「単なるミサンドリスト」が批判される本当の理由

フェミニズムが"売れるコンテンツ"になって以来、「フェミニズムを知れば生きやすくなる」系の発信を見る機会も増えたけれど、自分の生きやすさと社会正義は一緒くたに語らない方が良いこともあるよ。ということで(?)、久々に「ミサンドリー」のお話。
珈音(ケロル・ダンヴァース) 2023.03.06
誰でも

※ 今回は1万字ちょっとあります。

 最近、また、「ミサンドリー批判」が増えてきたなぁと感じる。「"真っ当な"フェミニズムはミサンドリーとは相容れない」「"正しい"フェミニズムを学べばミサンドリーとおさらばできる」といった内容の発信をする人がいる。しかし、このニュースレターを昔から読んでいる方々はすでにご存知の通り、私は、常に、誇り高きミサンドリストとしてフェミニズム周辺の話をしている。今回は、ミサンドリーとは何なのかということを復習すると共に、昨今ミサンドリー批判が流行る理由、そして、それが女性差別をなくす上で意味のあることなのかを考えてみたい。

5分でわかるミサンドリー(復習)

 まず、ミサンドリーはミソジニーの対義語であるが、それはあくまで言葉の成り立ち上の話であって、実社会におけるミサンドリーとミソジニーは、構造的にも性質的にも対を成していない、という点は非常に重要だ。なぜなら、ミソジニー(女性嫌悪・女性蔑視)は、男性中心社会の構造に組み込まれたものなのに対して、ミサンドリーが構造に組み込まれた社会というものは存在していないからだ。
 ミソジニーが女性嫌悪、ミサンドリーが男性嫌悪、と訳されることから、「ミソジニーもミサンドリーも良くない」と誘導されてしまうひとがとても多いのだが、まず、ミソジニーとは単に「女が嫌い」という話では全くない。「女性」を「男性」よりも劣ったカテゴリ(階級)に分類した上で、その心身を支配し、男同士の絆を強化するための道具として利用するのがミソジニーである。だからこそ、ミソジニストは女性を憎むと同時に女性の身体の搾取を望む。それが、性行為の道具(穴)としての場合もあれば、自分の遺伝子を持つ子を孕む袋としての場合もあるが、いずれにしても「ミソジニーだから女性に近寄りません」「ミソジニーだから女性は必要ありません」という男性は少数派である。というか、そもそも、社会構造が「ミソジニーとホモフォビア(同性愛嫌悪)を支柱とするホモソーシャル(均質で規範的な「男性」=「健常者ヘテロセクシャル男性」のみを正規構成員と見なす社会)」なので、基本的にすべてのひとが社会化される過程で、大なり小なりミソジニーを身につけている。そのため、ミソジニーを自覚することは、誰にとっても相応に難しく、とりわけ大抵の男性はミソジニーを指摘されても「いや、俺、女好きだよー」とか反応しちゃったりするのだ。しかし、この「女が好き」の内実をもう少し分析してみると「女体が好き」でしかないことも多く、要するに"意志や個性をもった人間としての女性"ではなく、"エロい肉塊としての女体"が好きなだけというケースもかなりある。いやいや、女性を自分たち男性とは別モノの"エロい肉塊"だと捉えるのはミソジニーですよ…と。

 一方のミサンドリーは、この社会の構造に組み込まれていないので、大人になる段階で自動的に身に付くことは稀だと言える。むしろ、逆に、女性であってもミソジニーを身につけて成長するパターンの方が多い。たとえば、「女同士の関係はどろどろしている」「女の敵は女」みたいな言説を真に受けて「私は女の子とはイマイチうまく付き合えないな」と思っていた経験がある女性は少なくないのでは?ミソジニーの洗礼は強烈なのである。その強烈な刷込みを解除していく過程で、ミサンドリーは獲得される。ミサンドリーは、ミソジニーが渦巻く社会で受けてきた理不尽に対する怒りであり、男性からの見下し・差別・性的侵犯に対する抵抗の手段なのである。   
 すでに様々なひとが指摘していることだが、女性にとって「人生で最初の性的な接触」はほとんどの場合、性被害である(「性被害」とは、露出狂や痴漢などに遭遇することも含む。これまでの経験上、これらを「性被害」だと認識していない女性も結構いると思われる)。それも、一度で済めばまだラッキーかもしれない。加害者は、身近な大人の場合もあれば、電車の中などの知らない相手の場合もあるし、大人になるまでに何度も被害に遭っている女性は少なくない。
 そうした経験から、女性が、男性全般を警戒するようになり、なんならできる限り男性を避けるようになることは何も不思議ではない。そして、ミサンドリーを抱える女性たちは、あくまで「男性を避ける」だけで、ミソジニーを抱える男性とは違って、わざわざ男性に寄っていって男性を"エロい肉塊"として搾取しようとはしない。
 この社会には、女性を見下して搾取する構造があるので、多くのひとが、無自覚のままであろうと、少なからず女性差別をしてしまっているのに対して、男性を「下級市民」として搾取する社会構造というものは存在しないので、積極的に「男性を搾取するぞー!」と意気込まない限り、ミサンドリストであっても、うっかり男性を搾取してしまう、ということはない。この大きな違いはしっかり認識しておきたい。

