「より」安全なセックスとは?

Twitter、もといXから距離を取り始めて、3週間くらいになる。投稿はあまりしていないものの、ざっとTLをチェックする日も少なくはない。ただ、少しでも時間があればTLをチラチラ見ていた頃を思うと別人レベルではないかと思う。その結果わかったことは、SNSは自分で思っていた以上に私の時間を奪っていたということだ。もちろんTLに流れてくるニュースなどから知ったこと、勉強になったこともあるし、SNSから交流が始まった人たちもいるので、無駄だったとは思わない。私が、こうして文章を書く上でヒントになることもあるし、そもそも私が自分の受けてきた性被害を「性被害」であると認識できたのは、Twitter上の名も無き一般の女性たちのおかげなので、そのことは絶対に忘れたくないし、今後もその重要性については繰り返し言及していきたい。ただ、私にとっては、「文字ベースのSNS」が一度終わろうとしているのだと思う。
2011年から始めたので、2023年はちょうど12年目。なかなかキリが良い。
「よりセイフティーな素股」
さて、Twitterで溶かしていた時間を、それでは、今は何に使っているかと言えば、正直、自分でもよくわからないのだが、例によって体調がイマイチなので、音楽を聴きながら写真フォルダの整理などをしている。iOS君が勝手にクラウド保存してくれるおかげで、Twitter上のポンコツなミソジニスト(女性差別の話になると突如馬鹿になる左翼男含む)の発言のスクショなどもしっかり保存されていて、「なっつかし〜」となったり、「こんなのあったっけ?」となったりもしているわけなのだが、その中で思い出したのが「よりセイフティーな素股」という某男性の発言だった。
ことの発端は「セイシル」というwebサイトだ(TENGAヘルスケアが運営している「10代の若者が抱える性のモヤモヤにこたえるwebメディア」だそうだ)。若者からの質問に答えるという形式で、様々な性にまつわる疑問や不安に、ただ「臭いものに蓋」といった感じに大人がコントロールするのではなく、寄り添って答えるというコンセプトで作られているサイトであると言って差し支えないと思う。
そこで、「素股も妊娠するのか」という質問への解答として、「妊娠の可能性がある」ということよりも「素股のやり方」の方に重点をおいたような回答がなされており、性風俗従事者向けと思われる「客に主導権を奪われにくい素股のやり方」の載った18禁サイトへのリンクまで貼られていた。これを問題視した女性たちが、「必要なのは素股のやり方を教えることではない」「妊娠のリスクを軽く見積もりすぎでは?」「"安全な"素股などない」などの批判をしていたのだが、そこに左翼とおぼしき男性がしゃしゃり出てきて、お馴染みの「性嫌悪」批判をして、「好奇心も旺盛な若者が性に関心を持つのは当然!安全な素股のやり方を教えて何が悪いんだ!」と言い出したわけである。
そもそも妊娠のリスクがある時点で「安全な素股」などというものは存在しないと言っていいのだが、自分が妊娠する可能性がない男性にはどうもそのリスクというものが認識しづらいようである(あと「身体的なリスク」って妊娠や性病だけじゃなくて、もっと物理的なものもあるのだが…)。
まぁ、そんな流れの中で、「安全な素股なんかない」という私の言葉に対して、出てきたのが「よりセイフティーな素股」という発言である。
ここで「よりセイフティーな素股」と左翼男が言っているのは、コンドームの使用を前提にしたもので、男性に主導権を握られることで意に反して膣内に挿入されるなどの危険が少ない体勢で行われる素股のことだ。確かに、危険度がめちゃくちゃ高い体勢「より」は「安全」だが、それは「より安全」というよりも「危険が低め」くらいのものでしかない。しかも、残念ながら、体格や筋肉量によって、主導権は男性側に奪われかねないのだ。その体勢が「危険が低め」であるかどうかは、相手男性の「善意」に委ねられていると言っても過言ではない。それを「よりセイフティーな素股」などと、女性に向かって説教調で(しかも全世界に向けたマイクロブログであるTwitterで)書けてしまうところが無駄にポジティヴで関心してしまった。
(ところで、safetyって確かに形容詞としての用法もあるし、safety sexっていう表現もあるっぽいけど、普通はsafeの比較級とセットでsafer sexって言うと思うんだけど、どうだろうか?まぁ、カタカナで「セイファー素股」とか言うのも変だから「よりセイフティー」になっちゃったんだろうけど、だったら「より安全な」とかでよくない?という疑問が…。ってのは、また別の話。)
そして、このやりとりをしていて気になったことは「より」という日本語がある種の目くらましの効果をもってしまうのではないか、ということだった。
英語の比較級と「より〜」のニュアンスの違い
比較級の表現というのは、基本的に別の何かと比較してどうなのかという相対的なものである。たとえば、私は身長が150cm弱なので、成人女性としては背が低い方だ。しかし、そんな私であっても、6歳の子どもより背が高い。6歳の子どもという比較対象と比べた場合、taller(より背が高い)なわけだ。しかし、この「より背が高い」の部分だけを抜き出して、tallerは「より背が高い」という意味だと覚えてしまうと、「背が高い」という基準値があって、それよりも背が高い=「より背が高い」と勘違いしてしまうのではないか?という疑念がある。
