聞け、我が咆哮を

ハリウッドの#metooから5年経って、日本でも映画界の性被害告発が相次いでいる。ナチュラルに女性をモノ扱いしてしまう日本社会で、「当たり前」すぎて見えにくい女性差別の話を今日も吼える。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2022.04.08
誰でも

5年遅れのMeToo

 ようやく、日本映画界でも、性暴力サバイバーたちが声をあげられるようになりつつある。
 権威主義的というか、長いものには巻かれろ精神というか…「お上には逆らわない」けれど、「目下の(と見なした)相手には横暴」というタイプの人間が量産されている我が国である。その芸能界がセクハラ、パワハラの温床であろうということは想像に難くなかった。ハリウッドでMeTooが広がったとき、「この動きは日本では起こらないのだろうな」と思ってしまったし、実際にあの時には広まらなかった。
 当時、様々なメディアが「なぜ、日本ではMeTooが広がらなかったのか」などという記事を出してて、いや、あんたらがきちんと報じないからだろ、アホか?と思ったものだ。その一方で、報じてもむしろ被害者バッシングが起こるばかりになってしまう可能性も低くないし、メディアを牛耳っているのもほとんどが男性であり、「お上に逆らわず、目下には横暴に」出世してきた人たちなのだから、性加害をはたらくような地位のある男性を敵に回す企画は通らないのだろうと思っていた。
 しかし、少しずつ、本当に少しずつだが風向きが変わってきた。というより、風向きを変えるべくコツコツと発信を続けた人たちがいた。そして、ついに加害者を名指しての告発が始まった。これが、トカゲのしっぽ切りのような形で中途半端で終わってしまうのか、日本の映画界を浄化する大きな動きに繋がるのか、鍵を握っているのは、やはり大手メディアだろうし、その大手メディアを後押しする世論だろうと思う。ここ最近、SNSの限界を感じて、少し距離をとりつつあるのだが、それでもSNSでもできることがある。
 SNSで騒ぐくらいしかできない私たち一般人が、SNSで騒ぎ、関連記事をシェアし、関心を示し、被害者への連帯を表明することは決して無駄ではないし、むしろそうやってこの動きを潰されないようにバックアップしていく必要がある。「氷山の一角」どころではない、大海の一滴のような告発された被害の影に膨大な数の被害があることは間違いない。中には、その件に触れてほしくない被害者もいるだろうし、そういう意味では扱いが難しい問題でもある。だからこそ、勇気を出して声をあげているひとを支える声を絶やさないようにしていくべきだと思う。

男性向けコンテンツの女性たち

 日本社会では、ポルノや準ポルノに分類できるコンテンツが、ごく普通のエンタメのような顔をして、様々な場所に陳列されている。そのような国において、女性は社会から無意識のうちに性的客体として認識される。とは言っても「女なんか性的客体に過ぎない」と日常的に考えているひとは少数だろうし、むしろ「女性は大切にすべき」くらいのことを思っていたりさえするひとの方がおそらく多数派だろう。しかし、それでも、多くの男性が女性に対してだけは、ある種の記号的な認識をしてしまいがちだし、ふとした瞬間に女性の身体を「自分(または他の男性)の所有物」として扱ってしまっているように見える。それは常に性的なニュアンスを伴っているとは限らないが、往々にして、そこには性的なニュアンス「も」含まれる。
 男性同士の会話における「あり/なし」「ヤれる/無理」といったジャッジはごくごく軽い話のようにされているが、相手の女性の意志を無視して「ヤれる」もクソもないし、セックスにはコミュニケーションの要素がかなりあることを無視して、生身の人間を「俺好みのセックスドール」かどうか品評する態度になっている自覚くらいはしてほしいものである。