  まとめると、この社会では、みんな自動的にミソジニストになれてしまうけれど、ミサンドリストになるのは(多くの場合)「被害の経験」からである。ミソジニーは標準装備なので意識されにくく、それゆえに無自覚のまま女性差別に加担している人間は多いが、ミサンドリーはミソジニーへの異議申し立てであり、差別や加害行為に自動的には結びつかないし、ミソジニーが消えれば、不要になって消えていくものである。

「みんなのもの」になったフェミニズムの落とし穴

 フェミニズムが「売れる」コンテンツとなったここ数年、ミソジニーという単語がこれまでになく一般に広まったようだし、ミソジニー批判もそれなりに出てくるようになった。しかし、それに呼応するようにミサンドリーという単語も広まり、「お前はフェミニストではなく、ただのミサンドリスト!」のようなミサンドリー批判も増えた。
 こういった発言をするひとが、そもそも「フェミニスト」をなんだと考えているのか、というと、ベル・フックスの本のタイトルでもあるFeminism is for everybodyを和訳した「フェミニズムはみんなのもの」という標語のもと、フェミニズムとは「男女関係なく、あらゆるひとの解放を願う思想・運動」だと考えているように思う。しかし、「男女関係なく、あらゆるひとの解放を願う思想」はヒューマニズムである。フェミニズムはヒューマニズムの要素を含むが、そのヒューマニズムが取りこぼした「女性」の権利があるからこそ必要になったものである。これは、非常に重要なポイントなので、忘れてはいけない。「人権」の「人」に「女性」が含まれなかった時代があるからこそ、フェミニズムは生まれたのだ。
 「売れる」コンテンツであるためにも、男性にも耳触りの良い言葉の方がメディアには乗りやすいし、男性の発信の方が反発されずに受容されていくので、結果として、そういった"男性にも優しいフェミニズム"言説に触れて「そうか、フェミニズムって"女の権利"のことばっかりじゃないんだ!」と目覚めてしまったらしき男性も多い。しかし、フェミニズムが誕生した理由を考えれば、自分にとって耳の痛い話や(男性にはメリットのない)女性の権利の話ばかりするフェミニストのことをミサンドリスト認定して、フェミニズムから切り離してしまおうとする態度は問題だとわかりそうなものである。しかも、「男女関係なく、あらゆるひとの解放」と言いつつ、自分の気に入らない女性はフェミニズムから排除してしまおうというのだから、矛盾が鮮やか過ぎる。

