作者の意図と表現の自由

「作者の意図」は絶対ではない、という話などをしてみました。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.01.21
誰でも

作品批評と作者の意図

 ある作品を「作者の経歴」から説明してはいけない、というのは案外すんなり理解されないことがある。
 ある画家がいつも暗い色遣いの絵ばかり描いていたとして、それは「彼の人生が過酷でツラいものだったことを反映している」と言われると、ちょっと「なるほど」と思ってしまうひとも多いと思う。しかし、同じ絵を見せられたときに「彼の人生は常に明るく前向きだったからこそ、絵画ではそれと逆の暗い世界を描こうとしていた」と言われても、「なるほど」と思うのではないだろうか?
 芸術家にとって、その作品は実人生と完全には切り離せないことも多いので、個々のケースについて、その説明は的を射ている場合もあるけれど、一般論として、作者のバイオグラフィーからある作品を読み解いてしまうことは危険だし、なによりもそれなら作者のことをよく知っている人間や作者本人の解釈が一番正しいということになる。

 「作者本人の解釈が一番正しい」について、そりゃそうだろ?と思うひとも多いと思うが、表現物は表現された時点で作者の手を離れて、作者の意図を越えた形で社会に受容されたり、影響を与えたりしてしまうものである。作者本人の解説、つまり作者の意図はそれとして記録されるべきだが、受け手が作者の意図通りに受取るかどうかは作者にはコントロール不可能であり、それが芸術の力でもある。

 これまでに、このニュースレターで映画『ブラック・ウィドウ』や『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/私の若草物語』の感想を書いたことがあるが、私が書いたことはあくまで私の視点ではそう見える、そう解釈ができるという話であって、映画を作った側の意図と100%一致しているとは思わない。私が見落としたこともあるだろうし、過剰に読み込んでいることもあるだろう。しかし、それが発表された作品の宿命でもある。
 では、作者の意図は関係がないというなら、明らかに差別的な意図を持って作られたものや加害的な表現も許容されるべきかと言えばそんなことはないし、作者には社会的な責任もある。

 「芸術無罪」を唱えるひとはいつの時代もいるし、「芸術で政治的思想を表現するべきではない」と考えるひとが日本社会には多い。しかし、そもそも、「芸術」とは何か?誰が何を芸術と認めるのか?という問題を美術館の歴史から考えたとき、それは近代国民国家の成立と切り離すことができない。権力による芸術の利用は古くから行われてきたが、公共の文化施設という誰もがアクセスできる空間が国家によって用意されたことで「我々」と「他者」を区別する「文化アイデンティティ」としての芸術が広く共有されるようになっていったからだ(この辺りについては特に1990年代末頃に研究が盛んだったようである)。

フェミニストは表現の自由の敵なのか

 現在の日本で「表現の自由」というと、多くの場合、「ヘテロセクシュアル男性による女体フェチ表現をあらゆる場所で好き勝手に開陳する自由」のようになってしまっている傾向が見られる、ということについては、昨年11月のニュースレターでも取り上げたのだが、本来「表現の自由」とは誰から守られるべきものなのか、という点も誤解されているように思える。
 Twitterなどを眺めていると、「フェミBBAが表現の自由を脅かしている」と思っているらしき男性がかなり見受けられるのだが、「フェミBBA」には表現を規制する権力はない。表現の規制や検閲を行なうのは、権力をもつ人や機関である。

 アニメなどの作品に対する批判を嘲笑して「フィクションと現実の区別をつけろw」と言いだすオタクも少なくないけれど、フィクションでありさえすれば何をどう描いてもいいわけではない。殺人を正義として描くわけにはいかないし、横領を賢さとして描くわけにもいかないだろう。もちろん、あえて悪役に感情移入する形で描いたり、犠牲者を「嫌な人間」「最低の人間」として描くことである種の因果応報のような形に持って行く作品もあるが、それでも殺人や横領は決して「倫理的に正しいこと」としては描かれない。何が描かれるかだけでなく、「どのように描かれるのか」ということが大事なのである。
 
 現在、海外の創作物には、"これといった理由もなく"セクシャル・マイノリティが登場するようになっている。「なぜ理由もなく同性愛者を出すのか?」といった声に「実際に存在しているから」と応じているひともよくいるが、それに加えて「現実に(別に理由などなく)当たり前に存在することをフィクションが描くこと」の意味が大きい。なぜなら「ヘテロセクシャルが当たり前」「恋愛するのが当たり前」というある種の暴力的な刷込みを解除していくことに繋がるからだ。殺人を良きこととして推奨するような描き方をしてはいけないのと同様に、ヘテロセクシャルこそが正しくて良いことであるかのように描かないというは、単に「多様な人たちがすでにこの社会で一緒に生きていることを示す」という意味での作品内における多様性だけではなく、「こうあるべき」という刷込みを解いていくことになると思う。

 とは言っても、なんだかんだで、今でもヘテロ恋愛の方がたくさん描かれているし、そもそも恋愛をしない女性主人公というものがまだまだ少ないように思う。
「女とは恋愛のことばかり考えているパープリン(←死語)で、恋愛映画とは女が好む映画であり、少女漫画は非現実的な恋愛を描いた読む価値のないもので、女性同士の会話は中身がない」と思っている男性は、そこそこいるようなのだが、そのイメージをどこで得たのか?というと、割とフィクションなんじゃないかなぁと思う。女性にも「女だから恋愛をしてこそ、男性から選ばれてこそ」と思っているひとはいるが、その考えは「女性向けコンテンツ」によって強化されている可能性が高い。

