立しないように思う。
いやいや、そんなことはない。無償代理出産しか認められていない国(州)もあるし、経済的に困っていなくても利他的(お金のためではなく、誰かのため)に代理出産を引き受ける女性もいる、という反論があると思う。もちろん、そういった女性がいることは知っているし、無償で代理出産を引き受けたアメリカやオーストラリアの女性たちの経験談も『こわれた絆』には収録されている。そして、これが、有償代理出産と同様か、場合によっては、もともとは親しかった依頼者との関係を完全に壊してしまうという意味においては、有償代理出産以上に悲惨な結果になりかねないという事実は、もっと広く知られるべきだと私は考える。
本に収録された体験談は膨大な数の代理母たちのごくごく一部でしかない。それをもって代理出産全てを語ることができるとは思わない。そして、代理母(妊婦)のおかれる状況や産まない女性への社会の視線など、それぞれの社会で異なる問題というものも間違いなく存在しているだろうと思う。しかし、語られる経験に共通する部分はあまりにも多い。
たとえば、依頼主が男女カップルの場合は、代理母が妊娠した後、女性依頼人の方が、過干渉になったり、逆によそよそしくなったりという事例が比較的多く報告されていた。当事者女性(代理母)は、「依頼者女性は自分にはできなかった"妊娠"をしている自分(代理母)に嫉妬しているのではないか?」と考えているようだった。それが事実かどうかはわからないが、もし、そうであるなら、それは「妊娠・出産をできない女性は半人前だ」という社会通念に毒された結果なのではないか、と思う。自分たちで依頼しておいて、代理母が妊娠したら嫉妬するというのは、ムチャクチャな話なのだが、いざ現実になってみなければ想像がつかない感情というものもあるだろう。そうなると、依頼者たちは代理母の存在をできる限り消してしまおうとする。契約時には、しばらく抱き上げて母乳をやってもよいと言っていたのに、出産後にほとんど会えないまま連絡がなくなったという例もあれば、もともと家族ぐるみで付き合いがあって、実子と代理出産で産んだ子が友だち同士として仲良くできると思っていたのに、訴訟沙汰にまでなって産んだ子と会うことも写真を見せてもらうことも叶わないという例もある。
また、依頼者たちが妊娠前まではフレンドリーだったのに、妊娠した途端「子宮の中の子ども」以外には関心がなくなり、妊娠している代理母の体調や心の健康にほとんど関心を払わないという例も報告されているが、それはどちらかと言えば男性依頼者に多いようだ。
女性は自分が妊娠を経験したことがなくとも(体質的にできないとしても)、「妊娠する方の性別」として扱われてきた経験がある。それは、妊娠を"自分事"として考えさせられる経験だ。妊娠出産を「積極的に拒否する」という考えを持つことも、妊娠が"他人事"であれば起り得ない。男性が「自分が子どもを持つ」ことに関して、場合によってはこれといった意見を持たずに済むのは、自身が妊娠することが絶対にないからだし、簡単に「俺は子どもがいてもいいな」などと言えるのは、自分が時間や労力をかけて胎内で育てることも命の危険をおかして出産に臨むこともないからだ。
身体という逃げられない牢獄
望まない妊娠をさせられてしまう女性がいる一方で、切望しながら妊娠に至らない女性も存在する。「女性」という言葉でひと括りにしても、その経験には断絶もある。しかし、社会は個々の女性の経験には関心がない。ただ、女性である、というだけで、「そのうち妊娠・出産する」と想定されるし、妊娠・出産を経験せずに閉経を迎えれば「人間として大事な経験をし損ねた(もう少しはっきり言えば、社会に貢献し損ねた)女性」扱いを受ける。実際には、妊娠を望まない若い女性であっても、諸条件によって子どもを持つことを諦めた女性であっても、社会はそんなことには頓着しない。
身体的な条件で諦めざるを得ないこと、というのは残念ながら存在する。私は、身長が160cm程度は必要な職業に就きたかったのだが、150cmにしかならなかったので諦めざるを得なかった。子どもの頃から唯一の「なりたい職業」だったし、不十分ではあったかもしれないが、自分なりに努力もしていたが、私の身体はその職業に適したサイズになってくれなかった。こればかりはどうしようもない。幸いにして、私は「どんな状況でも頑張るし、楽しむぞー」みたいな精神も持ち合わせていたので、それなりに楽しく生きてこれたし、今から振り返るとその職業に就いていたとしてもあんまりハッピーじゃなかった気もするので、結果オーライではあるのだが、「諦めるしかないな」と事実を受け入れた時はガッカリしたし、多少は落ち込んだりもした。その夢と関係のあることをしばらくは避けてさえいた。そうしなければ、諦めるしかなかったということを思い出してツラくなるからだ。
それと一緒にしては失礼だと言われるのだろうが、自分の遺伝情報を持つ子どもを持つこと、というのも身体的条件によっては諦めざるを得ないことなのではないか、と私は思う。その思いがどんなに切実であろうと、そのためにどれほどの苦労をしたとしても、人間が身体という物体から自由になれない以上、自分の身体の条件によって叶わない願いというものは存在する。残酷な事実だとは思うけれど、しかし、だからと言って、お金さえ出せば(無償代理出産の場合も通院や入院などの経費の支払いは認められているため、通常はそれなりの金額を支払うことが約束される)、他人の子宮を利用しても何も問題がない、という考え方は残酷ではないのだろうか?