 なお、ミサンドリーを批判するのは男性に限らない。一部のインフルエンサー女性たちも、ミサンドリーを批判して、「フェミニズムは男性を排除するものではない」と発信している。ミサンドリー批判をする女性は、男性からも「きちんと自省もできる女性」「男女平等を考えている正しいフェミニスト」と評価されるし、女性ファンからも「その視点も大事だ、私も反省しなくちゃ」と敬意を持ってもらえる。
 一般的に言って、女性は様々な場面で自省をするように躾けられて育つので、フェミニズムのような「女性が多い」ジャンルであっても(だからこそ?)、そこで一度立ち止まって自省することが正しいと感じやすいように見える。そして、多くの場合、女性たちは、自分の権利を主張することに慣れていないということも手伝って、"きちんと自省できている自分"を意識できた方が安心できるのではないか、とも思う。
 しかし、自分たちの「不当に奪われた権利」を主張する際に、「不当に権利を奪ってきた男性」に対して遠慮(配慮?)しなければいけない、というのは、考えてみれば、とてもおかしな話である。フェミニズムに出会って、女性(である自分)が差別されているという事実にやっと気付き、女性(自分)の権利のために声をあげようとしている女性に、「男性嫌悪(と取られるような発信の仕方)はダメだ」と釘を刺す事は、女性を躊躇させ、黙らせる効果を強く持つ。男性が不快にならない範囲で、男性が協力してくれる範囲で、女性の権利を主張することも、確かに無意味ではない。しかし、社会を変えてきた過去のフェミニストたちを思い出してみよう。みんな、男性たちから「不細工なフェミBBA」扱いの風刺画を描かれ、男性たちからの(時には国家権力からの)暴力に晒されて闘っていたではないか。男性にも優しいフェミニズムは、確かに社会に広く受け入れられるだろうが、それは本当に女性差別をなくすことに繋がるのか?私には甚だ疑問である。

「敵は男性ではなく家父長制」?

 また、ミサンドリー批判の際に、よく言われるのが、「"女性の敵"は家父長制であって男性ではない」というやつである。家父長制が女性差別の構造化であるのはその通りだ。しかし、家父長制という概念は、実はそれほど簡単ではない、と私は思っている。というのは、「家父長制」という名前のモンスターがいるわけでもないし、今の日本に「家父長制度」という名前の1つの具体的な制度があるわけでもないからだ。様々な法制度や慣習などが家父長制をベースに作られ、継承され、さらに家父長制を強化する役割を果たしているからだ。確かに、「家父長制とその価値観は敵」なのだが、敵として名指すにはあまりにも曖昧な存在でもある。
 そして、「男性は敵ではない」というのは、果たして本当だろうか?家父長制によって利権を独占してきたのは、誰なのか?家父長制という原理に基づいて、社会の支配形態を作り上げ、存続させ、そこで女性を支配してきた「主体」は誰なのか?という問題を不問にしたままで、本丸の家父長制を解体できるとは、私には思えない。「男性」は抑圧者として名指される必要がある。本人が望んで男性に生まれたわけではないが、その立場だからこそ、得てきた恩恵もあれば、逆に見えていないこともある、というのは単なる事実でしかない。事実だからといって、指摘されることは楽しいものではないだろうし、ツラいと感じることもあるだろう。しかし、それを認識せずに、ふんわりと「家父長制が敵」と言ったところで、家父長制をどうこうできるとは思えないのだ。

 ここで、「ミサンドリー批判」の場面で、ミサンドリーはどんなものだと想定されているのか、ということも整理しておきたい。どうやら、ミサンドリーとは「フェミニズムvs.男性」みたいな構図で物事を捉えることらしいのだが、こちらはそんな単純化をして話を進めているつもりはないので、困惑する。私自身、ある差別構造に関連して、「男が悪い」という言い方をすることがあるが、これに「男で括るな」と反発することについては、"みんなのためのフェミニズム"推進派の中からでさえ、それなりに批判が出るので、何を基準に「フェミニズムvs.男性」認識だと思われるのか、と考えてみると、フェミニズムの主体は誰なのか、という話であるように思う。
 要するに、「フェミニズムは女性のもの」という主張、これが「ミサンドリー」とされているようなのだ。しかし、すでに述べた通り、フェミニズムが誕生した経緯を考えれば、フェミニズムの主体が女性である、というのはごくごく当たり前の話でしかない。誤解しないで欲しいのだが、個人としての男性がフェミニズムによって救われることはあるだろうし、男性が実生活でフェミニズムの理論や実践を活かすことにも、なんら反対する理由はない。「フェミニズムは女性もの」だからと言って、男性が個人としてフェミニズムから得るものがあることを、私は否定していない。むしろ、以前から繰り返し言っている通り、フェミニズムは長期的に見れば、この閉塞した社会を変えることで、男性にとっても利益のある思想・運動であることに間違いはない、と私は思っている。しかし、短期的に見れば、男性にとって不利益になる部分は出てくる。というのも、これまでは「女性を搾取することで男性が得をするようにできた社会」だったものを、「女性を搾取しないようにして、それによって男性が得をできない社会」に変えるのだから。最初から"女性搾取による恩恵"がない社会で生まれ育てば、それが当たり前だが、無自覚であろうと、女性を搾取することで恩恵を受けてきている男性たちは、"これまで当たり前に享受できた恩恵にありつけなくなる"という過渡期を経験することになる。それは、男性にとっては、"不利益"になると言うことができる。その上で、「たとえ、男性にとって不利益があろうとも、不当に女性を搾取することで自分が得をする社会のままで良いわけがないから、フェミニズムに賛同する」と躊躇無く言えない男性は、本当に「フェミニズムの味方」なのか、と考えてみてほしい。