侵食し合うフィクションと現実

 「フィクションと現実の区別をつけろw」という人たちは、フィクションが現実に与えている影響を過小評価し過ぎだ。『ワンピース』を読んで海賊王になろうとするひとはいないwと言うオタクは何度か目にしているが、それは「『スタートレック』見て宇宙艦隊に入るヤツはいない」と同じくらい馬鹿げた指摘だ。『スタートレック』にあこがれても宇宙艦隊に入隊はできないが、宇宙開発に関心を持った人、宇宙飛行士を目指した人、軍人になったひとはいるだろうと思う。『仁義なき戦い』を観たからといってヤクザになろうとするひとはいなくとも、肩で風を切って歩きながら「会社という組織の中でいいように使われる俺」を思ってふと空を見上げてしまった男性はいるだろう。『北斗の拳』を見ていた男子はみんな「お前はもう死んでいる」と言いまくっていたし、「アタタタタ」ってやっていたではないか?作品というのは、そうやって大なり小なり現実に生きるひとたち(あるいは、ひとが生きている現実)に影響を与えてしまうものなのだ。(ちなみに『スタートレック』的なドラマをリアリティ番組だと勘違いした宇宙人に助けを求められててんやわんや〜という映画が『ギャラクシー・クエスト』だ!宇宙人がちょっとイニエスタっぽいんだよ!)

 現実に「特定のある効果」をもたらす意図を持って作られた作品というものはもちろん存在する。宗教画のように視覚的に教義を表現したものや子どもに道徳的な振る舞いを教えるために語られる昔話のようなもの、戦意高揚のために描かれた戦争画や莫大な予算を投じて作られたプロパガンダ映画などがわかりやすい例だ。
 しかし、戦争画の例で考えるならば、勇猛な戦士たちによる戦闘シーンは「戦いの悲惨さ」や「死」を伝えてしまう可能性もあるし、「英雄としての死」は名誉なことと受け止められはしただろうが、命の儚さや戦争の愚かさについて考えさせてしまう可能性もある(なお、戦中の大日本帝国においては、そういう危険性があると判断された作品は検閲をうけて撤去されたりタイトルを変更されたりもしたそうだ)。

 「作者の意図」がどこにあろうと、どう受取られるかについて、作者にはコントロールが効かない。あまりに不本意な解釈や曲解について、異議申し立てすることはできるし、「自分としてはそのような受け止め方はされたくない」と作者が思うことも自由だ。しかし、「そうじゃない」の一点張りで相手の受け止め方を変えることはできないのも事実だ。
 表現の自由とは「自分の作品が自分の思い通りに相手に受け止めてもらえる権利」ではないし、「自分が表現したい方法で表現したものをいつでもどこでも誰に対してでも開陳していい権利」でもない。「表現したもののもつ影響力を無視して好き勝手にしても批判されない権利」でもない。

 そして、「作者の意図」というものは、結局のところ本当であるのかどうか確かめる術がないのである。本来の意図を隠して、「自分はこういうつもりで作品を作った」と言い張ることは可能だし、他人の内心を完全に把握することはできない以上、それが嘘であると断言することも難しい。
 もちろん、人間は生きていく中で、言葉の端々や表情から相手の意図や嘘を読み取る力をある程度は身につけていく。しかし、それは「状況証拠」のようなもので、相手の意図の絶対的な証拠にはならない。だからこそ、作品は時代とともに受容のされ方が変わったり、様々な視点から解釈や再解釈が繰り返される。特定の時代、特定の文脈に置かなければ意味を成さない芸術作品もあるし、作者の意図も含めて成立するタイプの作品ももちろんあるが、それでさえも時代の経過とともに別の意味を持つようになるのではないだろうか。

 だから、私は「作者の意図」以上に「作品の受容のされ方」の方に関心があり、「作品が社会に与える影響」や「社会が作品に与えている影響」に興味がある。どんな創作物も何もないところからは生まれない。作者が意識せずとも、そこには社会からの何らかの影響が反映されている。そして、受け手の側も意識せずとも作品から影響を受けている可能性がある。「単なるフィクション」「単なるエンタメ」などと言ってしまわずに、まずはその可能性について真面目に考えてみることが、表現の自由を守ることに繋がるのではないか、と思う。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 なんか最終的にえらい真面目なかんじになってしまった気もしますが、「フェミニストによる批判」を批判したいひとにはせめて「何が」批判されているのかくらいは正しく理解していただきたいなぁと思う事が多いです。
 もともとTwitterをメインのSNSとして使っているので、Twitter経由の話題が多いのですが、先日「嫁ごの尻叩き」のニュースを読んで、SNSなどほとんどやっていない層にこそ、まだまだ女性差別を女性差別と全く認識していないひとはたくさんいるのだろうな、ということを思いました。尻叩きのことは全く知らなかったのですが、「私たちの頃は本当に叩かれたものだけど、最近のお嫁さんは大事にされているね」と義母から言われるケースとかあったりして…。まぁせっかくならお婿さんの金○も叩いておいたらいいんではないか、と。

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 と書いたところで、岸田首相が「アート振興を推進」について衆議院本会議にて発言したとのニュースに気付きました。安倍政権下でも「政策芸術」を提言する議員がいたのですが、なかなかに香ばしい感じがしますね。とりあえず岸田さんには現代アートの発信がどうのこうの言う前に、国立博物館に収蔵品の維持修繕費を今の10倍くらい出してほしいという気持ちです。

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