待て待て、比較級には比較の対象を持たない用法もある!と思った方もいるだろう。そう、比較級は「Aと比べて(相対的に)〜である」という用法の他、具体的な比較の対象を持たないけれども「どちらかと言えば〜である」「比較的〜である」という絶対的な用法もある。そして、日本語の「より〜」が邪魔して分かりづらくなりがちな気がするのだが、この用法の場合、原級(比較級じゃない、辞書に載ってる形)よりも程度が低くなる。
Bon JoviのJust olderという曲を例に挙げると、サビの部分に♪It's not old, just olderという歌詞がある。これを「より〜」で訳してしまうと、「それは古くない、ただより古いだけだ」という全く意味のわからない歌詞になってしまう。しかし、oldは「古い、歳をとった」という意味だが、このolderは比較の対象を持たない用法なので「どちらかと言えば古い」という意味で、原級のoldよりも古さの程度が低い。そう分かって聴けば、「新しいか古いかで言えば、古い方に近いけれど、古いわけじゃない」ということだと分かる。
そういったことを考えていると、safer sexの訳語として「より安全なセックス」は「安全なセックス」という基準値があって、それよりも「さらに安全なセックス」という勘違いを産みはしないか、ということが気になったのである。実際に、「安全なセックス」と「より安全なセックス」のどちらの方が安全そうか?というTwitterアンケートを行なってみたところ、結果は半々くらいだった。24時間の短いアンケートだったので、あまり信憑性が高いものではないけれど、350票くらいで「より安全」の方が若干優勢であった。しかし、すでに見てきたように、「より安全なセックス」がsafer sexの訳語であるのなら、safe sex(安全なセックス)よりも安全度は低い。つまり、半分くらいのひとに誤解を与える表現になっていると言える。
そして、そもそも、安全なセックスなどというものはあるのか?という問題もある(※今回は男女間のセックスに限定して話を進めます)。セックスにおける「危険」には様々なレベルがあるとは思う。時々TLで話題でなっているような暴力系のAVや拷問系AVのようなものの「危険さ」に比べると、性感染症の危険、妊娠の危険などは割と軽く捉えられているのではないか、と感じることもある。
セイフティー素股おじさんも「ゴムをつけてれば危険と騒ぎ立てることではない」と考えているようで、ゴムが外れたら?外されたら?破れたら?という女性なら不安を感じるであろうことには想像が追いつかないらしかった。そして、仮に妊娠の危険がなくても、雑菌などで炎症を起こす可能性などもあるし、筋肉量や体重の差などから女性の身体の方に物理的に負担がかかる可能性にも想像を巡らしてほしいと思う。女性にとって完全に「安全」なセックスというものはあり得ない。その事実から目をそらしてはいけないと思う。
性と生殖に関する女性の健康と決定権
私は以前から「セックスにおいて重要なのは、同意と安全である」と言ってきているが、それは「安全なセックスがある」と思っているわけではなく、「両者の同意のもとで、できる限り安全に配慮して行われることが大事」だという意味である。「愛しているんだから」みたいなぼんやりしたお気持ちは二の次だということだ。「愛しているならセックスするのが当然」みたいな思い込みは有害だ。そのせいで、気の進まない性行為に応じている女性は少なくないように思う。だから、当たり前のことを繰り返し言わなければいけないのだ。今年(2023年)の刑法改正で「不同意性交」という概念が法律に登場したことの意味は大きい。
また、中高生に素股を教えることを批判した女性たちに対して、「家父長制に縛られている」という批判があったこともおさらいしておきたい。「家父長制」という覚えたての単語を使いたくて仕方がないのか?と思うほどに、リベラル男性たちは、性にまつわることで防衛的な反応をする女性相手に「それは家父長制の強化に繋がる」などと説教をしたがる。彼らに言わせると、「素股を教えてはいけない=膣挿入セックスしか認めない=異性愛至上主義=家父長制強化」ということらしい。まぁ、馬鹿らしくて鼻から茶を吹きそうだが、彼らは大まじめなので、こちらも大まじめに答えておきたい。
素股というのは「疑似膣挿入行為」である。そして、それは「売春」が禁止されていることから「挿入をしていませんよ?だから売春じゃありませんよ?」という言い逃れのために編み出された性風俗業界の技である。「売春は禁止だから建前上挿入はできない、それでも女性の膣に挿入している気分になって射精したい」という男性客のために行われる疑似挿入行為が、どう家父長制からの解放になると言うのだろうか?女性を「家庭内の再生産用女性」と「家庭外の性処理用の女性」に分断することは、家父長制の一部でさえある。性処理用の女性に妊娠などされては面倒だと思っている男性客たちが、それでも挿入行為に拘るからこそ素股などというものが必要になった側面もあるのではないだろうか?それが、異性愛至上主義へのプロテストになるわけがないと思うのだが…?