 「フェミニズムは女性だけのものではない」ということは「男性にだってメリットがあるのだ」という意味だろう。そして、「"フェミニズムはみんなのもの"だから、男性もフェミニズムを支持するべきだ」という見解は、裏返せば「女性以外にメリットがないなら、フェミニズムになんか賛同しない」ということになってしまうのだが…?それでは、「女の権利ばかり主張して、男性差別は無視ですかー?」というミソジニストのお決まりの発言と大差ない。
 「フェミニズムはみんなのもの」をやたらと主張する男性に感じる、なんというか卑小さというかダサさは、これに尽きる。君がフェミニズムを支持するのは、社会正義のためではなく、単なる自分可愛さなんだね、と。それを、さも先進的で人権意識が高いかのような顔をして大声で主張しちゃって恥ずかしくない、というのが、例によって無駄にポジティブだな、と感心してしまう。だから、ミサンドリー批判をする男性は滑稽なのである。

ミサンドリーは家父長制の敵である

 すでに見てきたように、ミサンドリー批判は、男性による「フェミニズム語り」の増加と女性の「わきまえ癖」に後押しされて、比較的広く受け入れられているようなのだが、さらに、ここで男性と女性で「自分を含む側の性別が批判されている際の反応の仕方が異なる」のではないか、という話も少ししてみたい。

 男性は、基本的に、国・地域・会社などの所属先と自分自身の境界線が曖昧なひとがとても多い印象を持っている。だからこそ、「男性は…」と男性一般の言動を批判されると、「俺は違う!」「主語が大きい!」と反発しがちである。そして、論理的で客観的で解決脳だと思い込んでいるためなのか、なんらかの価値判断を求められると、対象の社会的評価(受賞歴・年収など)を持ち出すことが多く、自分自身の気持ちをストレートに言語化することをサボる傾向が強い(念のために言っておくが、あくまで「傾向が強い」と言っているのであって、男性全員がそうだとは言ってないから、「俺は違う」とかいちいち言いに来ないでくれ)。たとえば、映画の話をしていて、ある作品が素晴らしいというので、理由を訊いてみても「○○が監督した」「××映画祭で賞をとった」などのデータ関連と「(有名な)映画評論家が高く評価している」という権威に頼った話しか出てこないことが割とある。その映画のどの場面にどう感動したのか、みたいなことを言語化するのをサボるし、女性が「この場面は〜という意味が込められていると思う」と自分の見解を述べると「考え過ぎw」などと小馬鹿にしてくることさえある。音楽にしても似たようなもんである

 一方の女性は、「女性は…」という批判を耳にすると、批判されている(女性のものとされる)言動が批判されることに理解を示し、なんなら一緒に批判をする場合もそれなりに多い気がする。それは、女性自身のミソジニーの影響の場合もあるし、「批判されている言動」から自分自身を切り離す自衛でもある。でも、男性のように、「すべての女が○○じゃない!」という反発の仕方をする女性にはあまりお目にかからない(というか、そもそも、「男性は××である」という批判は、「すべての男性が××である」ではない、ということがわからないのが謎だけども)。具体的には、「女同士ってどろどろしてるって言うじゃん?」と言われた場合、「あー、あるよねー(私は違うけど)」と相づちして、なんなら"どろどろ"の具体例を挙げた経験がある女性もいると思う。そもそも人間同士は、それなりに"どろどろ"したところがあるので、身近に"どろどろ"の具体例がひとつふたつは転がっているのが普通だからだ。(それを無意味に「女性」という性別と結びつけてしまうのがミソジニーなので、ミサンドリーを身につけることで、「いや、男もどろどろしてるじゃん?」とか「あー、でも、男からされた仕打ちの方が酷かったけどね」と打ち返せるようになる。だから、実は、ミサンドリーは、女性差別の是正に役立つのだ。)