 また、(主として)男性向けのコンテンツにおける、いわゆるラッキースケベ表現などは男性が積極的に主体とならずして女性を性的客体にする表現と言ってよいだろう。これが長年に渡って「ちょっとしたお約束」「ギャグシーン」として繰り返し描かれてきたことにより、多くの(特に)男性は「偶然女性の胸や尻を触ってしまう」=「ラッキー」だと学習していく。もし、偶然触ってしまったのが男性の性器であったり臀部であったなら、「ラッキー」ではなくて、「これは失礼しました(汗)」案件になるのではないだろうか。普通に考えれば、他人の身体に同意なしにうっかり触れてしまうのは、それがプライベートゾーンでなかったとしても、「失礼しました」案件であり、そのような場合は、まず相手の不快感(少なくとも「驚き」くらいはあるだろう)を考えるべきなのに、そこで、「(自分にとって)ラッキー」と思えるのは、相手のことを自分と同じ個性や感情のある個人として尊重できていないからだ。

 漫画やアニメにおいては、描かれる女性は「誰かの意図」を反映して描かれているため、作品内での行動が主体的であろうとなかろうと、彼女は描かれた客体ではある。では、実写コンテンツや風俗における女性はどうだろうか。拳銃を突きつけられて無理やり脱がされることは基本的にはないはずだから、彼女たちは「主体的に脱ぐ女性」と捉えていいだろうか。

 「主体的に脱ぐ女」を褒めるひとたちは、「彼女はお堅いPTAみたいなフェミニストとは違う」「彼女は性的なことに積極的で主体的な女性だ」「彼女こそが性的自己決定権を正しく行使しているのだ」と言う。"良心的な"左翼男性などが良い例だと思うが、そう信じている男性ももちろんいる。しかし、実際には、彼女が誉めそやされるのは、「主体的に性的客体になっている」からなのだ。無理やり脱がせなくとも、脅したり宥めたりしなくとも、「主体的に」脱いでくれるのは男性にとって都合がよい。しかも、「性的客体化されたくない」などと"フェミかぶれ"なことを言わずに、男性の妄想に都合のよい形で肌を晒してくれれば文句なしである。恥ずかしがったり、「嫌よ嫌よも好きのうち」的に軽く拒絶の姿勢を見せることも含めて、主体的に脱ぐ女の客体化は完成する。しかし、コンテンツやサービスを売る側は「あくまで女性は主体的に脱いでいますよ」というフリをするし、買う方も「彼女たちの主体性を尊重している」つもりでいる。

 それが「つもり」に過ぎないことは、彼女たちが性被害を告発したときや男性側の無理な要求を拒否したときの反応を見れば明らかだ。男性たちは、「主体的に脱ぐ女性」のことを、「男性の性欲」(性的加害欲と呼ぶ方が適切な気がするが)を肯定してくれる存在として、自分に都合の良い客体だと思って誉めそやしていたからこそ、性被害を訴えられた途端、手のひらを返して「自分から脱ぐ女が被害者ぶるな」「最初から業界に入らなければよかっただろう」と自己責任論を振りかざして非難を殺到させる。本当に相手の主体性を尊重する気があるのなら、望まない性的接触は性被害であることを認めるのは難しくない。そして、男女の身体差や権力差によって、女性側が「NOを表明することができなかった過去」を語る声を遮ってはいけないことも、理解できるはずだ。

当たり前で厄介な差別

 差別は他と比べて相対化してはいけないものであるというのは大前提とした上で、被差別属性の人数が一番多い差別は女性差別だ。世界中で、地域ごとに程度の差はあるが、どこに行っても女性差別は存在する。女性差別は、当たり前過ぎて気にされない差別でもあり、被差別当事者が多すぎるために社会の大きな変革無しには解消できない厄介な差別でもある。今、多くの女性たちが行なっているのは、「女性が差別されるのは当たり前じゃない」という異議申し立てであり、問題の可視化である。その際に、女性ジェンダーに対する差別と女性身体に対する差別の両者はきちんと分けて議論すべきだと私は考えている。どちらも深刻な女性差別であり、両者はある部分では相互補完的でもあるため、どちらを優先すべきという話ではなく、どちらも別個に、しかし同時に考えていく必要がある。