代理出産において、実際に利用されるのは子宮だけではない。その女性の時間や健康、精神的なものも含めた労力(食事に気をつける他、依頼者の希望で胎内の子に音楽を聴かせたりなどもする)なしに、妊娠の継続はあり得ないし、出産は時に命の危険を伴う。それを理解した上で、「必要経費を払ったのだから」「高額の報酬を払ったのだから」と女性の心身を利用することは、"残酷ではない"と言えるのか?
「銃で脅されて無理やり代理母にされた女性はいないじゃないか」「当人たちが納得しているのだから他人が口を挟むべきではない」と考えるひともいるだろう。また、宗教的な背景を利用した代理母賛美も手伝って、「自分にできる貢献をしたい」と代理出産を引き受けることを肯定的に評価する当事者もいる。しかし、「同意」がどのような条件下で行われたのか、ということを無視して「同意があった」ことのみに注目するのでは、社会的弱者への搾取は全て見逃されてしまうだろう。
もし、あの女性たちが、仕事で評価されていて、安定した収入があって、自分が「社会にとって必要とされている」「自分は価値のある人間である」と思える状況にあったら、同じ選択をしただろうか?裕福な家庭に生まれて、何不自由なく育っていたら?女性を「産む機械」だと思っている人間がいない世界に生きていたなら?
そして、代理母経験者たちの言葉は、「自分が同意したのはこんなことではなかった」と語っている。自分の胎内で育った命との間に絆が生まれることなど想像もしていなかった女性、依頼者たちとの関係が拗れてしまった女性、代理出産の際に命を落としかけた女性、複数回に及ぶ卵子提供の影響で健康を損なってしまった女性。彼女たちが「同意」した内容と、現実に起った出来事はあまりにも異なる。事前にどうなるかわからないことに「同意」することは果たして可能なのか。「同意」を盾に、女性たちを黙らせることは、"残酷ではない"のだろうか。
21世紀型の女性の資源化
実際には、ある程度のリスクは承知してでも、お金のために代理出産を引き受ける女性もいるだろう。グローバル化が進んだ世界でこれだけ経済格差が広がっている現在、搾取は簡単に国境を越えて行われる。
ちょっと話が横道に逸れるが、水道民営化の前例を思い出しておきたい。水道民営化の流れは00年代に広がったと認識しているが、たとえばロンドンの水道は、00年代当時、ドイツの会社が運営していた。その結果起ったことは、水質の悪化と水圧の低下だ。ドイツの企業はイギリス人がどんな水を飲んでいようと、水圧の低さに困ろうと知ったこっちゃない、というわけである(その後のロンドンの水道事情については、調べられていないので、詳しい方がいたら教えてください!)。
何が言いたいかというと、富裕層の代理出産依頼者たちは、自国の女性に対する以上に、他国の女性の搾取には鈍感になれるのではないか、ということだ。目の前にいる、自分と同じコミュニティの女性が差別にあっていれば、正しく怒りを表明できるひとであっても、経済的に"劣る"他所の国の女性を「産む機械」として、1年近くに渡って(実際には一度で妊娠しなければもっと長い期間になる)管理して監視して、何か気に入らない事態になれば中絶を命じることもできる代理出産という制度には疑問を覚えない。倫理観がご立派過ぎて呆れる。
さらに、どちらかと言えば、今後は国際的な代理出産マーケットにおいて搾取の対象とされるであろう日本にいながら、代理出産の問題点を指摘する女性たちを「ホモフォビアだ」などと糾弾している人たちは、自分たちが何に加担しようとしているのか、今一度よく考えた方がよいだろう。先進的で素晴らしい「誰もが親になれる」技術のために、「袋」にされる女性たち(あるいは「卵」を採取される女性たち)の存在はないことにされてしまうのだ。
鶏卵でさえ、倫理的理由で食することを忌避するひともいる一方で、充分な数の卵子採取のためにホルモン剤を投与され、その影響で卵巣が腫れたり、病気になったりする女性のことは話題にさえならないのが、スマートでエシカルなセレブたちの世界なのだ。
様々なリスクを承知の上で、それでも、女性が自ら選ばされるという構造が代理出産と性風俗の2つの産業に共通していることだ。そこには、確かに「選択」があり「同意」がある。しかし、それが「最悪」か「まだマシ」の選択である可能性を無視してはいけない。その選択は「法学部に進むか、経済学部に進むか」の選択とは全く別次元のものである。そして、「身体を使う行為」は、それ以外の行為とはまた別の形で、ある意味で「身体的に記憶される」のではないか、と私は思っているし、身体から自由になることができない以上、それは取り返しのつかない事態に結びつきやすい。