 そう考えると、ミソジニーへの抵抗であるミサンドリーに男性が過剰反応することも、ミサンドリー批判に女性がある種迎合的になるのも自然に思える。ミソジニーは「ミサンドリー批判」から生まれたものではなく、女性を搾取する構造に乗っかった女性蔑視・女性差別でしかない。理屈の上ではそれがわかっている左派・リベラル男性は、一応は、ミソジニー批判を是としている。しかし、自分もその批判される対象に含まれることを指摘されると、突然、「俺は違う」「ひと括りにするな」と喚き散らしてしまうケースが散見される。自分を批判対象から切り離したいのだとしても、批判されている女性差別的な言動や構造についてはきちんと認識できているのなら、そちらを女性たちと一緒に批判すれば済むことなのに、それができない、といういつものヤツが「ミサンドリー批判」に繋がっている。
 そして、女性の場合、自分たちが「女は○○だ」と言われた時と同様に、「男性」が批判される言説に接した際にも、「男性全員がそうではない」「男性全員が悪いわけではない」ことを当たり前に認識しているがために、(「男性嫌悪」と訳される)ミサンドリーを不当なものだと見なしがちになるのだろうし、「男・女で分断するべきではない」とも考えるのだろう。
 しかし、ミサンドリーとミソジニーの非対称性を考慮に入れれば、ミサンドリー批判は、女性差別の撤廃に寄与しない。ミサンドリーを批判する暇があるならば、その分、ミソジニーを批判する方が絶対に良いと思うのだ。ミソジニー批判、女性差別批判をする時間・文字数を削ってまで、ミサンドリー批判をしてしまうのであれば、それは、間接的にではあるが、「敵」であるはずの家父長制の延命に手を貸すことになるのではないだろうか。

フェミニズムと出会っても生きやすくならないかも…

 フェミニズムが「売れる」ようになって、というか、フェミニズムが「売れる」ものに加工されていく過程で、「フェミニズムを知れば、悩みが解消される」かのように錯覚させる表現が増えたように思う。確かに、フェミニズムと出会って、「言葉」を得ることは、それまで感じてきた「もやもや」を整理して、理解することに繋がるし、誰かに話したり説明したり共感し合ったりする手段にもある。さらに、言語化されることで、それへの対抗手段を考えることもできる。だから、出会って「楽しい」「楽になる」こともあるというのは事実でもある。私自身も、「フェミニズムに救われた」と言ってきたし、フェミニズムと良い出会い方が出来てラッキーだったと思ってもいる。

 しかし、一方で、自分自身もフェミニズムを最近知ったという女性たちは、古くからの友達はまだフェミニズムと縁がなかったりする。久々の再会が違和感の連続になったり、本当に言いたい事を言わずになんとなく話を合わせる時間になったりする可能性も少なくない。個人の趣味などにおいても、それまでは何も気にせずに楽しんでいたコンテンツで、いちいち引っ掛かりを覚えて楽しめなくなることもある。性暴力加害に敏感になり、関係者の言動などによって、ボイコットせずにいられないコンテンツが増えたひともいるだろう。そういう意味においては、「フェミニズムと出会ったことで生きづらくなる」部分もあるし、自分自身の言動が、フェミニストとしてどうなのか?という葛藤が生まれることや「フェミニストのくせに〜する(しない)のか」と言動に注文をつけられることもある(個人的には、人間は矛盾や葛藤を抱えつつ生きるしかないので、「フェミニストであるならば○○すべき」も「フェミニストであるなら××すべきでない」もあまり過度にやり過ぎない方が良いとは思うが)。自分や自分にとって大切なはずのひとの言動が、実は女性差別である(であった)ことを知るのも、楽しいことではない。自分の抱えるミソジニーを感じるときもある。他人の言動にミソジニーを関知してしまうことも増える。

 しかし、それでも、差別されていることを当然のように受け入れて生きるよりも、自分の権利を主張する方がいいし、女性が下級市民として搾取される社会を後の世代の女性たちにそのまま継承したくはない。だから、男性から煙たがられようと、いつも怒ってばかりいるかわいそうなひと扱いされようと、モテないブスBBAと言われようと、単なるミサンドリーと斬り捨てられようと、フェミニズムを知る前の自分に戻るわけにはいかないのである。自分が、女性であるがゆえに、嫌な思いをした経験、くやしい思いをした経験、それを若い世代にはしてほしくない。