「勃起と射精」に男の沽券がかかっているかのような馬鹿馬鹿しい男性性をこそ批判した方が良さそうなものなのだが、リベラル男の多くも「射精したい欲」は否定されたくないのか、そこは華麗に見て見ぬフリで、まるで女性の側に「射精させたい欲」があるかのように「セックスワークをする自由を守れ!」「家父長制フェミはセックスワーカーを差別している!」などと頓珍漢なことを言い出すので困る。
そして、妊娠という結果を引き受けるにはまだ子どもである中高生に妊娠の危険性がある行為はやめておくように説くのは、大人としての責任だろう。残念ながら、我々が生きているこの社会は、妊娠した女子生徒が学業を続けること、進学すること、就職すること、キャリアを積むことが難しい社会だ。そして、妊娠の結果は、多くの場合、女子にのみ重くのしかかる。この社会は、男性側に「射精責任」を問わないからだ。それがわかる大人が、未成年者の性的好奇心をただただ肯定するだけで良いはずがないだろう。そして、素股を「より安全」であるかのように言うことを批判することは、膣挿入行為しか認めないこととは全く関係がないので、なぜ、そう短略的なのか不思議でならない。結局のところ、「男性が勃起して、挿入(あるいはそれに類する行為)をして射精すること」にばかり彼らの意識が向かっているからこそ、そういう発想になってしまうように見える。そういう己の視野狭窄っぷりを振り返ることもせずに、どうやって家父長制を解体するつもりなんだか…。
なお、この件で「素股はプロの技だから中高生は真似しない方がいい」と答えるべきじゃないか、といった内容ツイートしたところ、「実際にはプロも素人もない。なんの講習もなく客につかされる」といった声や「素股をさせていい女性と守られるべき女性を作るのは良くない」といった声も上がっていた。
この際なのではっきりさせておきたいのだが、当時の私のツイートはあくまで「中高生への返答としての方便」である。興味を持った中高生が「自分たちにもできるならやってみよう」などと思わないように仕向けるためには、どんな言葉が良いかを考えた結果だ。「別になんの講習もなしにいきなりやらされる」が事実であっても、それは「じゃあ、誰にでも出来るってことだよね」と気の進まない女子が押し切られる危険性を高めるので、中高生に向けて言うべきことだとは思わない。むしろ、そういった実情と向き合うべきなのは、Sexwork is workという標語を掲げて「性嫌悪批判」をしている、セイフティー素股おじさんのようなリベラル男たちだと私は思う。
そして、私は「性風俗従事者になら危険な行為をさせてもいい」などと思っていないし、すべての女性が性と生殖にまつわる健康と決定権を害されることがない社会の実現を願っている。
私は、ここで、あえて「健康と決定権」と書いたのだが、それは「子どもを持つ権利」のような「生殖周りの権利」の話は生殖補助医療などの「お金になる話」と結びつくこともあってか、比較的尊重されやすい感じがするのに対して、「女性の健康」「女性の決定権」については、アフターピルや中絶薬の例を見てもわかるように、未だに「できる限り後回し」という状況だからだ。
この日本社会においては、女性の身体が、女性本人のものだと本当の意味で認められたことはまだないのではないか、と思えてしまう。だからこそ、女性の身体について語ることは重要だ。私たちは、望もうと望むまいと、この身体で生まれ、この身体で死ぬしかないのだから。その口を塞ごうとする人たちは、女性が自らの身体の所有権を握ることが、家父長制にとって脅威になることに、もしかすると、心のどこかで気付いているのかもしれない。
今回のホルガ村カエル通信は以上です。
この記事を書いている途中で、大阪の音楽フェスでの痴漢事件もあり、やっぱり「女性の身体はその女性自身のもの」であるという認識が足りない人が多いんじゃないか、と感じました。また、元々コミュニケーションとしての身体接触(握手やハグ)の習慣がないことも他人の身体に対する距離感をバグらせる効果があるのかもしれないという気もします。もし、そうした社会習慣の影響もあるのならば、より意識的にプライベートパーツについてなど学んでいかないと、軽い気持ちで性加害(および二次加害)を行なってしまう人がなかなか減らせないのではないかと思います。
ホルガ村カエル通信は、私が(主にフェミニズム周辺の)気になる話題をひろって、だいたい月に1回くらいのペースで配信している無料個人ニュースレターです。配信後はweb公開しているので、講読登録しなくても読めますが、メアドを登録していただくと「購読者限定パラグラフつき」のカエル通信があなたのメールボックスに届きます。よろしければ、登録をお願いします。
暑くなってきてから、謎の体調不良もちょいちょい出てきて、なかなかまとまった文章を書く気力が湧かないことも多く、今後ものろのろ更新になると思いますが、先日、映画『バービー』を観て、「女性が置かれている状況を言語化することは大事」というメッセージに励まされたので、頑張りたいです。
最後に、今回の記事と関連するものとして、過去に「生殖補助医療」に関連しては、「代理出産の闇」という記事を、性嫌悪批判に関しては「性嫌悪と呼ばれるもの」という記事を、女性の身体の所有権については、そのままなタイトルの記事を書いているので、お時間があれば読んでみてください。
では、また次回の配信でお会いしましょう〜🐸
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