過去のニュースレターでも一度紹介している『存在しない女たち』から少し引用しよう。

性別やジェンダーについては本書の全体でふれるが、私はデータにおけるジェンダー・ギャップを包括的な用語として使っている。なぜなら、女性がデータに含まれていないのは性別のせいではなく、ジェンダーのせいだからだ。多くの女性たちの生活に他大な損害を与えている事象を挙げるとすれば、それしかない。ここで根本的な原因を明確にしておきたいのだが、本書に出てくる多くの主張とは裏腹に、問題は女性の体ではない。問題は、女性の体についての人びとの思い込みと、それを明らかにしようとすらしない社会全体の怠慢である。
キャロライン・クリアド=ペレス『存在しない女たち』、神崎朗子訳、河出書房新社、2020年、p.10

 女性差別は「女性の身体」に対する差別ではなく、ジェンダーに対する差別であり、よって身体は関係ないのだ、と言うひとが増えた。そう考えているひとたちは上の引用文を読んで、「そうそう、身体の性別ではなくてジェンダーが差別されているんだよ」と納得するのだろう。しかし、ここには大きな誤読がある。
 まず、「問題は女性の体ではない」というのは、女性の体に劣っているところがあるわけではない、という話であって、女性の身体が平均的に男性よりも小さく、筋肉量が少ないという事実の否定ではない。「そんなはずはない!それはここで問題にされている"女性の体についての人びとの思い込み"だ!」と彼らは言うだろう。しかし、「現実に女性の身体を持って生きるひとをデータから排除することの弊害を述べていこう」という本の冒頭で、身体差を否定していると読んでしまうのは、自分の"思い込み"に記述内容を寄せてしまう解釈だ。ここで問題とされているのは、女性を男性と同等の「人間」と見なさいジェンダー観であって、男性をデフォルトとすることで害を被る「人間」がいることに気付かないまま、女性を存在しないものとして扱ってしまうことである。

 女性差別の根拠を身体に求め、「男性より劣った身体だから"区別"されるのは当たり前」と差別を正当化する言説が間違っているのは、身体差がないからではなく、違いがあっても差別してはいけないからだ。そして、多くの女性差別は「身体の違いに由来している区別である」という言い訳によって正当化されるのだが、クリアド=ペレスの言うように、実際には女性に関する客観的なデータは少なく、「成人男性の平均値」に合わせた社会設計(インフラのような物理的なものだけでなく週40時間労働という制度的なものも含む)では女性は常にハンデを負わされ続けているということが顧みられていない。女性の身体が「劣ったもの」扱いされるとするなら、それは社会設計が男性基準だからなのに。

 「女性を弱いもの扱いするのこそ女性差別」「自分は女性だからって被害者扱いされたくない」などという反発もあるのは知っている。しかし、社会が不平等に出来ていることを正しく理解しないまま、「自分は強いんだ、被害者じゃないんだ」といくら言ったところで女性の立場は変わらない。むしろ、強くなくても被害者にならない社会こそが必要だと私は思うし、この「強い」「弱い」は本人の努力ではどうにもならない権力勾配の話なので、強いとか弱いとか気にしないでいい社会になってほしいと思っている。

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 日々、女性差別と深く関わるニュースが入ってくるので、何を書いたらいいのか、どんな視点で書けばいいのか、最近は迷うことが多いのですが、「女性差別がある」ということを認めたくない人たちが女性差別を認識するための思考を放棄していたり、「自分も無意識に女性を見下している」ことに気付きたくない人たちが女性たちの口を塞ごうとしていることは何度指摘しても指摘したりないので今後も吼えていきたいと思っています。
 タイトルは、わかるひとにはわかると思われる『ゲーム・オブ・スローンズ』のラニスター家のあれですが、Hear me roar!って響きがちょっとカッコいいと思いませんか?そして、こういう風に知覚動詞って使うのか!と語学オタク的な喜びもあります。

 今回のニュースレターは過去の「女性の身体は記号の集積ではない」「作者の意図と表現の自由」「性嫌悪と呼ばれるもの」「女性の身体の所有権」あたりの記事とも関係のある内容ではないかと思うので、お時間があれば読んでいただけると嬉しいです。

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