 フェミニズムは魔法の杖ではない。どちらかと言えば、困った時につかまれる手すりとか、参照できる辞書のような存在だ。フェミニズムは答えではなく、答えを導くための手段である。知ることによって、現状を把握して、改善策を考えるために必要なものであって、現状を変えてくれる救世主ではない。それを知らせずに、救世主であるかのように装って、フェミニズムというコンテンツを売ることに、私は批判的である。
 「売る」側のひとたちは、コンテンツが売れればいいので、売れるようなパッケージにフェミニズムを押し込んでしまう。それは、フェミニズムを、一般にふわっと受け入れられやすい表層的なものに薄めてしまうだけなのではないか。いつの時代も、社会を変えてきたフェミニストたちは「行き過ぎ」ていると非難されてきた。ミソジニーを構成要素に含む男性社会が、喜んで受け入れてくれるフェミニズムは、女性の生きづらさの根を経ち切るにはお行儀が良過ぎるのではないだろうか。はっきり言ってしまうと、フェミニズムを「売れるコンテンツ」にしたいひとたちは、自分たちが女性の権利を切り売りしている可能性に無頓着すぎる。そして、フェミニズムを商売道具にしているひとたちは、絶対に、その責任を取らない。そうなると、受け手側にいる私たちにできる抵抗のひとつが、ミサンドリーへの理解を促すことなのではないか、と思う。
 ミサンドリーは、アンチミソジニーであり、家父長制の柱を叩き壊すハンマーである🔨

***

 今回のホルガ村カエル通信は以上です。
 常々思っていることなんですが、「最近(ここ数年で)フェミニズムに目覚めました」系の男性って、ミソジニー批判(なによりも自分のミソジニーと向き合うこと)以上にミサンドリー批判を頑張っちゃう傾向が強くないですか?まず、男性がすべきことは、男同士での啓蒙と自省だと思うのですが、それを差し置いて、「男で括るなー!」とキレて、「ミサンドリーはよくない!」ってなりがち。フェミニズムでまで楽をしようとするなよ、と思いますね。

 中野晃一さんがYouTubeで配信している「男性のためのフェミニズム」シリーズは、きちんと男性を抑圧者として名指した上で、男性にできることは何かを話していて、とても良いので、是非色んなひとに見て欲しいと思っています。このシリーズ、どうやら男性にも好評らしいのですが、「いやぁ、同じこと、割と前から女性たちが言ってたと思うが?」とモヤることもあってですね…。男性(しかも学者)が発信すると素直に聞くんだな〜と、左派・リベラル男性のミソジニーの深さに改めて溜息がでますな。彼らは、きっと「女性は中野さんのように論理的でないから」「女性は中野さんのように歴史的経緯を説明できないから」と言い訳するだろうけど、あなた方は、男性が発信している時と同じくらいに、「相手が何を言わんとしているのか」を理解する努力をしましたか?と問いたいです。

 ミサンドリーについては過去にも色々と書いているので、レターの一番下にそちらへのリンクも貼っておきますね。ミソジニーについてのおさらいや詳しい雑誌記事へのリンクもありますので、お時間のある時に是非どうぞ。あと、過去記事でやたらと「🐻に入れて🔥」って書いてあるのは、『ミッドサマー』ネタです。

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 では、また次回の配信でお会いしましょう🐸
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「私にとってのミサンドリー」:ミソジニーとミサンドリーの違いを考えてます。ミソジニーについての詳しい記事へのリンクもあり。

「ホルガ村へようこそ」:ニュースレターのタイトルの由来とホラー映画の話です。

「あなたのミサンドリーはどこから?」:私がミサンドリストになった経緯。主に、左翼・リベラルとされる人々の中で経験したこと(「おっぱい募金」騒動)などについてです。

「(再録)ミサンドリー批判する男の滑稽」:noteにupしていた音声コンテンツの書き起こし。ミサンドリー批判する男性たちの何が滑稽なのか、掘り下げました。

「ミサンドリーの効能」:なぜ、ミサンドリーは女性差別の解消に役立つのか、を考えました。

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