そういったリスクについて、代理母が事前に説明されることはほとんどない。そして、「代理出産で子を設けた」という依頼者たちの幸せな様子こそ、メディアには乗るが、「その子を産んだ女性」の声は誰からも聞かれない(依頼者セレブと笑顔で写真に収まる代理母も見たことがあるが、あのシチュエーションではそれ以外に何ができるだろうか?)。特に、それがハッピーな結果でなかった場合、その声を聞きたがるひとはいない。なぜなら、その声は生殖補助医療を商売とするひとたちにとって邪魔だからだ。代理出産を推進すれば、仲介業者、生殖補助医療関係者、依頼者または代理母を契約面などでサポートする弁護士など、利益を得られるひとたちがいる。一方の「代理母経験者による否定的意見」は、お金にならない。むしろ、生じ得る利益を損なわせるものになってしまう。資本主義と新自由主義は、21世紀になって、女性の人権を後退させることになったし、後退しているのが女性の人権「だけ」であれば、この社会はそれを問題だと認識できないようだ。
悪いのは、事前にリスクを説明しない生殖補助医療の関係者であって、子どもがほしいだけの依頼者たちには何ひとつ罪はないのだろうか?「子どもがほしい」という願いは、他人を犠牲にしてでも叶えられるべきものなのだろうか?自由とは「他者の人権を侵害しない限りにおいて」尊重されるものではなかったのか?
こうした問いから目を逸らさずに、代理出産を肯定することは不可能ではないだろうか。
女性の身体は、これまでも社会(を支配する男性)に資源として扱われてきた。女性が自分自身の身体(とその決定権)を取り戻すために必要なことはなかなか先に進まず、女性の身体を再び資源化する動きは急速に進んでしまう。自分は代理出産とは無縁だと思っている女性にも、そもそも妊娠出産が他人事である男性にも、こうした「社会のあり方」の当事者として一緒に考えてもらいたいと思う。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。今回は一ヶ月ぶりの更新になってしまいましたが、今後も気長に講読を続けていただけると嬉しいです。
まだまだ書き切れていないことがたくさんあるのですが、中でも「代理出産で生まれてくる子ども」側の視点の話については、今回は全く触れることができなかったものの、非常に重要な問題だと考えています。「産みの母親」が誰であるのかは知らされない例が多いようですし、場合によっては代理出産であることを秘密にして自身が妊娠出産したように装う依頼者もいるそうです。また、本文中にも書いた通り、卵子や精子の提供者は匿名であるため、子どもの「出自を知る権利」が制限されることになります。
こうした権利の問題以外にも、生殖補助医療は、まだ比較的新しいものであるため、長期的な健康への影響についてはわかっていないこともあるでしょう。代理母や卵子提供者の「その後」をきちんと追跡した調査もなければ、代理出産で生まれた子どもたちの健康などについての体系的なデータも存在しないままです。
産着に包まれた赤ん坊を抱く依頼者たちの、ふんわりと「良さげ」な写真を載せるだけでなく、その背後に隠されたものについて、大手メディアにはきちんと報道してもらいたいと思います。
そして、私は代理出産に強く反対する立場ですが、それは「代理出産で生まれてきた人たち」の存在の否定ではありません。以前、Twitterで「妊娠には、卵子・精子・子宮が必要で、どれかが足りなければ親切なひとが貸してくれます」といった発信をして批判された方がいたのですが、その方は自分の発言を批判した人たちを「すでに代理出産で生まれて生きている人たちを否定している」かのように言い募って、自身の発言の問題には向き合いませんでした。この態度は、性風俗批判に対して「風俗業に従事している女性を差別している」と話をすり替えるのと非常に似ていると思います。私や同様の意見を述べいている人たちは、「搾取の構造」や「搾取する側の人間たち」を批判しているのであって、その構造に巻き込まれているひとたち(風俗であれば従事者女性、代理出産であれば代理母や生まれてきた子ども)の存在を否定しているわけでも、批判しているわけでもないのですが…。
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